十一、煤と蜂蜜
ニーナが床を汚してもいいと言ったので、アズはテーブルの上か ら蜂蜜の瓶を取って、床にぼたぼたと蜂蜜を零した。そのまま杖の足を蜂蜜に浸して、広げて。さらさらと陣を床の上に描いてしまった。その速さに、僕は驚か された。一緒に逃げた時の簡素な陣にも驚いたけれど、これは丁寧に描いているのに速い。多分、模様も含めて丁寧に描いたのは、それだけニーナを危ない目に 合わせたくなかったからなんだと思う。
ニーナが、車椅子の車輪が汚れちゃうよ、と言って笑った。ああそっか、と言って、目を伏せたまま梓も僅かに笑った。車輪の跡が、せっかく描いた陣を轢い て消しちゃうよ、とニーナは言った。梓は、それでもいいよ、と首を傾けた。その会話の間、カイヤはニーナの車椅子の取っ手を握って、黙っていた。アズは ニーナと目を合わせなかったけれど、二人が赤白い光に包まれて消える間際、目だけでようやくニーナを見た。ニーナはずっとアズを見ていたし、アズが自分を 見てくれたのをちゃんと気づいて、花が咲くみたいに笑った。アズとニーナは、やっぱりどこかで心がつながっているんだと思う。ニーナのことを目を輝かせて 語っていたアズよりも、今のアズの方が、僕はなんとなく好きだと思った。うらやましいな、と思った。
ニーナとカイヤがいなくなった後も、アズはしばらくぼんやりとして立っていた。手持ち無沙汰なのか、無意識なのか、杖の足を床に乗せたままゆらゆらと前 後に揺らした。足は陣の線の上に引っかかって、床を更に蜂蜜で汚した。僕の鼻の中いっぱいに蜂蜜の甘ったるい匂いが染みついて、しばらく取れなさそうだ。 僕は鼻を手の甲で擦った。
アズの服の裾を引くと、アズはぼんやりとして振り返った。アズの左頬――ビオラの紋に、窓から射した光が被さって、光る涙の跡みたいに見えた。
「……ああ、そうだね、そろそろ出かけようか」
アズはふにゃりと笑って首を傾けた。
「ユークの用事、って何? 聞いてなかったね」
「……それは、いいんだけど」
僕は窓の外を見た。紫しか見えない景色が、今はなんだかもの悲しく感じられた。
「歩いて行ったら、僕はまたあのラベンダーを枯らしちゃうよ」
僕はアズの目をまっすぐに見た。
「それでもいいの?」
アズはぼんやりとした眼差しで、窓の外の景色を顧みた。
「うん……」
アズは目を閉じた。
「いいよ、別に」
「それ、結構、僕傷つく」
僕は正直な気持ちを言った。アズは俯いて笑った。多分、僕の気持ちを勘違いして。
「……うん、ごめん。もっと言うとさ、ユークがあのラベンダー畑全部枯らしてくれたらいいのにってさえ思っちゃったよ、さっき。だめだね、僕。だめだ」
「そんなのは、いいんだけど」
僕は揺れたアズの前髪を眺めていた。
「枯らすのは、別に構わないんだけど」
僕は両手を広げて、爪痕だらけの自分の掌を見つめた。
アズは何か勘違いをしている。僕はもう、花を枯らしてしまうことを嘆く気持ちなんてとうの昔に乗り越えちゃってるんだ。それに、多分僕は花がすごく好きってわけでもない。僕が花魔法使いになったのは、妹が花が好きだったからだ。故郷に咲き誇る、
その点で、本当は僕とアズって似てるんじゃないかと思ったりする。アズを見ていた思ったんだ。多分アズって、そこまで花が好きなわけじゃない。ただ、ニーナを喜ばせたかったから花魔法使いになって、花に詳しくなっただけって、そんな感じがするんだ。
僕が傷つくとしたら、それはアズがせっかく咲かせた花を枯らしていいやと自暴自棄になってることだ。ビオラの花の紋を持ってる人が、花を枯らしていいって簡単に考えたことなんだ。
だってそれは、僕が喉から手が出るほど欲しかった花の紋なのに。僕の欲しかった、花畑を作れるだけの力を持ってる人なのに……って。僕は乾いた唇を舐めた。
「アズは、どうしてその花の紋なの。ラベンダーにすごく思い入れがあったんだよね? なのに、なんでラベンダーじゃないの?」
アズは、唐突な僕の言葉に戸惑ったようだった。アズは自分の左頬を撫でて、考え込んだ。何も見ていない目は、暖炉の方へと向けられていた。ふと僕は、そ こにニーナが手紙みたいなものを投げたのを思い出した。火はとっくに消えていた。なんで消えたのかな、と思ったら、不意に違和感が体中を駆け巡って空恐ろ しい気分になった。
誰も火なんて消してないのに、いつの間に消えたんだろう? あんなに、燃え盛っていたのに。
「なんで……そう、そうだね。うん、あんまり気にしたことはなかったんだけど。ラベンダー畑は作りたかった。でも別に、自分の花の紋にしたいほど好きなわけでもないんだ。あんまりいい匂いとも思わないしさ」
僕は、梓の言葉に思考を引き戻された。けれど違和感は、その後もずっと僕の体に気怠く残り続けた。
「そう、かな」
僕は自分の指をもう片方の手で握って、爪を掻いた。爪と爪が擦れて、音が鳴った。
「うん。あんまり」
アズは僕の指に視線を移しながら、のんびりと言った。
「それに、ラベンダーの種って、あの時はどこを探してもなかったんだ……ほら、ユークも知ってるだろ。魔法学校でさ、入学試験の後、持てる花の種を選べた じゃない。一応探したんだけど、ラベンダーの種なんて、選べる中にはなかった。僕がさ、役人になんてなったのは、別に世界の役に立ちたかったからじゃない んだ」
「優秀だったからじゃなくて?」
僕の言葉に、アズはくすりと笑った。
「さあ……僕より優秀な人だってきっと他にもいただろうし。でも、僕が自分から志願して、面接も受けたんだよ。なんでかっていうとね、ラベンダーの花の種 が、王宮にしかないってわかったからさ。不思議なんだよ。もっと綺麗でもっと匂いの優しい花はたくさんあるのに、ラベンダーって厳重に管理されてるんだ。 これも、所持許可もらうのにはすごく苦労した」
アズは、空になったラベンダーの種の袋を懐から出して、ひらひらと降った。僕はぎこちなく笑った。
「じゃあ、ラベンダーの種をくすねるために、役人になったって感じなの?」
「はは、内緒ね。まあ、もうお尋ね者だし、いいんだけどさ」
「アズって結構、ずるいとこあるよね」
「まあね」
僕とアズは、しばらく二人で笑いあった。僕は胸座をきゅっと押さえた。
花魔法使いを目指す子供は、魔法学校に入学して間もなく二袋の花の種をもらうのだ。
一袋は、卒業までの練習用。もう一袋は、卒業試験用。
花を咲かせられなければ、花魔道士じゃない。だから、もらった花の種を授業中や休み時間に練習して芽吹かせるのが生徒の宿題だ。花を咲かせることができ るようになったら、卒業試験を受けられる。先生たちの目の前で、二つ目の袋から種を蒔いて、その場で花を咲かせる――それができたら、卒業になる。
そして、その種の花が、僕達の花の紋になる。花を咲かせられるようになった時点で、僕らはその花と魂を共有してしまうのだ。僕の紋が勿忘草なのは、僕がもらった花の種が、勿忘草の種だったからだ。
そして僕は、よく覚えている。
もしかしたら、僕とアズは同じ年に入学したのかもしれないと思う。僕の欲しかったビオラの種をもらっていたのは、アズだったのかもしれないって。
詮索したくなんか、ないけど。したって意味はない。僕の花の紋がビオラでない現実は、何も変わらないんだから。
「アズ、僕ね」
僕は、蜂蜜を爪先で踏んで、声を絞り出した。足で床を撫でつけると、強い蜜の香りがまたふわりと漂ってきた。
「ほんとは、ビオラの紋が欲しかったんだ。僕の妹が、欲しいって言ってた花だから」
顔を上げると、アズは静かな表情で僕を見ていた。まるで驚いていないところを見ると、もしかして、知ってるのかなって思った。僕に妹がいたこと。罪人の書状か何かに書いてあったのかもしれない。
「そっか」
アズは柔らかく笑った。
「じゃあ、僕と似てるね、動機は。たぶんね」
「うん」
僕は目を閉じて、蜂蜜まみれの床を踵で打った。
「妹に――アイオって言うんだけど、アイオに、ビオラの花束をあげたかった。花畑なんてのは考えたことなかったけどね。だって、自分の能力の限界は分かっ てたし、そんな発想自体無かったよ。ただ僕は、大人の人達が大切な人に造花の花束を贈るように、本物のビオラを花束にしてアイオに笑ってほしかったんだ」
込み上げてきた苦しさを飲みこんで、僕は喉を鳴らした。
「……叶わなかったんだけど」
「妹さんが病気だったって言うのは、報告書で読んだよ」
アズは穏やかな声で言った。
「君が、妹さんの病気の治療に必要だったから、何かの花を咲かせて、摘んだって。そう書いてあった。何の花かまでは書いてなかったけれど」
アズは一度目を伏せて、また視線を上げた。僕より少しだけ背の低いアズの暗い瞳には、僕の姿が小さくくっきりと映っていた。
「それ、違うよ」
「そうなの?」
僕は、上手く動かない頬を動かして、ぎこちなく笑った。
「病気の治療に必要だったんじゃないよ。それは、プレナが……プレナっていう、医者をやってたやつが、そういう嘘をついて僕を庇おうとしただけ……」
堰き止めきれない、濁った雨水のような何かが僕の身体の底から湧き上がってきた。僕は思わず唇を指で触って、俯いた。罪悪感だとか、ざまあみろだとか、 いやだとか、悲しいとか、変な気持ちがぐちゃぐちゃに混ざって、目の奥がずきんずきんと痛みだす。僕は喘ぐような息を零しながら、乾ききった唇を舐めた。 何度かそれを繰り返して、ようやく僕は、次の言葉を吐きだせた。
「僕は、ビオラを三つ……たった三つだよ。たったの一株だよ。それを盗んで、摘んだだけだよ。それを咲かせて、種にして、種を持って故郷に帰った。でも、 もう遅かった。遅かったんだ。アイオが病気だったのはほんとだよ。でも、死んだよ。死んじゃったよ。僕が呑気に勉強してる間に、いなくなっちゃってた。知 らなかった。誰も教えてくれなかった。教えてくれるはずもなかったんだ。だって僕ら、他に家族なんていなかったんだからさ」
僕は胸座をぎゅっと掴んだまま、顔を上げてアズに笑いかけた。歯を見せて。でも、うまく笑えているか、わからない。
アズは、まるで栗鼠みたいに目を丸くして、僕を見ていた。アズの瞳に映る僕の姿は、頭が小さくて、足も小さくて、胸だけが大きく膨らんでいる。滑稽だ。すごく滑稽だと思った。僕は歯を食いしばって、もう一度笑う振りをした。
「でも、プレナは……いいや、まあ、そんなことは。あいつ、アイオの面倒みてたくせに、僕に教えなかった。だから僕はあいつのこと嫌いだし、庇ってもらい たくもなかったし、死んだ時ざまあみろとさえ思ったんだよ。でもね、プレナは昔から僕たち兄妹を気にかけてくれてた幼馴染で……いなくなったら、ぽっかり心に穴が開いた。プレナを恨んでどうにか保ってたのに、なんだかもう、どうしたらいいかわからなくなったんだ。それでも、お墓のまわりにせめてビオラの花 を咲かせてあげたいなって思って」
僕は、不意に涙の出そうになった目を慌てて押さえて隠した。泣いてやるもんか。まさか、未だに話したら泣きそうになるなんて思わなかった。乗り越えたって、思ってたのにな。閉じた目の先で、アズが僅かに身じろぎしたのが音でわかった。
「それで、アイオのお墓の傍に行って、ビオラの種を巻いて、咲かせたんだ。プレナが死んだ後だよ。僕ね、持ってた種全部取られちゃって、杖も取られちゃってさ、だからビオラの種だけ口の中に入れて、絶対にしゃべらなかったんだ。そうしたら、勝手にプレナが僕を庇って僕の罪を被っちゃったんだ。杖なくてなくても、花は咲かせられるのにね、お偉いさんの考えることってよくわかんないよ。口から吐き出して、やっとアイオに、花をあげられるって思ったのに」
僕は体を折って、もっと強く目を押さえた。ようやく収まった泣きたい衝動に、目から手を離したら、視界はまるで泣いた後みたいに白くぼやけていた。
「咲いたと思ったら、枯れたんだ。嘘だろって思った。でもね、その瞬間、辺りに生えてた
僕は、息を荒く吐きだして、顔を上げた。ようやく、頬が上手く動いて僕は上手に笑えた。アズはただ、さっきと変わらない眼差しで僕を見ていた。手に握っ た杖が、ぷらぷらと揺れている。もう少しで、床に落ちてしまいそうだった。僕は杖の柄ごとアズの手を取って、両手で包み込んだ。
「アズの花の紋を見た時、最初、何を感じたらいいのかわからなくて、途方に暮れた。もしかしたらすごく憎らしかったかもしれない、でも同時に――なんだか よくわからないな、嬉しかったのかな、憧れたのかな、なんだか、すごく、懐かしいなって思ったんだ……うまく言えないな。アズのこと嫌いたいのに、出会い がしらから変なことばっか言うから、嫌いきれなくて、名前まで聞いて来るし、助けてこようとするし、なんだかもうわけわかんなかったよ。それでね、カイヤ が、僕を逃がすためにアズに頼まれて来たって言うから、なんかもう胸が苦しくなって、アズのこと好きになったんだ。僕、ほんとは生きる意味なんか見失って たんだ。そりゃ死にたくはないけど、怖いけど、でもアイオもいないし、プレナもいないし、どうだっていいやって感じだったんだ。でもやっと、僕、アズのた めなら、アズの役に立ちたいって、そうやってしばらく生きたいなって、思って」
「うん」
アズは頷いた。アズの前髪が、ふわりと揺れて僕の鼻の頭をくすぐった。
「……僕は、君のために、何ができる?」
アズは、アズの手を握る僕の手の甲を、空いた方の手でそっと撫でた。
僕は、ずっ、と鼻を鳴らして下唇を噛んだ。少し湿った唇を動かして絞り出した声は、やけに擦れて、甘えた様な声だった。ふと、アズの手がすごく冷たいなと感じた。僕の手が、勝手に熱くなってしまったのかもしれない。
「アイオのお墓に、ビオラの花をあげてほしいんだ」
僕は言葉を零して、また唾を飲みこんだ。酷く喉が渇いた。アズならきっといいよって言ってくれる。そうわかっているのに、怖かった。アズの心なんてわからないから、怖くてたまらなかった。
アズはしばらく目を伏せていた。その黒い睫毛に、空高く昇った日の光の筋が当たって、キラキラって輝いた。それを僕は、花畑を舞う蝶みたいだって思っ た。アズはしばらく睫毛を震わせて、やっと僕を見ると、悲しげに眼を細めた。アズがどうしてそんな表情をするのか僕にはわからなかったし、わかりたくもな かった。アズがどういう感情を――同情だとか、憐憫だとか、そんなものを僕に向けているのかなんて、理解したくない。
だから僕は、ただアズが僕を心から想ってくれてると思い込むことにした。本当はそんなことないって知ってるけど。だって、アズの心の中ってニーナしかいないじゃん。カイヤも僕も、多分入り込めないよ――
そこまで思って、ふと僕は、自分がカイヤのことを何であんなに嫌いだったのかわかったような気がした。
……僕がずっと、アズに望んでいたことがわかったような気がした。
アズは僕を見上げて、大きく頷いた。
「いいよ。花畑を作ってあげる。君がいても、枯れきらないくらい、たくさん」
アズは柔らかい声でそう言った。
それを聞いた途端、僕の胸に鋭い痛みが走った。吐きたくなった。胃の中のもの全て吐いて楽になりたかった。けれど吐き気さえ湧き上がっては来ない。僕は、自覚した自分の浅ましい願望に、叫び出したくて、気が狂いそうになった。
僕はずっと、アズに妹のための――僕のための
僕は、アズと仲良くなりたかった。アズにずっと、この話をしたかった。カイヤの前で、話すことが嫌だった。あの自我の強い、情の塊みたいなカイヤに、僕 の浅ましさを見透かされるのが嫌だったのだ。だから僕はカイヤを毛嫌いして、アズと二人きりになれることを望んだ。なんて、僕って醜いんだろうな。
僕は、火の消えて冷え切った暖炉を見遣った。ふと、その灰色の炭の中に何か白いものが見えた。がんがんと痛んで熱っぽくなった頭で僕は、もう一つの衝動 を抑えるのをやめた。考えるのをやめた。ありがとう、って言うのもそこそこに、僕は少し歩いてアズから離れ、屈んでそれを指で触った。紙だ。
「どうしたの?」
背中の向こうでアズが不思議そうな声を出す。僕は長い指でそれを掌の中に引き寄せて、振り返った。
「なんか、虫がいた」
「ええ? さっきまで燃えてた暖炉なのに? 死んでるんじゃない、それ」
「うん、死んでた」
僕は笑って頷いた。アズは柔らかい表情をして、玄関に足を踏み出した。アズの歩いた跡に、金色の蜂蜜がべったりとついていた。
「じゃあ、行こうか。水晶通りだよね。時間もないし」
アズは扉を開けて、外の光を浴びながら笑った。
「うん」
僕は、炭で汚れた手をポケットに入れて、頷いた。
アズは僅かに俯いて、もう一度顔を上げて僕を見た。くしゃりと笑った。
「……話してくれて、ありがとう」
アズは首をこてりと傾けた。さらさらとした黒髪が、ふわりと流れてアズの頬に被さる。アズは扉の外に出た。僕を少しだけ、一人にしてくれようとしたのかもしれない。
僕の胸の奥で、温かくて痛い何かが生まれて、蕾をつけた。僕は僅かに震える手でポケットから手をとりだして、焦げ一つない白い紙を広げてみた。ニーナは何を読んでいたんだろう? ニーナがアズに見せないで、アズが書いたと言った手紙は、一体何なんだろう。
『
僕、君を描いてから一度も人間を描かなかったんだ。怖かったから。だから花の絵ばかり描いていたんだけど、なぜかとても売れたんだ。ああ、あと、勿忘草。あれは毎年ちゃんと植えたよ。あとね、君が土手にばら撒いた種は、少しだけ花を咲かせたけど、あの土手、なくなったんだ。だから君の植えた種は潰れて しまった。まあ、そうなってもいいと思ったから、あんな風に適当に蒔いたんだろうけど。
僕は、君がいなくなった時、一瞬本気で死のうかなって思ったんだ。でも、とりあえず、君と約束したろ。ルーマニアの修道院を見に行きたいって。高校でバ イトして、一緒に行こうってさ。結局、僕は周りに推されて大学まで行ったから、渡航するのは遅くなってしまった。今もまだ大学生なんだけど、今は交換留学 中なんだ。モルドバの芸術大学に通ってる。なんでそこにわざわざ行くんだって周りからは色々と言われたんだけどさ、この国は日本が色々と支援しているらし くて、時々日本と交流美術展も開かれたりしてるんだ。だから、まあ、そんな感じの理由を並べて、納得してもらったんだよ。
本当は、どこでもよかったんだ。医療が杜撰なところであれば。』
そこには、僕が知らないはずの、奇妙な文字が並べてあった。それなのに、僕はその言葉の音を理解した。知らない文字列を目で追う度に、頭の中でもう一人の僕がそれを朗読しているみたいだった。
勿忘草――その言葉に、心臓がどくりと音を立てる。理解できない単語たちの中で、それだけは唯一僕が知っている言葉だった。僕の額の、花の紋。僕があんまり好きになれない、でも嫌いじゃない花。
「【
僕は擦れた声で呟いた。
心臓がどくどくと激しく鼓動するのを肌の奥で感じながら、僕は急いでそれを畳み、ポケットにしまい直した。煤で汚れた手を服になすりつけた。
僕は何か、怖いものと関わろうとしているのかもしれない。妹への花束と、たったそれだけのものと、引き換えに。喉をごくりと鳴らして、床を蜂蜜で汚した まま、僕はアズを追いかけた。玄関を出る前にちらりと振り返って見た、家主をなくしたその家は、まるで時の止まった場所に見えた。床の蜂蜜には、もう蟻が たかっている。不快な心地になって、まるで僕は蟻だなって思ったらもっと嫌な気分になって、僕はもう一度喉を鳴らして心を飲みこんだ。
これが終わったら、本当にアズのために生きるから、恩返しするからって。そう言い訳をして。光の中に飛び込んだ。一面の紫色の中へ。
僕はまた、僕のせいで世界が紫色を失う様を、見たのだった。
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