第四章 絵画の中に哭くケモノ
十七、夢
夢を見ていた。
夢だと気づいたのは、僕が夢の中で、幼いニーナに触れた時。僕はその手を、僕の手ではないと思った。僕であり、僕ではない大きな、骨ばった手。
僕は大人である僕を知らないはずなのだから、それは僕ではない。こんなことを言うと、まるで理詰めの不確かな考察だけれど、夢の中だから思考も曖昧だ。
透明な青の絵の具をよく水に溶かして、塗りたくったような透き通る曇り空。雨が降りそうだな、と僕は思った。その空からパラパラと何かが降ってくる。紙切れだ。画用紙の紙切れだ。ばらばらに破れてしまった、紙切れだ。
それらは僕の足元に降り積もった。まるで誰かの涙のように。僕はそこで初めて、自分が湿った土の上に裸足で立っていることも、自分の視界が妙に高いことも意識した。僕には今の僕の顔が見えない。眺めた両手は、覚えているはずのそれよりもずっと大きくて、骨が太くて、細いものも太いものも青い血管が浮き出ている。僕は白い服を着ていた。白い服と、朽ち葉色のズボンを履いていた。鏡があれば、今の自分の顔を見れるのにとも思ったけれど、そう都合よく鏡は現れない。夢でもあるまいし、と僕は自嘲したけれど、後で思えば、僕の夢はその時点でまだ、僕に僕の顔を見せたくなかったのだ。僕に、今夢から覚められてしまっては困るから。
土の上で重なった紙切れたちはいつの間にか風で散らばっていた。僕はそれを、ジグソーパズルのピースをはめるように、重ねていった。僕の眼下で、破られた絵の輪郭が蘇る。その途端、ふわりと花の香りが僕の鼻腔をつついた。僕は意味もなく振り返った。そこには暗闇しかなかった。諦めて視線を戻したら、画用紙があったはずのそこには、一面の花畑が広がっていた。淡い紫色の、粉めいた景色。ラベンダーの花だ。僕はその時点で、自分の後ろに広がっていた暗闇をすっかり忘れた。僕は半ば無意識に足を踏み出して、ラベンダーの群生の隙間を歩いた。
『君は、ラベンダーが好きなんだね』
「うん」
声が聞こえてくる。どこからか。空の上からのような気もするし、地中の奥深くからのような心地もする。ラベンダーの花芯から震えて届いた気もしたし、もっとずっと近く――僕の頭の中から響いてきたようにも思った。
『どうして?』
「ニーナに、会えたから」
僕は、自分の口から出た言葉を噛みしめた。自分でも、何を言っているのかよくわからない。
心の一番やわらかい部分を掴んで千切って、パンの屑みたいにぼろぼろ零しているような心地だ。今だけは心が満たされているけれど、またすぐに恐ろしくなるような予感がする。空腹が満たされる感覚と、次の空腹に怯える心地。
『でも僕は、ニーナのことなんてどうでもよかったよ』
声は言った。とても静かな調子だった。僕は足を止めて、ぼんやりと紫色の景色を眺めた。辺りには温い風が漂っていて、波が寄せるように僕の鼻腔に花の香りを手繰り寄せる。
「どうして、そんなことを言うの」
『だって、本当にそうだったんだ。僕は彼女に特別な思いを寄せなかった。大人だからね。僕は僕を大人だとはこれっぽっちも思えないけれど、でも世間的には僕はニーナよりもずっと大人』
声は穏やかに語る。僕は、うろうろと目を泳がせながらまた歩きはじめた。歩きながら、まるで僕は誰かを探しているみたいだと、他人事のように思った。
『僕はニーナに酷いことをした。だから君がニーナに好きを返してもらえないのは、仕方ないことだよ。ごめんね』
「なんで、」
僕は擦れた声を歯の隙間から漏らした。
「どうして、あなたのせいで僕が謝られなくちゃいけないんだよ。わからないよ」
『君は僕だから』
「あなたは僕じゃないし、僕もあなたじゃない」
僕は、自分でも驚くほどにはっきりと、そう呟いていた。
「どんな酷いことをしたのさ」
『彼女の目の前で、死んでみせた』
僕は再び立ち止まった。僕は目をゆるゆると見開いた。紫と青の滲む景色の奥に、小さな人影が見える。僕の心が跳ねた。ああ、どうやら僕は、よほどあの子のことが好きらしい。豆粒のようなあの色を、あの子だと信じて疑わない。僕は両手で顔を覆った。心臓がどきどきと鼓動して、苦しい。泣きたいくらい愛しくて、同時に憎たらしい。僕に語りかけてくるこの声が、疎ましい。
「目の前で?」
僕は顔を覆ったまま、声を拾った。声は小さな吐息を漏らした。
『そう。本当は、見ていないところで死にたかった。なのに、あの子は僕をいつも通り迎えに来た。だから僕は、ニーナの目の前で死ぬしかなかった。その後のことは知らない。僕はもう、考えない』
「無責任だ」
投げやりに放たれた滲む声に対して、僕は舌を鳴らすように毒づいた。胸に針が刺さったように痛い。僕は、視界の向こうの小さな人影の傍へ駆け寄ろうと足を上げた。泥のまとわりつく足は思うように動かない。僕がのろのろとラベンダーの花をかき分け進む中、やがて空からはぽつぽつと雨が降り出した。体が冷たく冷えていく。僕はそれでもぬかるんだ土を踏み続けた。遠い。遠い。見えているはずなのに、なかなか辿りつかない。焦燥感と苛立ちばかりが募る。僕は知っているのだ、あの子に――ニーナの傍にさえ行ければ、僕の今のこの苛立ちも安らぐこと。
『ニーナが、僕を許すはずがないし、許さなくていい』
声は、ねっとりと僕に囁く。
「だから、なに」
僕は吐き捨てた。
「ニーナの気持ちの、何がわかるっていうの。あなたに」
『君こそ、何がわかるっていうんだよ』
声は嗤う。
『ニーナに酷いことをした僕を、僕の姿をした君を、ニーナが愛してくれるはずないのにさ。なぜなんだろうね? どうして君は、そうなんだろう。吐き気がする。僕はそんな気持ちこれっぽっちもなかった。今までずっと一人だったし、一人の方が心地がいい。愛されたがっている君を見ていたら気持ちが悪い。それは僕の気持ちじゃないのに、僕の言葉ですらないのに、君が僕の顔で、声で、変なことを言って、思い悩むからさ。やめて。もう、やめてくれ。頼むよ』
「いやだ」
僕は、怒鳴った。その声にニーナが振り返った。僕の知っているはずのニーナよりもずっと背が低くて、頬もふっくらしている、幼い少女。長い髪を二つにリボンで縛って、淡い紫色のワンピースを着て。大きな目が、僕の姿を映している。そこに映る白い輪郭の僕は、僕が知るはずの僕の姿よりずっと大人びて、髪も少しだけ長かった。僕の心に、温い安堵がじわじわと広がって、冷え切った体を温めていく。
「ニーナ、濡れちゃうよ」
僕は笑った。
「私の世界には、」
ニーナはどこか虚ろな眼差しで、震える声で言った。僕が知っているより、ずっと幼い声。たどたどしい話し方で。
「ずっと、雨が降り続けているの。私も、濡れたいの。探しているの。あなたの、心の在り処を」
僕はニーナの頭をそっと撫でた。撫でながらふと、これが僕の手だったらいいのにと思った。僕だけがニーナを撫でる権利があって、僕の手をニーナが喜んでくれたらいいのに。そんなことを考えてしまって、そうして僕はやっと、これが僕の夢なのだと自覚した。夢だと感じてしまえば、腑に落ちることがたくさんあった。魔法も使っていないのに現れたラベンダー畑。僕が知らないはずの幼いニーナ。聞こえるはずのない、不思議な声。
「ここが、本当は僕のいるべき場所なんだね。画用紙の向こう側の、外側の」
僕は、震える声で言った。それが僕自身の世界だと思い込みたかった。ニーナの瞳に映る僕が、僕の物であってほしい。僕自身であってくれたらいいのに。そうすれば、僕は、ニーナに。
ニーナは僕に両手を伸ばした。僕はニーナの身体をそっと抱き上げた。僕の首に腕を回して、ニーナはそっと囁いた。
「アズじゃないの。アズじゃなくて、梓の場所だよ、ここは。梓と私の、場所」
ニーナは頬を僕の首にすり寄せた。
「あなたの場所じゃないの」
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