十八、傀儡は夢に酔う

 真っ暗闇。

 色鮮やかな紫の世界が消えて、視界が暗闇に覆われている。目を開けても、そこは薄暗がりだった。天井から下がるランプの輪郭が、辛うじて細い白い線を模って見える。

 夢から覚めたのだ。僕は体を起こした。頭が少しだけまだ痛いけれど、眠る前に比べたら和らいでいる。少し冷静に考え込むことができるくらいには。

 ドアの隙間からは、光が漏れている。元々ありあわせの物でドアを作ったのか、板を打ち付けただけのドアは隙間だらけだ。そこから見える光が少しだけ眩しい。部屋を見回すと、机とベッド以外には何もない、簡素な部屋だった。

 夢から覚めたはずなのに、夢の余韻がまだ消えない。今度の夢は、はっきりと覚えていた。僕は認めざるを得ないようだ。僕とニーナは、本当はこの世界の住人ではないのかもしれないって。この歪な世界に、迷い込んだだけなのかもしれないって。

 そう考えると、妙にしっくりと来るのだった。花が枯れることのない世界。死んでも画用紙の切れ端になるだけの体。魔法。

 僕の身体の奥深くで眠っている記憶が、『それはおかしい』と僕に違和感を伝えてくる。そんなもの僕は知らない、普通じゃないって。そして僕自身はその声にこう答えるのだ。そうじゃない、君の言う違和感こそ、僕が知らないものだって。そういう自問自答を、ずっと心の中で繰り返してきた。そんな禅問答は、きっと僕の無意識下でずっと繰り返されていた。それをようやく意識し始めて、僕の心はもうぐちゃぐちゃだ。いつから? どこから? 多分、ユークに出会ったその時から、ずっと。

 花を枯らしてしまう哀しい少年に出会って、そんな少年の心の悲しみに寄り添いもしないで、ただ排除しようとするだけの世界に憤りを抱えて。同じように炎に愛されたカイヤに出会って、もっとわけがわからなくなって。僕が抱えていたたった二冊の禁書に目くじらを立てた大人達に失望して。――本、そうだ、本。僕はあの本をどこに置いたろう。読まなければ。あれを読めば、僕の中できっと一つの答えが出るのだ。どちらの世界が本物なのか、まだ信じ切れていない僕に、きっと確実な諦めをくれる。


 ――『ここは、――と私の、場所。あなたの場所じゃないの』


 ベッドの上で身じろいで床に足をつけた途端、僕の脳裏に夢の中のニーナの言葉が蘇って僕の心をチクチクと刺した。僕は、口の端に笑みを浮かべた。さあ、どうかな。もしも世界が二つだとして、ニーナとそいつがあちら側の人間だとして、ニーナが今いるのはこっちの世界で、一緒にいるのは、僕だよ。

 夢の中の声――もう一人の僕が、僕はニーナに愛される資格がないと言った。それはもう一人の僕が、ニーナを深く傷つけたからだと言う。だからニーナは僕のラベンダー畑を喜ばず、僕が帰ってくる前に、つないだはずの手を離して、お城に行ってしまったとでも? はは、そんなの、納得できるわけがない。僕は花の紋を撫ぜるように頬からずりずりと顔に手を這わせ、目を覆った。指の隙間に髪の毛が潜りこむ。それが邪魔で、僕は指で髪を掴んだまま緩く引っ張った。

 僕に原因があって、僕にはその原因もない、とか。そんなの、ああ、頭が痛くなりそうだ。なんなんだよ、一体。

 顔から手を離して、顔を上げる。薄暗闇の中でも辛うじて、机の傍のごみ箱に沢山のごみが押し込まれているのが見えた。紙を丸めたものだ。暗闇の中で、くしゃくしゃになったその白い紙の塊は、浮き上がって見えた。じっと見つめていたら、スフェンの物言わぬ背中を思い出した。床を掃くような箒でアメジの亡骸を掃き寄せていたスフェン……。

 アメジは画用紙になってしまった。ただの破れた紙に。不意に、指先にあれと同じ画用紙を引き裂く感触が蘇った心地がして、僕は自分の手を見つめた。ずっと昔、いつかどこかで、僕はこの手で画用紙を引き裂き、バラバラにしたような気がするのだ。肌に紙が擦れるざらりとした嫌な感触、破れる時の不快な音。それらが不意に感覚的によみがえってくる。それと同じものを、眠る前にも感じた。アメジの亡骸が画用紙の破片だと気づいたその瞬間から。

 僕は恐ろしかった。僕がいるこの世界が、《マグ・メル》が、唯一ではないと――僕はここではない別の世界を知っているだとようやく気付いた。薄々感じていて、けれど考えないようにしていたのに、眼前に突き付けられた。僕の知る世界は、ここではないって。僕がこの世界に怯えるのは、その世界のことを少しずつ思い出しているからだ。そのことに、ようやく気付いた。ああ、ここは、違う。僕の知っていた世界と違うんだって。

 この世界は偽物だ――ユークが隣で、アメジの死に狼狽え叫ぶのを聞きながら、僕はそんなことを考えていた。すとんと腑に落ちた。自分が、この違和感の方を、死体が画用紙でない世界のことを本物だとすんなり信じていることだけが、僕の心を少しだけ傷つけた。罪悪感のようなものだ。この世界を偽物だと嘲ることに対する罪悪感。でもそれだってどうでもいい。薄情だ。自分のことを、薄情者だとしか思えない。けれど僕は、そんなぺらぺらの亡骸を知らない。人の死は、そんな紙切れじゃない。もっとずっと苦しくて、何も残らない。僕はそれを知っている。あの程度で心がかき乱されるなんて、まだまだだよ。もっとずっと、どれだけ、苦しいか――どうして苦しかったのか、思い出せやしないくせにそんなことで憤る僕は、滑稽だろうか。

 口元に笑みが深く刻まれる。自分で、自分が狂ってきてるなとなんとなくわかった。僕の小さな良心が呟く。それ、お前の記憶じゃないんじゃない?って。知らない。理解しない。僕が僕だ。ニーナを傷つけたのも僕で、あの景色を知っているのも僕。人の死の虚しさを知っているのも、画用紙を引き裂いたのも僕。全て僕だ。僕であればいい。だから僕は、僕であった証拠を探さなければいけない。この世界がごまかしで、僕はあの雨に濡れた、ニーナを見下ろす青年だって。

 ドアの向こうから、カイヤとユークの声が籠って聞こえる。まるで雨音のような声たちだと思った。夢から覚めて、文字通り夢から覚めて。僕はユークやカイヤと違う場所に立ってしまった。そんな気がする。

「おう、起きたかよ」

 ドアを開けたら、橙色の光が僕の目をついた。カイヤが笑う。僕はその笑顔を、無機質な気持ちで見つめた。カイヤはなぜか、僕が城から盗んだ本の片方を手に持っていた。それを勝手に読まれたことに、なぜだかじわりと傷口から生温い血が滲むような憤りを覚えた。テーブルの前でカイヤと向かいの席に座って、ユークも僕を見ている。ユークの手にも、本がある。ユークは蒼白な顔をして、怯えるように僕を見ていた。少しだけ、心がすんとした。僕の頭はカイヤとユークを見下そうとしていて、心は嫌だとごねている。僕の本当に生きるべき世界と、君達のいる世界は違うよって思いたいのに。ユークのために咲かせたビオラの花畑が、あの丘の景色が、ユークが宵闇に輝かせた緑の蝶が、僕の心にひたひたと雨水を垂らす。あの時の泣きたい気持ちは本物だ。僕は、ユークのことを切り捨てられない。そうしてしまったら、僕が僕でなくなる心地さえする。

 頭の中でたくさんの声がぐるぐると音を渦巻かせる。頭がまた、痛くて重い。僕は前髪をくしゃっと握りながら、カイヤを見た。

「本……読んだんだ」

「お前が寝てたからな」

「答えになってないけど」

「あれ? 何、そのけんけんした声」

 カイヤは面白がっているような声で言った。青い目が僕をまっすぐに見上げてくる。僕は殆ど反射的に眉根を寄せた。なんだか、じっと見られてすごく居心地が悪い。カイヤの考えていることが、何も読めなくて。

「元はお前が勝手に城から借りてきた、もとい、かっぱらってきたもので、お前の所有物じゃないよな? 別に、無断で持ち出されたことに変わりはないし、俺達がお前にいちいち読むための許可取らなきゃならないって筋合もねえし? で、お前は今何に苛ついたの?」

「いらついてはいない……」

 僕の喉から零れた声は、思った以上に弱々しかった。カイヤに見透かされてしまっている。カイヤはにたりと笑って、椅子の背もたれにもたれた。

「ふーん」

 カイヤは本を閉じて、僕にぽん、と手渡した。『歩けない女の子の物語』――ニーナによく似た女の子の、刺繍が施された表紙。

 埃が滲むその表紙に指を立てると、僅かにかたが残る。僕の指の腹には埃がつく。詩集をそっと指で撫でながら、僕はゆるゆると視界を上げた。先にそれを読んだはずのカイヤは、澄んだ笑顔で笑いながら、僕の動向をじっと見守っている。

「君は……これ、読んだんだよね」

「ユークもな」

 ユークは何かを言おうとしてか、唇を反射的に開いて、また閉じてしまった。灰青の目が泳ぐ。ユークはやがて、開きかけの本のページに目を落とした。そのまま、無言でページをめくり続ける。まるで何かを探しているみたいに、視線を文字に滑らせている。

 僕はユークから目を離して、もう一度カイヤを見た。カイヤの胸の内を、僕はやっぱり読み取ることができない。

「何か……感想は?」

「んなもん、自分で考えろよ」

 カイヤはさらりと言った。

「お前の愛しいニーナの話だぞ」

「愛しいとか言わないで、気持ち悪い」

 僕はカイヤから目を逸らした。何も聞いていないのに、カイヤはこれをニーナの話だと言った。気づいているだろうか? それとも、意図的なのか。

 僕は、すうと息を吸って、その本を開いた。夢から覚めて、本のことを思いだして、読もうと思って。こうして手渡されて。笑っちゃうくらいお繕立てされたようなこの状況に、僅かな不快感をもよおしながら。

「画家……」

 ぽつり、と、声が零れる。その言葉に、視界が晴れた。鮮やかだと思っていた世界は、本当はもっと彩度の低いものだったらしい。急に、世界はモノクロに変わっていた。オレンジ色だったはずの灯りは、辺りに白い光を零している。僕の呟きに顔を上げたユークの髪は白く、眼と額の花の紋だけが鮮やかな青に見えた。勿忘草の花弁の色だ。

 ああ、と僕は思った。これが本来、僕の見ていたはずの世界なのだと。そこに、既成の絵の具で抗うように色をつけていく。それが僕の一生だった。ようやく僕は、僕の世界を取り戻した。そうだ、そうに違いない。僕は画家。だから、僕は、画用紙を知っていた。そうか、僕は画家だったのか。画家――

 僕は、目の前の違和感の正体をじっと見つめた。僕に笑いかけるカイヤだけが、僕のモノクロの視界でいくつもの色を持っている。赤い髪も、透き通った明るい青の目も、首や手の肌の色も。彼が来ている服だけが、僕には白と黒に見える。色を失って見える。どうしてそんな風に見えるのか、わからなかった。僕はしばらくカイヤを見つめていた。カイヤは不思議そうに首を傾げた。僕は本をカイヤに渡して、額に手を当て俯いた。

 あるけないおんなのこ。あれはニーナだ。ニーナが画家に寄せる思いが、つたない言葉なのに胸に突き刺さるほど伝わってくる。その画家は僕だと、僕は胸の内で何度も言葉を繰り返した。やがて、口からもその言葉は微かに零れて、僕は口をきゅっと閉じた。

 どうして僕は、物語の画家に嫉妬しているんだろう。それは僕なのに。僕なんだってば。

「どう思った?」

 カイヤが笑う。僕は、ゆるゆると目を見開いた。その笑顔に、見覚えがあった。カイヤの笑った顔なんて、短い旅の間で何度も見たのに、それを僕は初めて自覚した。初めて出会った時でさえ、知らない人だと思ったのに。

 僕は、画家。僕の見た景色はモノクロ。僕の世界で、僕の絵だけが、僕が絵に描きとめた物だけが色を持ち続けた。それから、ニーナ――ニーナ、だけが。

 僕は口を手で押さえて身体を折った。急に吐き気が込み上げてきた。自分がなぜニーナに執着するのか、わかった気がした。僕は色に焦がれていたのだ。色ある世界に飢えていた。だから……だからもしかしたら、色のない世界からこの《マグ・メル》へ迷い込んでしまったのかもしれない。

 でも、だとしたらどうして僕は生きている? 夢の中で、声が言ったじゃないか。僕はニーナの前で死んでみせたって。どうしてこの世界にニーナがいるの? あれは偽物なの? それとも、ニーナも死んでしまっているの? 本当は、ここは、命を持たないものの世界なの――

 はっとして顔を上げたら、ユークが僕を眉根をぎゅっと寄せて見ていた。ユークは椅子から立って、僕の傍に寄り、僕の顔を覗き込んだ。優しい青の色が僕を映す。そこに映る僕は、白い鉛筆でスケッチした絵のようだった。

「絵、なんだ」

 僕はぽつりと呟いた。ユークがより一層眉根を寄せた。僕は口を引き結んだ。僕は人間で、画家で、君達色がある物たちは絵なんだよって言うことは、残酷だろうか。僕は君達と同じものじゃないよって。僕だけが命を持って、君達はただの絵だよって。

「ごちゃごちゃ考える前にさあ」

 カイヤが、歌うように言った。僕たちは顔を上げて、カイヤを見つめた。

「これ、読んだら? 自分が何者か、ちゃんと自覚しろ」

 カイヤの肌色の手には、もう一つの本が握られている。

「知ってるよ。もう。わかった。僕は何者か、この世界のことも、君のことも、さ」

 僕は擦れた声で言ったあと、笑った。まるで自分の気持ちをごまかすみたいに。

 仄暗い優越感を、押し隠すような姑息な真似を。

「へえ。それで? アズ様はどんなご結論を出されたんですか?」

 カイヤは口の端をつり上げて、僕を見据えてきた。

「でも、」

 声が震えた。隣を見ると、ユークは静かな眼差しで僕を見つめ返した。ユークの前では言いたくないという気持ちが、僕の心を駆け巡る。どうしてそんなことを思ってしまったのか、わからない。僕は僕の真実がユークを傷つけると思ってしまっている。だからってどうしてそれに怯えているのか、自分でもよくわからない。僕はもしかしたら、ユークに悪く思われたくないのかもしれない。純粋に僕を慕ってくれて、僕に大切な願い事を託してくれた、僕に安らぎと痛みをくれたこの子に、失望されたくないって。

 僕が今、君達を見下しているって、知られたくない。

「知ってるよ」

 不意に、ユークがそう呟いた。僕の肩がびくりと跳ねた。

「知ってる。さっき、こいつが言ったから。まだ納得できてないけど」

「泣きそうなくせに、強がるなあ、お前」

「うるさい」

 カイヤのちゃちゃに、ユークは低い声で唸った。

「僕たちが絵だって知ってる。アズは? アズの中に、それ以外の結論があるの? だったら教えてよ。一人で世界に蹲らないでくれる? 僕、そういうのやなんだよね」

 抑揚のない声でユークは一息に言った。注がれる青色に耐えきれず、僕は目を逸らして視線を泳がせた。カイヤを見ると、カイヤは相変わらず感情の読めない顔で、口元に笑みを浮かべていた。

「僕は、画家で、」

 僕は震える声で言った。

「君達は、多分、アメジも、僕の描いた絵だ。だから、亡骸も、画用紙で」

「なんでそんな声が震えてんの?」

 カイヤはさらりと言った。

「何? 後ろめたいことでもあるの」

「それは、この世界は、虚構ってことだから」

「さあ、虚構かどうか、決めるの早くねえ? お前が一体どこを見て、何を感じてそんな結論に達したか知らねえけど」

 カイヤは立ち上がって僕の傍に来た。手に持った黒い本を僕に突き付ける。

「全部知らねえで、線引きしないでほしいなあ。そっか、まさかそっちの結論に行くとは思わなかったわ。腹立つな。ほら、これ読んでみろ。読んだ上で感想聞かせろよ。お前にはその義務がある」

「何を……」

「これ、その画家が描いた絵の、画集」

 カイヤはにやりと笑った。

「じゃ、じゃあ、僕の、絵」

「だから、なんでそんな怯えてんの? 何、俺が恐く見える?」

 カイヤは首を傾けて、僕の目を覗き込む。怯えているつもりはないけれど、そう見えるのだとしたら、それは僕にはカイヤの目が笑っているように見えないからかもしれない。

「これは、俺の、友達が描いた絵の画集」

 俺、という言葉を強調したカイヤの言葉の意図は分からなかった。けれど僕は、カイヤのその言葉にはっとした。心が跳ねたと言った方が正しい。

「梓、でしょ。知ってる。僕の名前だもの」

 僕はへらへらと笑った。ユークは目を伏せて踵を返し、また椅子に座った。

 カイヤは笑みを消した。僕の目をしばらく見つめて、やがてゆるゆると眉尻を下げて、苦しげに顔を歪めた。

「……そっか。お前、そいつになりたいのか」

 それだけ言って、カイヤも、僕に背を向けて椅子に戻った。

 僕はとくとくと鼓動する胸の辺りを撫でながら、笑ったまま空いている椅子に腰かけた。俺の友達――その言葉の意味を、深く考えなかった。ぱらぱらと記憶のピースが降ってくる。アズ、カイヤ、ユーク、ウバロ、スフェン……みんな宝石の名前なこと。いつかニーナが、幼いニーナが僕に言ったのだ。僕の名前も、僕の友達の名前もみんな、宝石の名前の頭文字みたいだって。自分だけ宝石じゃないの、ずるいって、頬を膨らませて。目の前の視界は灰色のままなのに、脳裏に浮かんだ僕とニーナの景色だけが色を帯びる。ラベンダーの畑が見える、木の小屋、アトリエ。画用紙に絵具を広げる僕の膝をニーナが叩く。邪魔されたと言って少し怒る僕に、あの可愛い顔でじっと見上げてくるのだ。この世界は僕とニーナのためにある。

 幸せな気持ちで、僕は本の表紙を開いた。そこに僕とニーナの幸福真実が全部記されているはずだ、僕が梓と言う名前の画家である証明が、全部――そう信じて。

「アズ……」

 ユークの声が、ぽつりと零れて床に落ちる。それを僕は確かに聞いたはずなのに、意識さえしなかった。僕は僕が梓であるという証拠に飢えていた。そのことばかりで、多分、大事なことをたくさん見逃していた。カイヤはもしかしたら、僕の返答次第では違う言葉を用意してくれていたのかもしれない。僕が傷つかないように、僕自身を責め苛まないように。けれど僕は、梓になりたいとそればかりで。この世界のことをおろそかにしていた。多分、僕自身のことさえおろそかにした。だからカイヤは、他に言葉をくれなかった。僕にただ、物言わぬ本だけを手渡した。

 だから僕は、打ちのめされることになる。その画集の上に横たわる、画家の壮絶な物語に。


 ページを開いて、一ページ、また一ページ。鮮やかな色と、歪な物語が、そこには。


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