第二章 君に捧ぐラヴェンダー
六、地下道のアジト
カイヤが呟いた〈メメントモリ〉のアジトを示すその言葉に、僕は僅かな驚きを感じながら、同じ言葉を詠唱した。
闇珠通り、七丁目。そこは霞草が咲き誇る区画だ。主に白い花しか咲かないから、転移魔法や転送魔法の陣を敷くには向かず、それらの魔法を使いたければそこから隣の区画である風珠通りか土珠通りに移動してから魔法を発動することになる。
「僕の故郷も、闇の区画だよ。奇遇だね」
「へえ……ちなみに、どこだよ」
僕がぼそりと呟くと、カイヤが言葉を拾って僕を見た。僕達三人を、赤い血のような光が包み込んで、頬に沢山の螺旋模様を当てていた。ユークは僕の服の端を握りしめて、ぎゅっと目を閉じていた。そう言えば、この間もこうやって恐がって、背中を丸めて目を閉じていたなあと思ったら、なんだか微笑ましくて、そして妙に懐かしい心地がした。カイヤはと言えば、なんてことはなさそうだった。《メメントモリ》の活動柄、あちこちに転移することは多かったのかもしれない。僕は目を閉じて、懐かしい風景を瞼の裏に浮かべながら答えた。
「闇晶通り。山荷葉って知ってる? それが咲き誇っている区画だったんだ、僕の故郷は。蕗みたいな大きな葉の上に咲く、小さな白い花――雑草だよ。それだけだとなんてことは無いんだけど、雨や露に濡れると花びらが硝子細工みたいに透明になる。雑草だから、政府からの管理も甘くてさ、よくブルーベリーみたいな青紫色の丸い種ができてた。それをこっそり摘んで……子供の頃は、怖いもの知らずだったからさ。ニーナに食べさせてたんだ。甘くてさ。おいしくて」
「さっきも思ったけど、ニーナって誰だよ」
カイヤは首を傾げた。
僕は目を伏せて、口の端に柔らかな笑みを浮かべた。睫毛に赤い光が反射して、少し眩しかった。
「僕と一緒に育った、家族のような女の子だよ。僕が大好きな子だ。僕はニーナと、ずっと二人で生きてきたから」
「ふーん」
「アズが大好きな子って、どんな子?」
なぜか、ユークがむすっとした様な声で僕に尋ねた。僕はしばらく目を瞬いて、くすりと笑った。
「赤みがかった黄色のチューリップみたいな色のね、淡い艶のある金髪をしてる。少しくせ毛でさ、毛先がくるんってぜんまいみたいに丸まるんだよね。どんなに櫛で梳かしても……あれは本当に面白かったなあ」
僕は思い出し笑いでくすくす笑った。心の芯が、ホカホカと温まる心地がした。
「目は、菫みたいに綺麗な紫色でさ。僕と年は変わらないのに、すごくしっかりしてる。足が悪くて、歩けないから、いつも椅子に座って窓の外を眺めていたよ。花が好きで……本当はラベンダーが好きみたいなんだけど、あの家の周りには山荷葉しかなかったから庭を見るたび退屈そうにしていたなあ。僕はね、あの子にラベンダーの花畑を見せたくて、花魔法使いを目指したんだ。……はは、結果的には、そんな夢叶わないままきちゃったんだけど」
「で、そのニーナって子は他の区画に行ったことがあったのか? ていうか、ラベンダーの咲いてる区画なんてあったっけ?」
カイヤが、何気ないような調子でそう言った。
僕は目を見開いたまま、何も言えなかった。……そう言えば、ニーナはどうして、ラベンダーのことを知っていたんだろう。ラベンダーが咲いているのは王宮の庭だけで、居住区には咲いていない――管理が難しい花の一つだからだ。ニーナを王宮まで連れて来た覚えはないし、ニーナが一人であれを見に行けるとも思えなかった。そう言えば……僕はどうして、花魔法の知識を得る前から、ラベンダーを知っていたんだろう?
――『ああ、お庭が一面ラベンダー畑だったらなあ』
あの言葉を聞いた時、僕は確かにラベンダーの花を知っていた。それが咲き誇る花畑を、記憶のどこかで知っていたのだ。そして、「ニーナは好きそうだものなあ」なんて、ぼんやりと納得したのだ。でも、どうして……?
僕ははっと頭を抱えて、視線を泳がせた。カイヤはちらりと僕を一瞥して、あとは何も言わなかった。頭がずきずきと疼いて、それ以上を考えたくてもうまく考えがまとまらなかった。少なくとも、今わかることは、僕は【花は枯れるものだ】と知っていたし、【ラベンダーの花】の色や形も手に取るように覚えていたと言うこと。紫色の花畑を、どこかで見て知っていると言うこと。そしてそれは恐らく……普通じゃないのだ。
「足が悪くて、歩けない、って言った、よね」
ユークが、僕が腕に抱えたままの本を引っ張りながら呟いた。
「これ……この本、その子と似ているんだね」
【歩けない女の子の物語】の表題を指でなぞって、ユークは僕の顔を覗き込んだ。僕はへら、と笑って頷いた。
「そう。……これを見つけて、中が読みたくて……でも、読む前に色んなことがあったから結局読みそびれてさ、そのまま持ってきたらこの有様だよ。そう言えば、ユーク達はどうして僕の所にまた来たの? そのまま逃げればよかったのに」
「だーから、言ったろ? 俺は転移魔法は使えねえしそいつも使えねえみたいだし、いっそお前をを味方に引き込むほうが早いかなって――」
「僕が駄々を捏ねたんだよ。本当は、あんたにお礼が言いたかったんだ。助けようとしてくれてありがとうって……それでまた掴まっても構わなかった。あの時は、びっくりして、何も言えなかったから。でもちゃんと伝えたかったんだ。それに、この赤髪が、君が禁書を持ち出したって言ったからいても立ってもいられなくてさ。ごめん……勘違いだったら、ごめんなんだけど、でももしかしたら、君、僕のことで禁書なんか持ち出そうとしたのかなって思って」
「はは……まあ、この二つの本は、多分関係がないんだけどね」
「うん」
「あんまり……気にしないで。僕が好き勝手にやったことだから」
「……うん」
ユークは、ふふ、と笑った。幼子のように無邪気な笑顔で笑ったりもするんだなあと、僕はどこか新鮮な気持ちでユークの笑顔を見あげた。
「……はあ……人が気を効かせてやってるっつうのに……まあいいや、おい、着いたぞ」
カイヤの声に、僕とユークはほとんど同時に振り返った。転移は終わって、僕たちは淡いピンクと薄紫色、白のタイルが敷き詰められた通りに降り立っていた。辺り一面に広がる花壇の上で、霞草が綿毛のようにまとまって、ゆらゆらと揺れている。ユークは、喉から細い息を出した。どうしようかな、と僕が考えていたら、カイヤが「こっち」と呟いて、家と家の間の細道に向かってユークの手を引いた。ユークはその手を振り払って、何故か僕と手を繋いだ。結局、何故か僕は左手をカイヤと、右手をユークと繋いだような形で半ば引きずられるように歩くことになった。薄暗い路地裏の壁に、輪郭のがたがたな三人の影が伸びる。タイルとタイルの隙間に、霞草がまだ背低く咲いている。その花を、屋根の上から斜めに差し込む日の光がスポットライトを当てるみたいに照らしていた。ユークの手が強張ったのが、肌で伝わってきた。僕はカイヤの手を払い、ひょいと屈んで霞草をぶちりと抜いた。
「ちょ」
カイヤが眉根を寄せた。ユークは何も言わなかったけれど、頭の後ろに刺さる視線が痛かった。僕は花を眺めた後、小さく呪文を唱えて切れた茎の先に水の玉を纏わりつかせた。土魔法で即席の壺を作って花を挿し、そのまま懐に収めた。カイヤは嘆息して、もう一度僕の手を引いた。いつの間にか離れていたユークの手を僕も掴んだ。ユークは目を伏せたまま、僕に引きずられた。
「……あんまり、自棄になるなよな、おぼっちゃん」
「アズだからね、僕の名前」
「ああそうかよ」
カイヤはぼそりと言った。
そのまま細道をくねくねと進んで、途中でどこかの家の裏戸から中に入った。そこがアジトかと思ったら、中は壊れた椅子やテーブル、割れた皿たちが散乱していて、天井には大きな蜘蛛の巣が張られていた。カイヤはそのまま真っ直ぐに突き進んで、階段を上った。埃を被った階段は、僕ら三人分の体重に悲鳴を上げてキイキイ鳴いた。一番下にいたユークが、僕とカイヤが靴で巻き上げる埃を被って、何度か咳込んだ。
二階にはベッドがあって、それも埃を被っているようだった。埃だらけの灰紅色のカーテンを開くと、床まで広がる硝子窓が隠れていた。カイヤは鍵穴に小さな鍵を差し込んでいた。しばらくカチャカチャと音がして、窓が開いた。カーテンが僕の頬に当たって、べたつく嫌な感触を残していった。僕は眉根を寄せた。後ろでユークが、「うわ、べったべた……」と不快そうな声を出した。
窓の外にはベランダがあって、梯子があった。不意にばしっ、と胸の辺りに何かを投げられた。……汚れた軍手だ。
「うわ、何これきったな」
ユークが顔を歪めて軍手を指の先で抓んだ。
「梯子がさびてっから、嫌だろうがそれはめて降りろ。素手で触ったら怪我して化膿するぞ」
「うわー……ほんと汚い」
「後で洗ってあげるから」
僕は苦笑して、軍手をはめた。中がしっとりとしてなんだか嫌な感じがした。誰が使ったんだ、これ。
そのまま僕らは黙々と梯子を降りた。降りた途端、カイヤの顔面に汚い軍手が一対飛んだ。
「……っらぁ! 何すんだてめえは!」
「ん」
ユークは物凄いしかめ面のまま、僕に両手を差し出した。僕は苦笑しながら簡単な水魔法をその手にかけてやった。ユークは何度も掌を擦り合わせて、肌の感触を確かめた。やがて納得したのか、真顔に戻った。カイヤはぶつくさと何事かを呟いていた。僕も何となく、杖の先から滴る水を手に取って、杖の柄の手が触れたところを水で拭いた。
「で? どこなの? すっごくかび臭いんだけどここ。信じらんない」
「だぁー……もう、お前はさっきから喧々喧々うっせえなあ……」
カイヤは頭を抱えている。僕は二人の後姿を眺めながら肩をすくめた。あんまり仲は良くないのかもしれない。……というか、ユークが一方的にカイヤにつんけんしてる気もする。
……僕のために、嫌なのに仲良くしてるのかな。でも、カイヤは悪い人じゃないと思うよ、ユーク。
「ねえ、」
僕はカイヤの方を叩いた。カイヤは眉間に皺を寄せたまま振り返って、首を傾げた。
「さっき……ありがとう」
「あん? どれだよ」
「全部だよ」
「はあ?」
僕は笑った。カイヤは耳たぶを抓みながら首を捻っていた。光がほとんど射さない路地道を歩き続けて、不意にカイヤは地面にしゃがみ込んだ。具合が悪くなったのかと思ったら、マンホールの蓋を持ち上げていた。ユークがまた、嫌そうに舌を出して「うげえ」と呟いた。
「ここの先を通って行ったら、アジトがある」
「うっわ。ドブネズミいそう。信じらんない。信じらんない。こんなところ住んでるわけ? ほんと信じらんない。……ってあんたは何カーディガン脱いでんだよ」
ユークが喧々した声でカイヤに噛みつく。
カイヤは肩から掛けた布カバンにカーディガンを押し込んで、くわっと歯を向いた。
「うっせえな! 汚れるからだよ!」
「じゃあ僕の服は汚れていいって言うのかよ!」
「仕方ねえだろ洗えばいいだろ!」
「逃亡者が何着も服持ってると思うなよ!」
「あっ、いや、それはかわいそうだけど」
「は? 誰がお前ごときに僕を憐れむ権利があるって言った?」
ユークは真顔で目を見開いた。青い目の奥で、瞳孔が細くなっている。心なしか髪の毛も逆立っている気がして、僕はなんとなくユークの腕を撫でた。
「まあまあ……手持ちに着替えがないのは僕も一緒だから……カイヤ、僕のこのポンチョも、その鞄に入る? 入れてもらえたらいいんだけど……」
「はいよ」
カイヤはぶっきらぼうに言って、僕から上着を受け取った。再びカイヤから汚い軍手を渡され、ユークと二人でげんなりした。水魔法で洗ってたら、カイヤから自分の分も突き出された。僕は嘆息しながら三つの軍手をぐしょぐしょになるまで洗って、風魔法でからっからに乾かした。……まだ汚れは残っているけれど、さっきよりはましだろう。
マンホールの底へ、再び黙々と梯子を伝って下りた。下水道の中は腐ったような嫌なにおいがした。僕が耐え切れなくて水と風の壁を三人の周りにつけたら、ようやく匂いはしなくなった。カイヤは肩をすくめて、「これだからぼっちゃんはよぉ……」と呟いた。僕はまた、「名前はアズ」と馬鹿の一つ覚えに繰り返すことになった。僕らの歩いた跡の床は、水魔法に洗われて銀色の輝きを取り戻していた。
暫く歩いていると、暗闇の中で赤橙の暖かい光が円状に輝く一角が見えてきた。どうやらその光は、円形のドアの向こう側から、隙間を通して漏れ出しているようだ。
「まさかあそことか言わないよね」
ユークが心底嫌そうな、疲れたような声で言った。カイヤは鼻を鳴らして、「そのまさかだ。悪かったな」と不貞腐れた。
扉は、深緑色のペンキで塗られたブリキの円盤だった。コインのような模様のそれを目いっぱいこじ開けてカイヤが先に中に入ろうとしたのを、その身体を半ば突き飛ばしてユークが隙間に潜り込んだ。光の中に消えて行ったユークをジト目で見つめ、カイヤは響く舌打ちをして、足音をダンダンと鳴らしながら中に入った。のろのろとしていたら、最後の方で僕はお尻をドアにしたたかに打たれることになって、よろめいた。
中は、酒場のようになっていた。あちこちに空の酒瓶や食べ物が散乱して、台所と思しき場所にも洗っていない皿が山のように積まれていた。汚れたテーブルの上で、大人や子供や、とにかく人間達が何人も酔いつぶれたように突っ伏していた。いよいよユークは声を出す気にもなれないようだった。舌をべろりと出して顔をしかめるユークを気にしていたら、不意にカイヤの方が小刻みに震え出した。
「っだぁああああああああ! くっそ汚ねえっつってんだろ! なんで俺がいないとすぐこうなるんだ! てめえら起きやがれ!」
カイヤが宙を舞ったのを、僕は呆然として見ていた。カイヤは男たちに飛び蹴りをかまし、真っ赤な顔で腕まくりをしててきぱきと台所に皿を放り投げた。
「おら! 起きろ起きろ起きろっつってんだろてめえら、風呂にも入りやがれ、くっせえんだよ!」
「あ、た、たいちょぉ……」
寝ぼけまなこで呟いた誰かの脳天を、カイヤは肘で殴った。痛そうだと思った。
「床を拭け!」
「は、はい……!」
「てめえは皿を洗え! 服脱いで洗濯しろ! ってお前は何、人の部下の背中に足で乗ってんだ!」
カイヤが吠えた。ユークがきょとんとして、首を傾げた。ユークは筋肉質で体の大きい、未だ眠りこけている男の背中の上で直立していた。僕は頭を抱えた。
「は? いや、起こして差し上げようかなと思ってさ。汚いの僕も嫌いなんだよ」
「ああそうかよ! せいぜい首は折ってくれるなよ!」
カイヤはぎゃんぎゃん叫びながらぶくぶくと泡を立てて皿を洗い始めた。ユークは男たちの体に足で乗りながら、膝や爪先で頭をつついて起こして回った。僕はと言えば、そろそろ苛々が募って頭が割れそうだった。もうどこからツッコんだらいいのかわからない。
「アズ! 床拭き手伝ってくれ!」
「は? 僕が?」
思った以上に低い声が出てしまって、カイヤとユークが同時にきょとんとした顔で僕を見つめた。
僕はしかめた顔を元に戻せないまま、杖を掲げた。
「ロゼ・ヴェンタアクアレーナ。部屋中洗濯」
「ちょっ」
カイヤの悲鳴が聞こえる。轟々と水と風がうねって、辺り一面めちゃくちゃ綺麗になった――主に、僕の苛々が。
魔法で洗い上がった皿の最後の一枚が、風に舞ってかちゃん、と積み上げた皿の山に腰を下ろした。
僕はにっこりと笑って見せた。
「はは……優秀な花魔法使いさまなこって」
カイヤは口を引きつらせた。ユークは髪の毛がピンピン跳ねた状態で、山積みになった男たちの天辺に尻もちをついて、きょとんと瞬きをしながら固まっていた。
「騒がしいね。何やってるの」
聞き覚えのある柔らかい声がして、僕も、カイヤやユークもほとんど同時に部屋の端に視線を滑らせた。壁にある傷だらけの扉から、毛先が外側にぴんと跳ねた黒髪が覗いていた。数時間ぶりだというのに、すごく長いことその顔を見ていないような心地がした――スフェンの髪は短く顎の下で切りそろえられ、白い首筋に曼珠沙華の様な髪の影ができていた。僕は、喉の奥からか細い声を漏らして、その名前を呟いていた。
「スフェン」
「あら、結局来たんですね。どういう経緯か知りませんけど」
スフェンはそう言って、特に驚いた様子も無く自分の髪を指で梳いた。
「……僕がここに来ること、想定済みだったの?」
「いや、まさか」
僕が眉根を寄せると、スフェンは肩をすくめて笑った。
「むしろ、一体何があったんだ、という感じですよ。まあ……その顔つきだと何かしら腹の立つ出来事は起こったんですかね。というか、あなたは結構怒りっぽいみたいですからね。私の残したメッセージは気づいてもらえました?」
「……うん」
「それはよかった。髪の毛を焦がしながら書いた甲斐があります」
スフェンは笑って、壁にかかった火のついていないキャンドルスタンドから蝋燭を一本とり、手元のキャンドルスタンドに挿して魔法で火をつけた。スフェンの後に続いて、小柄な女の子もついてきた。スフェンと同じ真っ黒な髪で、前髪は目元を隠すほどに長い。二つに縛った短い髪の毛先はぴんぴんと曼珠沙華を逆さまにしたように跳ねていて、長くて細い首によく似合って見えた。蝋燭の灯りに照らされたその子の目が、ニーナと同じ紫色だったから、僕は一瞬息を止めてその子を見ていた。スフェンは僕が洗って湿ったままの椅子に躊躇うことなく腰かけて、首を傾けた。僕ははっと我に返り、空いた椅子の表面を魔法で軽く乾かしてから、スフェンの隣に腰かけた。
「髪の毛、短く切ったね。そんなに上の方まで焦げていたっけ」
「いえ、面倒になったので切ってもらったんですよ、この子に。切るのが面倒で伸ばしていましたが、切るなら切るで、手入れの大変な長い髪より短くした方がましかと思って。ああ、アズ様も髪が切りたいならこの子に頼めば上手に切ってくれますよ。アメジです。もっとも、カイヤはどうも触られたがらないですけどね。おかげでぼうぼうと伸びたい放題」
「うっせえな」
カイヤはため息交じりに言って、濡れた手を振り水滴を飛ばした。そのまま腕を組んでテーブルの上に腰かける。ユークは男たちの上で胡坐をかいて僕らを見下ろした。ユークの尻に敷かれた男たちは、か細い声で唸っていたので少し心配になった。誰も助けてやろうとしないのが、不思議だ。アメジ、と呼ばれた少女はにこりともしないまま僕に向かってぺこりと頭を下げた。
「アズ様、うちの妹をじろじろとよく見ますね。どうかしましたか?」
「え……いや、珍しい色の目だなと思って」
「そうですか。何の花の色に見えます?」
「……ラベンダー、かな」
「そうですか」
スフェンはくすりと笑った。僕は質問の意味も解らないまま、一層眉根を寄せていた。スフェンは僕にぐっと顔を近づけた。僕は顎を引いた。
「アズ様はどうも、紫色を見ると決まってラベンター色と言いますね。他にも色んな紫色の花があるのに。そんなにラベンダーに思い入れが深いですか? 面白いな」
「……からかうのはやめてよ」
「いえいえ。これはすみません。それで、アズ様も含めて見慣れない顔が二つ、そして積み重なった人間ピラミッドが二つ。これってどういうことだい、カイヤ」
スフェンは僕から視線を逸らし、椅子の背に体を預け、目を細めてカイヤに笑いかけた。カイヤは肩をすくめて、これまでの経緯をスフェンにかいつまんで話した。燃えた図書室の中で僕を見つけたこと、僕からユークを任されたこと。ユークと一緒に僕を見に来たら、僕が襲われていたこと。そのまま三人で逃げ出して、ここまで来たこと。
カイヤの話を聴いている間、スフェンは途中からずっと僕だけを見つめていた。だから居心地はよくなかった。話の後半になるにつれ、スフェンは目を更に細めていってほとんど閉じたようだった。カイヤが話し終えた頃になると、スフェンは目を伏せて深く溜息をついた。その目の下には、長い睫毛の影ができていた。
「アズ様ってほんと短気ですね」
「……それは一言も言い返せないけれど」
僕は唸った。
「私がせっかく布石を置いて差し上げたのに……その知識を利用して、しばらく我慢してうまく立ち回れば、あの城で上り詰めてこの少年を助けてあげることも可能だったでしょう。それで? 一体あなたは、あの城で今まで我慢に我慢を積み重ねたあげく、何を守ろうとしていたんですか?」
「ニーナだ」
僕は俯いた。
「ラベンダーの子ですか?」
僕は唇を小さく噛んで、目だけでスフェンを睨むように見上げた。
「何、が……」
「あなたはいつも、紫色の花を見るたびにそれがラベンダー色だと言って、どこか遠くを見ていましたよ。誰か大切な人を思い浮かべているみたいにね、幸せそうに笑って。そういうあなたの顔は嫌いじゃありませんでした。だからこそ、あなたが珍しく他人に興味を持って――その花枯らしの彼を助けたいと思っていらっしゃる風だったから、私は最後に置き土産でも差し上げようかなと思ったんですよ。無駄骨だったのか、そうでもないのやら……全く」
スフェンは額に手を当てて、テーブルに肘をついた。スフェンの黒髪がさらりと頬にかかって、蝋燭の灯りで橙色に輝いた。
「あの図書室の火事は、君の指示ではなかったんだよね?」
僕はスフェンの目を見つめた。スフェンは目を細めた。
「確かにね。でも、いい口実でしたよ。いつあそこを辞めたらいいか、決めかねていましたから」
「あなたの書置きの中に、王の言葉があった。あなたは一介の司書でありながら……王と話ができたの? あれは、本当のこと?」
「本当ですよ」
スフェンは口の端を釣り上げた。
「アズ様。この世界にはね、あなたの知らないことがいっぱいあるんですよ。私と王様の関係もそうです。でもその全ては、本当はあなたに帰属するんですよね。まあ、私は驚きませんよ、あなたがここに辿りついたこともね。いつかはこうなるべきだったんでしょうから。ようやく、あなたの物語が動き出した……ただそれだけのことです」
「スフェン、一人で納得しないでよ。なんのことだよ」
僕は顔をしかめたまま首を傾げた。
「今はわからなくていいですよ。いつかわかるべき時にはわかるんでしょう。私にそれを伝える義務はない」
スフェンは指で前髪を梳いて、しばらく目を閉じていた。
「その……」
不意に、スフェンの傍らの女の子――アメジが声を出した。
「その、ニーナという女の子のこと、大丈夫ですか」
僕は息が止まったような心地で、彼女の紫色の目を見つめた。スフェンはアメジを愛おしそうに見つめながら、くすりと笑った。
「そりゃあ、あの家は監視下に置かれるでしょうね。なにせ、捕えるべき罪人となったアズ様の関係者です」
「……捕まる、ってこと?」
ユークが上の方から、低い声でそう言った。
「さあ、どうでしょう。少なくとも、アズ様が彼女の家に戻るようなことがあれば、その時ではただでは済まないでしょうね。つまり、あなたは二度と彼女に会いには行けないということです。でももしかしたら、もうすでに囚われた後かもしれませんね? 王のご判断の基準は私にはとても分かりませんし、もしかしたら彼女もただ関係者というだけで既に罪人扱いされるのかもしれません。だとしたら、あなたはどうしますか? 何の関係もない彼を、自分の地位もかなぐり捨てて助け出したのに、あなたの大切な女性は見捨てるなんてことします?」
「そんなこと、したくない」
僕は震える声で答えた。目の奥が音が聴こえそうなくらいにずきずきと疼いた。
「こうなることは、わかっていたでしょうにねえ」
スフェンは嫌らしく口をゆがめて笑った。僕もそう思った。
僕が我慢をしなかったら、ニーナの生活が簡単に壊れてしまうこと、わかっていたはずだった。あの子を守りたかったのに、僕はどうして、一瞬でもそれを見失ったんだろう。
僕は膝の上できつく指を組んだ。歪に組まれた指の先が、白くなった。
「まあ、それがこいつのいいとこなんじゃねえの。少なくとも俺は、てめえの心に蓋して人間見捨てるようなやつだったら、こいつと行動したかねえしな」
不意に、カイヤが鼻を鳴らして、僕の顔を覗き込んだ。
「何しけた面してんだよ。心配なら見に行けばいいじゃねえか。言っとくけど、てめえが動かねえのに誰も動いてなんかやらねえんだぞ。それとも、自分は見つかったら捕まるからってここに閉じこもっておくか?」
「嫌だよ、そんなの」
僕は目を伏せた。指先で爪が血の気を失って、白く濁って見える。僕は、はは、と吐息を零すように笑った。
「そうだよ、会いに行くよ。だって、やっと気兼ねなく会えるんだ。会わないわけがないじゃないか。ずっと……会いたかったのに」
どこか晴れたような気分だ。不意に、心臓がどくどくと大きな脈を打った。
なんだか悪いことをしているような気分だ。それなのにどこか幸せな心地がした。そうだ、僕はやっと自由になったのだ。
やっと僕は、あの子に紫色の世界を見せてあげられるのかもしれない。
僕は顔をあげて、カイヤの青い目を見つめた。
「それに、もう僕は気兼ねなく、あの子にラベンダー畑を作って見せられるんだよ。行かないわけがないよ。僕のずっと夢だったんだ」
心臓の鼓動は、煩く鳴り響いている。頬が染まっていくのがわかった。僕はラベンダー畑をあの子に見せてあげられたら、死んでもいいくらいなんだ。だから、罪人になるくらいなんてことない。僕が今後悔しているとすれば、僕が罪人になることでニーナに不便をかけてしまう、ということだけだ。ただ、それだけ。
だから、それ以外はどうってことない。むしろ、なんだか今は、楽しいや。
僕は笑っていたのだと思う。カイヤは僕から顔を引いて、戸惑うように眉根を寄せた。
「あっはっは」
スフェンが弾かれたように笑いだした。カイヤはスフェンを見て、ますます困惑したように眉を潜めていた。僕はスフェンが笑うのを、どこか静かな心地で見つめていた。スフェンはひらひらと片手を振って、目尻を指で拭った。
「これはこれは……気兼ねなく、だなんて……いいですよ、あなたのそういうところ、嫌いじゃないです」
「どの口が言ってんだよてめえはよ……」
肩を震わせて俯きながら笑うスフェンから視線を逸らし、カイヤは呆れたように嘆息した。
「……おい、で、どこだよその家はよ」
カイヤは顎をくい、とあげた。僕は呆然として、カイヤの青い目を凝視してしまった。カイヤは眉尻を下げた。
「……何、鳩が豆鉄砲食ったような顔してんだよ……」
「アズが行くなら、僕も行く」
ユークが山の上から飛び降りて、僕の袖をそっと引いた。
「魔法を使ったら、場所が特定されちゃう。そしたらこの場所もばれるだろ。だったらここは時間かかるけど歩いて行った方がいいと思う。そうしたらアズは魔法が使えないし、身を守る術がないだろ。僕を盾だと思って連れて行ってよ。僕……戦えるから」
「物騒なこと言うなあ」
僕はへら、と笑った。急に、胸が苦しくなった。
「君こそ、もうどこにでも逃げていいんだよ。僕なんかに……そんなに恩を感じなくていいんだよ。だって、僕は結局大したことはできてないんだ。君の病気の治し方がわかったわけでもないし……」
「ついて行くって言った」
ユークはむすっとして僕の袖をもっと強く引いた。
「僕は、君にずっとついて行くって言った」
「はいはい、そっちで好きにしてください」
スフェンは、椅子の肘掛けに肘をついて、ひらひらと両手を振った。
「それで、どうするつもりなんですか? 会いに行って、ただそれだけ?」
「匿えばいいでしょ、ここで」
ユークがけろっとしてそんなことを言った。スフェンはきょとんと目を丸くした。本当はえらく目が大きいんだなあと僕は頓珍漢なことを考えながらスフェンの目を見ていた。カイヤは「ひっ」と変な音を喉から漏らして、顔を背けた。その肩は小刻みに揺れていた。ユークはアメジをびしっと指さして、真顔で言った。
「それで、その子に面倒見てもらえばいいだろ。女の子が一人きりってなんか可哀相。その子のためにもなるでしょ」
僕は、ユークに人を指ささない方がいいよと言うべきか少し迷った。
「……人の妹に好き勝手言いますねえ……」
スフェンは呆れたように言った。けれど口元は僅かに綻んでいるように見えた。アメジは目をうろうろと泳がせていた――少しだけ、嬉しそうに見えたのは僕の希望的観測かもしれない。
「野郎共の中に女一人入れてるあんたの神経の方が信じられないよ」
ユークは喧々として言った。アメジはきゅっと口を引き結んだ。紫色の目が潤んでいるように見えた気がして、僕は肩をすくめた。
「あの……じゃあそれで、スフェン、君達のアジトを借りておいて申し訳ないんだけど。今から僕の家族を連れて来ていいかな?」
「まだ家の中にいたら、でしょう? 城に囚われていたらどうするんです?」
「そしたら転移魔法で直接乗り込もうかな……」
僕は天井を見あげて、ぎゅっと眉間に皺を寄せた。その途端、高らかな笑い声が響き渡った。
「あっはっは!」
スフェンはそれからしばらく、床に蹲って肩を震わせていた。
✝
日の出と共に出立することになった。それまで、カイヤはやることがあるといって、積み重ねられた男たちを解いた後、どこかへ行ってしまった。こんな時計も無いようなところでどうやって日の出の頃を見測るんだろうと思ったけれど、ここではパイプ缶を伝って聞こえてくる虫の声が消えた頃がちょうど日の出なのだそうだ。一体何の虫が鳴いているのかなんて、考えたくもない。
スフェンが言うには、この《メメントモリ》という組織の活動は何も花に害を与えると言ったものだけではなく、例えば病気の子供やお年寄りに造花の花束を届けたりとか、花の育たない庭に造花を挿して彩りを添えるとか、造花の商品を売るだとか、政府が管理しきれない程度の花の綻びを修正するとか、そういうことらしい。造花の売り上げが主な収入源で、その造花を作るために本物の花を摘んで観察することが初期からの活動内容だったという。
「元はね。花が心の慰みになっている人間というのは、意外にたくさんいるものなんですよ。初めて私がこの世界に憤りを感じたのは、丁度あなたと同じくらいか、それよりもう少し子供だった頃ですかね。幼い女の子が、花畑の花を見て、綺麗だなと笑い、それを摘んで髪に飾りとして挿したがった。ただそれだけのことでした。その子供は、幼いが故にぶたれただけで済みましたが、その親が罰を受けた。まずは母親。彼女は結局帰らず、その後その少女の兄が臥せる父のために同じことを――花を摘み取った時、父親もまたどこかへ連れていかれました。私はおかしいと思った。可愛いものや綺麗なものが大好きなのは少女の性でしょう。それを手に取ったところで、その純粋さをどうして責められるでしょうね。少年が親を想い、せめて心が晴れるようにと断腸の思いで摘み取った花は、花の命を殺した罪だと罵られた。二人の親は子供を責めました。なぜそんなことをしたのかと。彼らは生涯、子供の心を知ることは無かった。子供は子供が故の浅知恵で二人の親を失い、親のないまま心の成長は止まり、子供じみた憤りを抱えながら大きくなってしまった」
「それは……あなたのこと? スフェン」
「さあ、どうでしょうね」
スフェンは頬杖をついたまま、ふふ、と笑った。
「私がカイヤを見つけたのは、ほんの数年前です。彼は自分がどこから来たのかも、どこで生まれたのかも何も覚えていなかった。大方、あの炎の力で己と家族を不幸に貶め、その苦しみから記憶を失ってしまったのではないかと私は思っているのですが。だから放っておけなかった。それに、どこかでふっきれたんですよ。ああ、この子を口実に、僕はやりたい放題、もうやってしまいたいってね」
「だから花を燃やすの? 花壇の手入れをしてやっているというわりに、やってることは矛盾しているみたいだけど」
「そうですね。ただ、私達が燃やし、枯らしているのは人の花壇ではなく、野良で咲いている花ですよ。最も、カイヤはそれ自体は好んではいないようですけどね。ただ彼の方がずっと、私よりずっと明確な意思を持っているんですよ」
「明確な意思?」
僕は眉を潜めた。スフェンは目を伏せた。スフェンの肌にかかる睫毛の影が、蝋燭の炎と共にゆらりと揺れた。
「……『この世界は間違っている。だから、元に戻さなければいけない』」
スフェンは長い溜息をついた。視線をあげて、僕に柔らかく笑った。
「カイヤは、こう信じている。『花が咲き続けるのは異常だ。花は枯れることが自然なことだし、枯れてまた咲くから綺麗なんだ。その事実を捻じ曲げて、花が枯れるだけで大騒ぎをする、そんな世界はとち狂っている。それを誰かが気づかなきゃいけないし、気づいたやつは他の誰かに教えてやらなきゃいけないと思う』……ってね」
「それ、僕も聞いたよ」
僕は俯きがちになって、目だけでスフェンを見あげていた。
「あなたは、狂っているのはどちらだと思いますか?」
「え?」
スフェンは笑った。
「だから、僕とカイヤですよ」
僕はしばらく、答えられなかった。どこか悲しげに笑うスフェンは、疲れているようでもあった。
「そんなの……僕は、君達とは殆ど関わったことがないのに、わかるわけがない」
「狂ってない、とは言わないんですね」
「そんなの、」
「僕は、カイヤの方が異物だと思いますよ」
僕は、自分でも驚くほどにかっとなった。頬がかあっと赤く染まったのが、自分でもわかった。努めて平静を装おうとしたら、声が震えた。
「……人を勝手に異物だとか狂ってるだとか、簡単に言わないでよ」
「ああ、そのようですね。アズ様はどうも、そういうのがお嫌いらしい。激情に駆られる程度には」
スフェンはくつくつと笑っていた。
「何も、あの子の炎の力が異物だと言っているわけではないですよ。あの子の信念が異物だと言っているんです。そしてあの子自身それをわかっていて、きちんと頭と心で理解した上で、それを貫き続けている。私はそれを知っているからこそ、躊躇なくあの子を異物だと言えるのです。それを知らず、勝手な正義感で腹を立てるアズ様の方こそ、よほどカイヤに失礼ですよね。……まあ、あなたとあの子はまだ出会って間もないのですから、運命共同体になるならこれから知っていけばいい」
「運命共同体って、大げさな言い方をするね」
僕は眉根を寄せた。
「だって、そうでしょう? あなたはどうも、物事を軽く見がちのようだが、罪人が日のあたる場所を歩くだけでどれ程大変か。そんな罪人の恋人との逢瀬はどれだけ障害に満ちているか」
「ニーナは恋人じゃない」
僕は鼻の頭に灯る熱を誤魔化すように鼻を擦った。
「僕はあの子を大事だと思ってるけど、本当に大事にできているかどうかわからない。むしろできていないとも思ってるし、あの子が僕をどう思ってくれてるかなんて、僕は知らない」
「随分突き放した考え方だ」
スフェンは笑った。
「それじゃあ、何故一緒に暮らしていたんですか? あなたは先刻、彼女のことを家族だと言ったけれど」
「それは……気がついたら、一緒にいたからだ。ずっと二人で生きてきた。僕が……魔法学校に入るまで」
「そう。じゃあ、守られていたのは、どちらなんでしょうね」
僕はスフェンの言葉の意図がわからず、顔をしかめることしかできなかった。スフェンは、ふい、と僕から視線を離して部屋の隅を見つめた。スフェンの視線の先では、ちょうどユークが立っていて、壁にもたれたまま先刻からこちらを睨み続けていた。ユークもまた、スフェンに視線を合わせて、顎をあげた。
「何」
「いえ、特にあなたに用はないです」
「はあ?」
ユークが苛立った声をあげる。スフェンはくすくすと笑った。
「彼は野良犬ですね。あなたには妙に懐いているようだけれど、椅子にも座らないし、アメジの出した紅茶にも手を付けない。それで、彼の病の理由は掴めたんですか」
スフェンは首を大きく傾げて僕の目を覗き込んだ。琥珀色の眼が、蝋燭の灯りに照らされてまるで金塊のように輝いていた。僕は首を振った。
「君が書き残していったこと以外、何もわからない」
「そうですか」
「でも、あなたは花枯らしの病は、後天的なものではないかと書いていたよね。だったら、何かしら彼の過去に原因はあったと思ってる。少なくとも、ここにいる限りあなたはユークに攻撃はしないだろうし、ユークが僕について来るというなら、少なくとも僕はあの子を攻撃しない。ユークを仮初でも守ることができる。だからその間に、何か糸口を見つけられたらとは思ってる」
僕は俯いた。
お茶が冷めきったカップに、アメジが新しいお茶を注いだ。白い湯気がふわりと舞いあがって、揺れた。アメジは三人分のお茶を注ぎ終えると、カップの一つをユークの傍に持って行った。ユークは無表情に顔を背けるばかりだった。先刻から何度も繰り返されているやり取りだ。
「ユーク。喉渇いてるだろ」
「……紅茶はそこまで好きじゃない」
僕が苦笑しながら声をかけると、ようやくユークはそう言った。
「じゃあ、別のお茶を注ぎます」
「いい。水でいい」
アメジの言葉に、ユークはますます眉間にしわを寄せた。
「アメジ、水でいいと言うんだから、水でいいんだろうよ」
スフェンはそう言ってくすりと笑った。アメジはしばらくカップの中身を見つめていたけれど、やがて顔をあげてユークの横顔をまっすぐに見つめた。
「どうして、お茶がいやなんですか」
ユークは黙っていた。僕が「ユーク」と促すと、苛立ったように舌を打って、目を伏せた。
「僕なんかに、そんな高価なもの使わなくていい。自分が飲めばいいだろ」
「どうしてそんなこと言うんですか。それに、これはそこまで高いものではありません。わたし達にそんなお金はないです」
「だったら尚更、金のかかるものを僕につぎ込むな」
ユークは苛立ったように息を吐いた。
「水でいいって言ってるだろ」
「わかりました。水は注ぎます。でも、注いだお茶が冷めるのはもったいないので、飲んでください。話はそれからです」
アメジもまた、表情を変えずにそんなことを言った。ユークは響くような舌打ちをして、アメジからカップをひったくり、喉の中に熱いお茶を流し込んだ。くっ、くっ、と喉の音が大きく鳴り響いて、僕もその音に少し驚いたし、スフェンも僅かに目を見開いていた。
アメジは無言でユークからカップを受け取り、薬缶から冷めた水を注いでもう一度ユークの目の前に差し出した。ユークはまたそれを喉を鳴らしながら飲んだ。アメジは目を伏せた。彼女の頭の動きに合わせて、細い首に映る影色の曼珠沙華が、ふわりとゆれた。
水を飲み終えた後、ユークは泣きそうな顔で真っ赤になりながら俯いた。アメジは満足したのか、カップを受け取ってそのまま台所に引っ込んだ。僕とスフェンは顔を見合わせて、またユークを見た。
「喉が渇いていたなら言えばいいのに」
「渇いてたわけじゃない。喉が鳴るのはくせなだけ。行儀が悪いって言うんだろ」
ユークは血走った眼で僕を見た。僕は肩をすくめた。
「言わないよ」
「なんで」
「なんでって……逆になんで」
ユークは戸惑っているみたいだった。僕は僕で、ユークが何にこだわっているのかよくわからない。
ユークはやがて、唇を噛んで、俯いた。僕がぼうっとしてユークを眺めていたら、ため息交じりのスフェンの声が小さく聞こえた。
「これはこれは……心の声を聴き出すのも根気が要りそうですね」
「スフェン」
僕は顔をしかめてスフェンを睨んだ。ほとんど同時にコイン模様のドアがばん、と開いて、カイヤの吐き出すような明るい声が響き渡った。
「おい、食料調達してきたぞ。飯だ!」
僕のお腹が少しだけきゅう、と鳴った。僕はさりげなくお腹を押さえた。ユークはカイヤが肩にかけた肉の塊を凝視していた。その後きゅるるる、と部屋全体に響く音が鳴って、ユークは顔を真っ赤にしてその場にしゃがみ込んでしまった。カイヤは全く意に介さない様子で台所へずかずかと向かう。
ユークが顔をあげて、キッ、とその後ろ姿を睨んだ。
「赤髪野郎の馬鹿野郎!」
「あ? なんで俺が罵られなきゃいけねえんだよ!? 腹減ってんなら大人しく座ってろ!」
カイヤの怒声はどんどん遠ざかって、最後の方はほとんどくぐもっていた。台所の方からは、アメジとカイヤが何事かを話している声だけが漏れてくる。何を言っているのかはよくわからない。
そのまま、美味しそうな匂いにそわそわしながら僕たちは待つことになった。いつの間にかスフェンはどこかにいなくなっていた。自分の部屋にでも戻ったのかもしれない。やがてフロアにはがやがやと引っ込んでいたはずの男たちが集い始めた。大きな笑い声がうわんうわんと音の渦を作って、僕はただただ圧倒されていた。その間にも、美味しそうな肉の焼けた匂いはどんどん濃くなっていった。
ユークはと言えば、僕の隣で顔だけをテーブルの上に突っ伏して、だらんとしていた。僕はなんとなく、その肩を見つめてやることしかできなかった。その間、ユークのお腹はずっと鳴り続けていた。ああ、僕もお腹すいたなあ――そう思いながら、僕は誰にも聞こえないように溜息をついた。……もっとも、周りがうるさくて溜息程度が誰かに聞こえる心配もなかったのだけれど。なんとなく、喉の鳴る音を聞かれたくなかったユークの気持ちが、僅かながらにわかったような気になった。
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