五、旅立ちの朝

「アズ君。大丈夫か。起きなさい、アズ君。そしてその本はどうした。起きなさい、アズ君」

 聞き知った、モルダ室長の声が降ってくる。こんな時まで、本のことに言及するんですね、だなんて、子供っぽいことを考えた。

 カイヤが言った言葉が気になっていた。

 ――『俺は花はあるべき形に戻るべきだと思ってる。咲いて、枯れて、種を落として、また咲いて、枯れちまう。そんな“普通”にな』

 花が枯れること、それは“普通”だと言うこと。

 そんな知識を、僕たちは知らない。知らないはずだ。なのに僕の胸の奥には、カイヤのその言葉がすとんと収まった。僕はどこかで、それを知っていたのだ。だって僕ら《花魔法使い》は種を得るために花にかけられた魔法を解除することだってあるのだから。それなのに、僕らはそれを【異常】なのだと信じていた。そして僕は、そのことに僅かに違和感を感じていたのだ。

 そのことに、今更になって気づいた。ずっとずっと、違和感を持ち続けていた。きっと、この世界に僕は、ずっと拭いきれない違和感を抱えて、でもそれはいけないことだからとずっと目を逸らしていた。ユーク、カイヤ、スフェン……僕の心を肯定するような出来事が、こんなにたくさん起こったのに、これ以上どうして自分を欺くことができるだろう。

 僕は目を開けた。色々な人々の不安そうな、子供のような眼差しが飛び込んできた。絶望を知らない人間達の目だ。幼いな、だなんて思って、僕はふっと笑った。モルダ室長は、僕が目を開けたことに少し安堵したような様子で、僕が抱えたままの本に視線を移した。

「アズ君。それはどうした。持ってきてしまったのか?」

 僕は体を起こして、モルダ室長と視線を合わせ、本を見つめた。臙脂色の本に刺繍された、ニーナのような女の子は煤を被っていた。僕がそれを親指の腹で撫でると、女の子の体はもっと汚れてしまった。僕は人差し指と親指を擦り合わせて、煤を手慰んだ。

「アズ君」

 モルダ室長は、先刻よりも強い語気で言った。僕は顔をあげて、にっこりと笑った。

「誤って持ってきた、と言えたら、どうなるんですか?」

 モルダ室長は、はっとした様子で顔を歪めた。聡い頭は、僕の言いたいことを理解してしまっただろう――僕が、自分の意思でそれを持ってきたと言うことを。

 僕はゆらりと立ち上がって、青色の表紙の本を【歩けない女の子の物語】の上に乗せた。これはなんとなく、中身も知らずに持ってきてしまった。禁書の印が押されていることに変わりはないけれど。僕はその表紙を開こうとした。勲一等階級の、魔道士達が見守る中で。

「だめだ、アズ君。いけない」

 僕は視線だけをあげて、口を歪めた。

「いけない? なぜですか。どうせ焼けても構わないと放棄した書物なんでしょう。ごみですよね。それともなんですか。僕が勲一等に上がれば、読んでもいいんですか? どう違うって言うんですか、勲一等と、二等が」

「天と地ほどの差だ」

「そうですか」

 モルダ室長の唸り声に、僕は小さく息を吸って、本を閉じた。

「それなら、どれだけ違うのか、見せてもらいましょうか。勲二等一人、貴方方なら抑えるのも簡単でしょう?」

「アズ君。君は何を……罪を犯そうとでも言うのか。なぜ――」

「アズ様……!」

 モルダ室長の焦ったような声と、遠くから放たれたウバロの悲鳴が混じりあった。僕は魔道士達の間に小さく見えるウバロの姿をみとめて、視線を逸らした。

 僕は本を左の脇に抱え直し、杖を掲げて首を傾けた。

「ロゼ・アクアテララ――」

「気をつけろ! 彼は能力だけは勲一等級の能力を秘めているんだ。どれだけの傷をつけても構わないという心構えであたれ!」

 僕が詠唱を始めた途端、モルダ室長が悲鳴じみた声で周りの魔道士達に向かって怒鳴った。彼らははっとして、僕を睨み杖を一斉に構えた。僕は呆然として、詠唱を中断してしまった。その途端、水の矢が僕に雨あられと降り注いだ。僕はそれを見つめながら、ゆるゆると口を開いた。

「ロゼ・アクアテララレーナ……汚泥の濁流よ、我が衣となれ」

 僕の足元で大地がひび割れて、僕の姿を隠すように土埃を立て、空に舞い上がった。それは降り注ぐ水の矢をばくばくと喰らい、濁流となって一枚の大きな衣となった。僕が杖を振り上げると、汚泥の衣は僕の動きに合わせて袖を振り、魔道士達を薙ぎ払った。彼らは何事かを叫んでいたけれど、水と泥が轟々と唸る音にかき消されて、僕にはよく聞こえなかった。

 やがて僕の頭上から、今度は雷のような光の槍が降り注いだ。僕は杖を振り下ろして水を地面に染みこませた。あれは光魔法と音魔法を合成した、人工的に雷を作る魔法だ。当たれば、水を纏う僕は失神することになるだろう。僕はこれ以上開けないくらいに目を見開いて、光の筋を凝視しながら呟いた。

「ロゼ・テネブレーナ。闇の鏡は横にひび割れる」

 杖を振り上げた途端、透明な鏡が僕の目の前に広がった。それは光の槍を受け止め、音もなく粉々に割れて散らばった。破片は魔道士達に降り注いで、それぞれの目の中に飛びこんでいった。彼らは目を押さえて蹲った。何人かは、襲い来る眠気と頭痛に耐えながらも、杖で体を支えて僕を睨んでいた。

「アズ君。だめだ。戻ってきなさい。君は悪夢にうなされているだけだ……そうだろう……その魔法を、私が解いてあげるから……」

 室長が、苦しげに僕に向かって手を伸ばしながら呟いた。

 僕は、不意に無性に悲しくなって、杖を握りしめた。

「室長。生憎僕は、闇魔法にかかってはいません。夢も見ていません。むしろ今が、悪夢から覚めたんだ」

「何を……」

「室長。僕が、僕の能力が、勲一等に値するのは本当ですか? なのに何故、僕は勲二等なんですか?」

 ――勲一等だったら、きっと僕はあの書庫にこんな形では入らなかった。こんな、苦しい現実なんか、きっとずっと知らないままでいられたのに。

 僕は、祈るような心地で、モルダ室長の茶色の瞳を見つめた。室長は、眉間にぎゅっと皺を寄せて、まるで敵を見るような目で僕を睨んだ。

「そんなもの、君が年齢を満たさないからに決まっているだろう。君の能力はずば抜けていたが、規定の枠は超えられん」

「また、規定ですか。そればかりですね」

 僕は小さく息を吸った。

「そうやって世界は成り立っている」

「そう……なんでしょうね、現に、誰かが秩序を乱そうとすれば、もうぼろぼろだ」

 僕は、焼け焦げた王城を見上げた。モルダ室長は立ち上がって、僕の周りに闇の網を張った。

「悪夢から覚めたというなら、もう一度眠るがいい。残念だよ、アズ君。君はもう少し、賢いと思っていた。私はね、君のことを実の息子のように思っていたんだよ。だが、躾が足りなかったようだね。私の責任だ」

「そうですか」

 自分の顔が、泣き笑いのような顔に歪んでいくのがわかった。

「モルダ室長。僕はあなたのことを、一度たりとも父のようだと思ったことはありません。僕の父は、あなたではない」

「屁理屈が減らないな」

 室長は鼻で嗤って、杖を振り上げた。室長が編み上げた闇魔法の網が、網目をぎゅっと縮める。

 僕は俯いて、ぼそぼそと呪文を呟いた。網が僕を包み込むその瞬間、僕の周りで白いマーガレットが咲き誇った。それは闇の魔法に押しつぶされ、生を留めるような眠りに耐えきれず、花開いた瞬間に枯れた。

 僕の周りの闇魔法の粒がばっと拡散して、逃げた。

「ああ……ああああ……」

 室長は、恐怖に埋もれた表情で目を見開いて、僕を睨んだまま悲鳴を上げていた。僕は口の端を釣り上げた。ああ、僕はもう、だめだ。

 僕も、堕ちちゃったよ。君たちの場所まで。ねえ、だから、もういいだろう? こんなところ、捨てたって。

 室長にまで罪を被せて、僕ったら、もう地獄に堕ちるだろう。

「アズ様……!」

 ウバロが泣きそうな声で僕の名前を呼んだ。僕は疲れたような心地で、ずり落ちそうになる本を抱え直して、ウバロに笑いかけた。ウバロは目を見開いて、ぼろぼろと泣いていた。まだ子供なのに、怖い思いをさせて悪かったな――なんて、自分も子供なのに、僕は頓珍漢なことを考えていた。

 罪人になった僕に、容赦なく魔法の矢が降り注ぐ。懲りないな、なんて思いながらそれを払っていたら、土の魔法で足を掴まれた。僕はひっくり返った。杖が僕の手から離れて、花壇の奥に落ちた。僕はそれを眺めながら、あっけなかったな、と思った。ずりずりと、土の上を足から引きずられた。そのまま持ち上げられて、僕の体は宙ぶらりんになった。風の糸が僕の腕から本を引きはがそうとする。どうしてそこまでするのか、僕にはわからなかった。僕は抗うように、体を丸めて一層本をぎゅっと腕の中に抱きしめた。肌が裂けて、血が噴き出し、風の竜巻に巻き上げられていく。

 頭に血が上って、吐き気もした。段々と頭がぼうっとしていく。風の糸が僕の首にも絡んだ。僕は逆さまの王城を見つめながら笑った。こんな景色を、少し前にも見た気がするんだ。

「あはは……はは……」

 ウバロが僕を呼び続ける声も、風の音にまぎれて霞んだ頃。

 ごう、と唸るような声がして、風に炎が混じり、燃え上がった。悲鳴が飛び散って、僕の頬に熱い熱が触れる。首の拘束が取れて、僕は思い切り咳込んだ。吸った空気に、灰の香りが混じっていた。

 勲一等の誰かが作ったはずの風魔法は、火の竜巻に姿を変えて、彼らを襲っていた。僕の足を掴んでいた土の手が崩れ落ちて、僕の体は真っ逆さまに落ちていった。誰かの手が、そっと僕の両肩を掴んで、僕の背中を受け止めた。空よりも澄んだ青い目が、僕を見下ろしていた。

「……大丈夫? 死んでない……ね」

「死んでたらたまったもんじゃねーだろうがよ!」

 怒鳴るようなカイヤの声も響いた。ユークは僕から視線を逸らして、明らかに舌打ちをした。足音が近づいてくる。やがてカイヤの顔が僕を覗き込んで、その煤だらけの手でユークに抱っこされたままの僕の額を撫でた。カイヤは僕から目を逸らし、むすっとした顔でユークを睨んだ。

「おい、聞こえたぞ、さっきの舌打ち」

「さあ、なんのこと? あれは、あの腰抜けどもに対してやったんだよ。あんたにやってないんだけど。まさか自意識過剰?」

「ああそうかようっせえな!」

 カイヤは吠えた。

 僕はぽかんと口を開けたままだった。ユークがようやく下ろしてくれて、僕は手の甲で目をぐりぐりと擦ってもう一度二人を見た。……擦ったことでかえって視界がぼやけていた。

「な……んで、ここにいるの?」

「あ? 助けに来てやったんだろうがよ」

「助けに来たのは僕。こいつ、ほっとけとか言ったんだよ。信じらんないよね。それで僕が行くって言ったら着いてきたんだけど、なんなんだろうね、金魚の糞かな?」

「……っとに口の減らねえ餓鬼だな……」

 ユークの毒舌に、カイヤが唸る。

「何してるの……これ以上罪を増やしてどうするの、ユーク、せっかくカイヤと合流したんだろ。じゃあもう、誰にも見つからないところに逃げてくれよ。頼むから……!」

 僕は叫んでいた。カイヤがちらちらと頭上を気にしているのが端目に見えた。魔道士達が水魔法で火の竜巻を消しているのだ。僕だって、早くなんとかしなきゃとは思う。けれど、溢れ出た憤りは止まらなかった。僕は、ユークの方を揺さぶって、また泣いていた。

「……見たよ、さっき。自分だって勝手に花を咲かせてたじゃん。僕のこと言えないよ」

 ユークはそう言って笑った。僕はその花咲くような笑顔を、呆然として見つめていた。ユークの手が腰に伸ばされて、気が付いた時にはひょい、と肩に体を担ぎ上げられていた。

「ちょっとじっとしてなよ。とりあえず、逃げなきゃね。ほら、赤髪野郎。何手こずってんだよどこ行けばいいか教えろよ」

「てめえは加勢しろよ!」

「は? 何言ってんの? アズを抱えてぐるんぐるん飛んでいいわけ? アズの首が千切れちゃうだろ。そんな簡単なこともわかんないんですか」

「あーっ! ったく! さっきまで担いでなかったろうが! その時のことを言ってんだよちくしょう!」

 カイヤはぎゃあぎゃあと吠えている。ユークは僕を担いだまま、てくてくと花壇に向かって歩いた。

「だめだよ……」

 ユークの周りで、また花が枯れていく。逆さまになった僕の顔から、ぼたぼたと涙が零れて、茶けた花の粕を濡らした。ユークは屈んで、僕の杖を手に取った。それを眺めて、ぽつりと呟いた。

「蕾の杖、か。いい杖だね。君に似合ってる。ほら、はい」

 ユークは僕に杖を渡して、僕の体を下ろした。また少し、花が枯れた。

「ここから走って逃げるのは、ちょっときついし、まずはあの赤髪のアジトに飛ぼうよ。僕はもう花魔法を使えないから、アズが描いて。転移魔法」

「ユーク……」

「だって、アズは逃げなきゃだろ? 僕、あんたにならどこまでもついて行くよ。自分のためには逃げられないけど、君のためなら逃げられるよ。嬉しかったんだ。僕のために泣いてくれて」

 そう言って、ユークは背中にかけた剣をとった。

「さあ、一仕事しようかな」

 ぽつりと呟いた言葉は、僕の耳に纏わりついて、滲んで消えた。ユークの体は、気が付いた時には目の前から消えていて、魔道士達を光の速さでなぎ倒していた。ユークが参戦したとたん、カイヤは疲れたように草の上に座り込んでいた。それを見ていたら、笑う場面じゃないはずなのに可笑しさばかりが込み上げて、僕はまた泣きながら笑っていた。

 足元に、三人分の小さな円を描いた。本当はもう少しきちんと模様を描かなきゃいけないけれど、手が震えてだめだ。円の輪郭だってがたがただ。

 ――頭で想像した方が、きっと早いや。

 僕は大きな声で二人の名前を呼んだ。カイヤが気付いて、ユークの名前を怒鳴った。ユークは最初無視していて、カイヤが僕の名前を出した途端、大人しく身を翻して僕の目の前に降り立った。走って追いついてきたカイヤは、「なんなんだよ」とぶつぶつ文句を言っていた。

 三人で不恰好な円の中に入る。僕らを襲うように、水魔法の津波が上がって、僕らに細やかな雨を降らした。

 津波が大地を打った時、僕らはもう、そこにはいなかった。



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