二十三、黒髪の少年は空に哭く(三)

『赤髪の少年』

 須*はタイトルを『黒髪の少年』とするか最後まで迷っていたという。須*梓という一人の画家を孵化させた傑作である。中学二年生時に、地元の美術館の展覧会に出展された。遺作『誰か』を除き、須*がまともに描いた最後の人物画であり、先述した友人Aを描いた作品である。幼少期からの須*の表現法が全て如何なく発揮されている。生粋の日本人の髪を赤く、目を青く、空を赤く、大地を紫で描いていながら、写真や映像に残されたそれは確かに青空の下、緑の大地で笑う黒髪黒目の少年の姿なのである。驚くべきは、これが透明水彩絵の具のみで表現されているということである。水彩絵の具の塗り重ねによる画用紙の歪みまでもがこの作品を写実化させる重要なピースとなっており、須*自身も紙の歪みまで計算した上で描いたとテレビの取材にて語っている。不幸なことに、同作品は美術館の焼失と共にこの世から消え去った。また数奇なことに、友人Aもその後事故死している。この作品を境に、須*の表現法はがらりと変化する。(画材:透明水彩絵具)



     ✝



 絵哉を模写し、色を乗せていく。目の前にいる友達は、生粋の日本人で、顔だちももちろん東洋系、髪も目も黒で、肌は僕よりずっと焼けていた。それを、ありのままに描くことに、ためらいがあった。絵に描こうと決めた日から、僕の目に映る絵哉は、なぜか鮮やかに輝いて見えた。僕の嫌いな命の色、赤い色が、絵哉にはとても似合うと思った。僕には、絵哉が僕とは正反対と、何の苦労も知らない、ただのいい子に見えたのである。そしてなまじっかばかなものだから、他の子とは違い、僕が素を出したところで離れようとも思いつかない、僕の才能とやらにもただ素直に感心して妬みすらしない。僕は多分、僕に懐いてくれる絵哉が好きで、同じくらい嫌悪していた。それなのに、家に招き入れてしまったのは、あまりにも絵哉が僕に嫌悪らしい嫌悪を抱いてくれないので、僕のありのままを、僕の毒を見せつけてしまいたかったのかもしれない。

 ほら、こんな風に。

 中だけ飾り付けて、綺麗な壁紙を貼って、グランドピアノなんか置いちゃって、でもその鉄筋はぼろぼろで、僕の家族もぼろぼろで、僕は自分の絵だって破り捨てるし、母さんのことは哀れに思っているし、父さんのことは諦めていて、この指はきっと汚い音しか奏でられないし、ほら、描く絵だって奇抜で気持ち悪くて、こんな変な家の子供なんだよって。

 その時の気持ちを、当時の僕は上手く整理できなかった。多分、ただ、僕は。

 絵哉に、ありのままの自分ですら、嫌われたくなかったのかもしれない。なのに心はその本心を己にすら隠して、嫌われたい、嫌われたいと願っていた。きっと君は、君が僕にはこんな風に見えているだなんて知らないんでしょ。目は空のように澄んでて、命を輝かせて生きている。僕には君が、僕と同じ陰気な生き物には見えないんだよって。

 だから僕は、誰から見てもありのままの少年ではなく、僕の目に見えてしまう、赤司絵哉という男の子を描いた。

 目は空色。髪は赤色。汗は緑。空は君という存在を引き立てるだけの紫色。

 途中まで薄く置いたそれらの配色を見て、僕はなんだか気持ち悪いなと思った。僕自身の心を気持ち悪いと思ったのだ。目の前にある、その配色をなかなか綺麗だと少し誇らしげに思ってしまった自分が、とてつもなく気持ち悪い。

 それなのに、絵哉は「天才だ」とぽつり言葉を漏らした。その目は、夜空に銀河を浮かべたように、心の奥深くで瞬くささやかな輝きを映し出していたのである。

「お前の絵は死んでなんかいないよ」

 そう、僕の絵を見て、絵哉は零した。最初は何を言われているのだか、わからなかった。ややあって、僕の頭はのろのろと状況を理解したのだった。ああ、そういえば、画用紙に色を置きながら、くだらないことを言ったっけ。

 僕が僕自身を嫌いが故に感じる嫌悪感を。僕が生き物を描いてしまったら、その生き物は画用紙の中で死んでしまうように感じるのだ。そしていつか本当に死んでしまいそうで。僕は母を昔紙に描いてから、ずっとそんな妄執に囚われていたのである。体の弱い母が、このまま絵の中だけの人になったらどうしようかと、ずっとずっと怖くて。

 馬鹿なことを言ったなあ、と思った。何を言っているんだろう、こんな、普通の家庭の普通の子に、僕は。

「俺は、お前に描いてもらいたいよ」

 絵哉は、何故か泣きそうな顔をして、僕を見た。何、が、と、途切れた声で応えることしかできなかった。

「俺は、俺の絵をお前にもっと描いてもらいたいよ。髪だけじゃなくて、眼だけじゃなくて、全部描いてよ。そしたら、俺は俺自身のことが、す、好きになれそうな気がしてきたんだって。だから別に、今日だけじゃなく毎日でも来てやるよ。お前がここでないと描けないって言うなら、何度でも遊びに来る」

 なんだか悔しい心地がした。僕は嫌われようとしたはずではなかったか。なのに僕の心は、たったそれだけの、絵哉の薄っぺらい言葉で、簡単に落ちていた。唇を噛んだ。悔しい、悔しい、と思った。ただこれだけの賞賛で、向けられた気持ちに、飾り気のない好意、というやつに、自分が舞い上がったのが、わかったのだ。

 そんなこと言ってくれた友達は、君が初めてだよ。

 その、言葉を吐き出して、僕は絵筆を力なく、バケツの中に落とした。冷たい水の雫が手の甲に跳ねたのがわかる。僕は完全に、落ちてしまった。僕はただひたすら、この絵哉という友達に、好かれたい、もっと好かれていたいと思った。単純で、純粋な願いだった。心の唸り声だった。この絵は、心を込めて描こう、と僕は決めた。そして、家の中、親子関係がどれほどこじれようと、僕に好意を惜しみなく注いでくれるこのたった一人さえいれば、僕はいつか成長して、母も父も包み込める大人になれるような気がしたのだ。



 それからも、絵哉は僕に欲しい言葉をくれた。なかなかに抒情的な言葉を、拙いながらに吐くやつだと僕は改めて絵哉のことを再評価した。絵哉は僕のピアノの楽譜やCDに興味を示したし、僕の絵の描き方についても色々と聞いてきた。多分、芸術的な感性が鋭いやつだったのだと思う。ああ、だからこいつは、僕なんかと友達になってくれたのかと思った。絵哉は体育会系で、僕とは違って友達も多くて、なのに僕とばかり一緒にいてくれるその理由が、ずっとわからなかった。ようやくその理由に納得して、僕は、自分は絵哉と一緒にいてもいい存在なのだと仄暗い誇らしささえ抱えるようになった。絵哉の隠されていた感性を――おそらくは、本人さえ気づいていなかったそれを引き出した自分に、驕った。

『梓は、なんていうか、透明な水って感じがする。まだ色を持たないって言うのかな。簡単に染め上げられないって言うのかな。でも一度濁ったらもう取り返しがつかなさそうでさ。とにかく、俺からするとお前ってすごく、なんていうか、危なっかしい。野郎に使う言葉じゃないかもしれないけどさ。その、筆を洗うバケツみたいな感じ』

 僕のことをそんな風に表現する絵哉を、僕は離しがたくすらなっていた。

 僕が絵哉に依存していく一方で、家庭内の状況は最悪だった。僕は僕なりに、これでも精神が安定してきていたのである。絵哉が僕に安定をくれた。だから僕は、少し反抗をやめたつもりでいた。今までは噛みついていた言葉にも過剰な反応をやめたし、ただいまとも言うようになった。手伝いだってちゃんとするし、両親の話もたくさん聞くように努力した。なのに、二人にとって、僕はまだ、いつまでも反抗をする息子でしかなかった。僕の努力なんてきっと見えていなかったし、見えていたところでなんの評価にもつながらない程度のことだったんだろう。なまじっか努力をしていたせいで、僕はそのことに酷く傷ついた。傷つく権利なんかないのに、傷ついた。だから僕は結局荒れたし、僕と戦う母の暴力も酷くなった。父の怒号も、激しさを増すばかりだった。

 きっと、そんな荒れ狂う僕の心情が、筆致にも、色を認識する機能にも影響を与えてしまっていたんだろう。

 描く絵哉の肖像画が、おどろおどろしい何かに変容してきていることに、自覚はあった。それでも、僕は絵哉を繋ぎとめたかった。この絵を描き上げたかった。だから固執して、それでも筆を取り続けた。家に居づらくなって、学校に絵を持って行った。本当は、自分の絵がではないことを知っていたから、人目のある場所になんて晒したくなかったのに。案の定、美術室で色を重ねるぼくの背中に、部長はその絵はおかしいと言葉を投げつけてきた。彼女の言い分はもっともだった。写実画がテーマなのに、日本人を赤髪碧眼で描くのはおかしいというのである。そんな正論に、僕は心の一番やわらかくて、腐りかけていたところをぐじゅりと潰されたような心地がした。かっと血が昇って、部長と喧嘩をした。部員たちはそんな僕を、呆れたように、あるいは怯えるように見ていた。そんな視線がさらに僕の心をえぐった。僕は教室に戻って、絵哉に言うつもりもなかった執着を吐き出して、投げつけた。

 絵哉の感性が、僕は好きだよ。君は気づいてないだろうけどね、君の言葉の端々にさ、君がどんな風にものを見ているのか伝わってくるんだ。君が何を景色から感じて、笑っているか伝わって、僕もそれが心地いい。一緒にいて楽だと思ったのは君が初めてだった。だから、君の絵を描きたかった。僕に見えている絵哉を、ああいう形でしか描き表せないんだよ。僕はまだ、未熟だから。初めて、今まで奢ってたなって自覚した。描きたいように全然書けないんだ。色を変えて、筆を変えて……それでも、もがいてる。だから、僕と同じところまで来てよ。僕に見えているありのままの絵哉を描いているだけなのに、それなのに、僕が、おかしいの。

 絵哉は何も言わないまま、僕の肩をそっと抱いた。ぎこちない仕草だったから、なんだか僕は、自分が安い三文ドラマのヒロインにでもなったような心地がして、そんな自分に吐き気がした。絵哉は僕から離れて行かなかった。僕を拒絶しなかった。だから僕は、その瞬間、自分の依存心がもう取り返しのつかないところまで来てしまったことを自覚した。

 こんなの、友達に抱く感情じゃない。僕はおかしい。絵哉もおかしい。こんな僕を切り捨てないのは君も壊れているからだ。僕らは壊れているんだ。そうでなければ、なにかがおかしいでしょ。

 その次の日も、変わらず一緒に学校へ行った。部室に行くのは気まずかったから、絵哉が部活に行っている間、僕は教室で絵を描き続けた。自分の中の、燃えたぎるような説明のつかない感情を、全て色にぶつけていた。視界が滲んでよく見えない。目の前の作品が、僕の描きたいものからどんどん遠ざかっているような気がした。これはただの僕の心象風景だ。僕は、大事な友達をありのままに描きたいだけなのに、僕の目に絵哉が鮮やか過ぎて、優しすぎて、絵哉が僕の激情に侵されていく。

 部活を終えて帰ってきた絵哉は、僕に声をかけて、水をぐびぐびと飲んで、いつものようにイーゼルに手を当て、絵を覗き込んだ。慣れた仕草だった。けれどその仕草が、こわばったのが僕にはわかった。絵哉の仕草に神経を張り巡らせていた僕には、わかってしまった。

 ぎょっとしたように見開かれたその目を見た時の、僕の絶望を、どう言い表せばいい。

「別に、病んでるわけじゃないからね」

 僕は、言い訳じみたことを言った。自分はまだまともだと信じたかった。絵哉の目が揺れる。その目が、おまえはもうまともじゃないと言っている気がして、僕は足元ががらがらと崩れていくような錯覚を感じた。

「ここに、また青を乗せていくんだ。そしたら少しだけ削れて、赤の線が見えるだろ。それで空の波紋を表そうと思って。夕焼けに変わって行く空の、途中が表せるから。だからさ、そんな、傷ついた顔しないでくれる?」

 してねえよ、と呟いたその口で、絵哉は確かに「怖い」と呟いた。僕は胃の中を全部握りつぶされ、ぐちゃぐちゃと掻き混ぜられているような苦しさを感じたし、何より腹が立った。

 僕はその日、初めて絵哉と喧嘩をした。否、喧嘩とすらいえない、一方的に僕が喚き散らしただけだ。でも僕は、よりどころを失った。帰る場所がない、と思った。僕、生きてちゃだめなのかな、とすら、その日は絶望して、いつもの通り親と最悪な喧騒を繰り広げ、どす黒い感情を抱えながら布団の中で蹲った。そのまま数日、僕は外に出る口実も失い、家の中で、ただひたすら母親と顔を突き合わせてとっくみあいのけんかをした。頬に、首に、手にひっかき傷ができる。引っ張られ続けた髪の付け根が痛いし、蹴られた尻はあざになっていた。僕のせいで夜中だろうと喧嘩をする両親の金切り声と怒号を聞きながら、心がどんどん逆剥けていくのを感じた。そのうち、絵哉のことなんてどうでもよくなった。僕はこの暗闇から逃れられない。逃れるためのアイデアもない。術もない。だったらあの絵がどうなろうとどうだっていいことだ。それでも、と教室に向かったのは、多分まだ僕の中に微かに留まる「絵を完成させたい」という、ほとんど本能的な剥きだしの欲求のせいだった。

 教室のドアを開けて、香る花の香り。

 窓に映る青い空。射しこむ明るい白の日差し。そして、一面の鮮やかなピンクと、赤。誰もいない教室の、机や床や、窓辺に、たくさんの花が活けてある。僕が置き去りにしたイーゼルを取り囲むように。

 どうして、こんなことしたんだろう、とぼんやり考えながら、僕は模造紙のかけられているイーゼルに触れた。模造紙を取り外せば、そこにはあの日から変わらない、絵哉の絵があった。けれど今は、それがおどろおどろしい何かには見えない。少し色遣いが奇抜になってしまった。でもここに、また別の色を重ねれば、きっと綺麗になるだろう――そう、思えた。

 不意に、初めて家に絵哉を呼んだ時のことを思い出す。僕が、つい口走った、なんということはない言葉だ。家に呼ぶ理由を、言い訳を考えて、思い出したのは家を彩る花柄の壁紙だった。母親の趣味が詰まった内装だ。それを、少しだけ忌々しく思って、なのにそれが好きで、母を大切にしたいと言う気持ちがまだ僕の心の根っこに残っていることに気づいて、僕はその時、悲しくなったのだった。

『僕さ、周りに花がないと落ち着かないんだよね』

 絵哉が、花を集めた理由なんて、それしか思いつかなかった。馬鹿だと思った。大馬鹿者だと思った。そんなの好きな女の子にでもやっとけよ。たかがちょっと喧嘩した友達なんかにすることじゃないよ。こんなにたくさんの花、どうやって買って来たの。こんな風に花を集めて、一体どういう気持ちでいたのさ。

 僕はその時初めて、自分がしでかしたことを悟ったのである。自分のことばかりで、ちゃんと見てあげられていなかった。絵哉が僕から受けた、どうしようもないほどの影響を、目の当たりにしてしまった。僕たちはまだ中学生で、これからいくらでも未来はあるけれど、でも一度変容してしまったものはどうしようもできない。今の僕らが緩やかに狂っているというこの現実は、もう塗り替えられないのだ。

 がら、とドアが開く音がして、振り返れば、花の刺さった花瓶を持って、絵哉が立ち尽くしていた。何やってんの、と僕は笑うことしかできなかった。絵哉は、わからない、と掠れた声で答えた。泣くのを堪えるように顔を歪める。その眼差しが、なぜだか僕を愛しいとでも呼んでいるようにすら思えた。

 馬鹿だね。僕が、変にしちゃったね。やっぱり、この絵は描ききらなきゃいけないね。

 ねえ絵哉。これはまだ、僕が描きたかった絵じゃないんだよ。本当はもっと綺麗に描きたいの。待ってて。ちゃんと最後まで描き終えるから。声が擦れる。僕はただ、ごめん、ごめん、と呟いていた。君の絵なんて、描くんじゃなかった。見せるんじゃなかった。だめだった。間違った。ごめん。ごめんなさい。

 ありのままの君を描くから。そうさせて。もう、奇をてらったことはやめるから。僕が最後に描く絵だけを、覚えていて。最後に出来上がった絵だけを、心に残して。

 絵哉は、息を吐いて、ほっとしたように笑った。僕らは顔を見合わせた。側にあった、ゼラニウムを花びらに触れてみた。とても柔らかかった。僕は胸の奥の傷に、かさぶたができあがっていくのを感じていた。

 夏休みの、短いただ三週間の出来事だ。


 そうして僕の絵は完成した。赤司絵哉という、ただ一人の友達を描いた絵は、完成した。


 それはただ一月ひとつきの間美術館に飾られ、美術館の全焼と共に失われ、数奇なことに、その翌日、絵哉も家の火事で、死んだ。



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