二十二、黒髪の少年は空に哭く(二)

 ところで僕には、それなりに芸術的素養というものがあったらしい。両親共に、芸術よりも学業を優先させる一族の元に育った人たちだったが、二人はそれぞれ音感が良かったり、綺麗なものを見て綺麗だと感動する心があった。少なからず僕もそれを受け継いで、音楽も絵も好きだったわけである。

 正直な気持ちを言うのであれば、僕は本当はピアノを弾き続けたかった。けれど途中で怖くなった。母の「心が綺麗な人は綺麗な音を出せる」という言葉は僕にとって一種の強迫観念にもなっていたのだ。中学生になって、母への反抗を始めた僕の心は耐えずどす黒く染まったヘドロのような恨みと憤りを掻き混ぜて、ひたすらに腐らせていた。そんな僕がどんなに音を奏でたところできっと分かる人にはわかってしまうのだろう。そして僕はきっと、そんな演奏では誰にも勝てない。僕はとてもずるい子供だったので、「ただ好きだから」という理由だけでは立っていられなかった。コンクールに出るからには賞が欲しいし、やっぱり褒められたかった。僕はおそらくは負けず嫌いで、プライドだけは軒並み高かったのである。だから、ピアノの先生から勧められ参加したコンクールで賞を取るとほっとしたし、それでも地区大会止まりであることに焦燥を覚えた。そんな風に目先の名声ばかり気にしてしまっていたからこそ、僕の演奏はそれ止まりだったのだろうに。

 でも絵なら。

 世界中にはありとあらゆる画家がいて、美しい世界を描く人もいればおどろおどろしい世界を描く人もいる。それはそのまま画家の個性で、たとえそこに闇夜でしか生きられないような感情が塗りたくられていたって、それは引け目に思う必要のないことなのだ。少なくともまだ十四歳だった僕は、そう感じていた。僕はこの画用紙の上でなら正直でいられる。

 僕の絵はなぜだか幼い頃からよく賞を取っていたのだが、僕はそんな絵画に対する賞の選考に疑問を持っていた。僕のよりもずっと魅力的な優しい絵を描く子供は周りにたくさんいた。それなのに、賞に選ばれるのは僕の絵ばかりだったので、「なあんだ」と思ってしまっていたのである。僕が好きだなと思う絵を母や父がいいと言わない時があるように、きっと絵画の評価なんて、選考員の価値観や着眼点の違いによるものでしかないんだろう――そんな風に、幼いながら理解していたのである。まあ、そんなの絵画に限った話ではなかったのだが、僕はなまじっか絵に関しては多くの評価を受けたがゆえに、絵画に対してそういう妙な安心感を抱いて育ったのだった。絵画は僕を裏切らない。絵画なら僕は引け目を感じなくていい、罪悪感だとか、嫌な感情もいっそぶちまけてしまえる。乱暴に叩きつけた筆の作った絵の具の染みがいい味を出すときさえあるし、それはピアノとは大違いだった。ピアノは乱暴に扱えば嫌な音しか出ないので。

 それに、絵なら僕は最初から喪失感を味わっていたから。

 だから余計に安心していたのである。僕の絵は母に破られたことがあったし(そして破れた絵は二度と元には戻らないのだ)、自分でも破り捨てることができる。鍵盤に触れないなどというあいまいな態度でしか拒絶を示せないピアノと違って、絵は物理的に僕を痛めつけることができるから、絶対的に信頼できた。

 中学生になって美術部に入ったのは、別に絵が好きでたまらなかったからというわけではない。運動は苦手だし、楽器はピアノで事足りている。だったら文科系の部活なんて、僕の学校にはあとは美術部くらいしかなかったのである。でもその美術部で、僕は初めて、写実画以外の技法――デザイン画や抽象画といったジャンルの描き方を学んだのだった。僕はそれらにのめり込んだ。写実画を描くよりもずっと楽しいと感じた。そうやってのめり込むうち、やがて写実画に対して漠然とした苦手意識も抱き始めた。写実画を描く度に手放しで「上手い」と褒められることに不安を覚えた。それがどうしてなのか、そのはっきりとした理由は思いついていなかった。僕がようやくその正体を認識できたのは、絵哉という、僕の生涯たった一人の親友のせいだ。

 中学二年生の夏のことである。その年の夏は、部活動の一環として、町の新設美術館へ出展する作品を部員がそれぞれ制作することになっていた。夏日が目に沁みる暑い暑い登校日。僕はその頃、反抗期の真っただ中にあった。だから家に帰れば親と喧嘩をしていたし、自室にこもってからは両親が僕のことで話し合っている声に耳をそばだて、神経をすり減らしてばかりいた。そのせいで寝不足だったし、心中はずっとさざ波を立て、荒んでいたのだ。しかも夏休みと来た。四六時中親と顔を突き合わせているような日々の中で、展覧会のためにさてどんな絵を描こう、だなんて呑気に考えられるような状態にはなかった。絵のことだって、学校に来てからようやく思い出したくらいのものだった。提出期限のことを思って少し憂鬱になったし、テーマの【故郷に生きる町の人々】をどう描くか考えるのも億劫。けれど絵哉は、そんな風に少しばかりメランコリックな僕を見て勘違いをしていた。絵の題材が思い浮かばなくて悩んでいるんだと。家の事情なんか話していないので、仕方のない勘違いではある。それに、その勘違いは僕にとってありがたくもあった。友達に反抗期の悩みを言ったって、自分の家がそれなりに特殊だとは知っていたし、説明するのも面倒だ。だから僕は、僕の目の下の隈を見て「いい加減夜はちゃんと寝ろ」なんて言ってくる優しい友に、絵のことで眠れないほどに思いつめているという体を繕った。

『別に、そこまでこだわらなくてよくね? 大体、お前だったら誰でもうまく描けるだろ。あとモデルだって誰でも喜んでなるんじゃね? お前に描かれるのはそれなりに嬉しいだろ』

 そうしたら、こうである。こんなことを言って来たのである。僕は少しだけかっとした。そんなことどうでもいいとすら思った。僕さあ、写実画を書いてても全然楽しくないんだよね、そんな言葉が口から滑り落ちた。まあ、嘘ではなかった。実際あんまり楽しいとも思っていなかったからだ。

 そうしたら、「なんで、あんなに上手いのに」なんて返される。

『上手いかどうかは知らないけど、なんかね、意味がわからないんだよ。写真みたいな絵を描いて一体どうするんだろうって思っちゃうんだよ。写真みたいな絵を描くなら写真でいいじゃない。でも、先生はこれが基本だから、って言うんだよ。僕はどっちかって言うと、独創性のある絵を描きたいんだ――』

 それは、苛立ちまぎれの言い訳だった。今しがた思いついたばかりの変な理由だ。色々な鬱屈や苛立ちを、そんな言葉に乗せて吐き出した。なのに絵哉が、ピカソのゲルニカみたいなやつ?なんて聞いて来るから、なぜか話はピカソがどれだけ絵が上手いかという話にすり替わった。ああいう抽象画じゃなくて、壁画に描かれているような宗教画の方が好きだなんて、誰にも言ったことのなかった好みまで口から滑った。花を描くのは好き、建物を描くのも好き、でも、人間や、動物や、虫を書くのは本当は嫌い――そんな言葉が流れるように口から零れ落ちていく。好き、嫌い、と言葉を重ねるうちに感情が昂った。脳裏に浮かぶのは母の姿だった。幸せそうに笑う近所のおばさんたちだった。僕の苦労なんか知らない従兄弟や、彼らの飼っている兔や、幼稚園の頃、世話してやったのに僕を蹴ったチャボの憎たらしい顔――

 あれ?と思った。僕はどうやら、自分で思っている以上に何かを恨んでいるようだった。思い浮かぶすべての生き物の顔が気持ち悪くなって、口元を押さえる。……とにかく、嫌い、苦痛でたまらないんだ、あの生き物たちの顔を見るのが嫌だ。そうか、人を描くならその人を見なきゃいけない。観察しなきゃ。ああ、もっと嫌だ。今はそんなの見たら憎たらしさに包まれてわけがわからなくなっちゃいそうだろ、なんて。

 そうして顔をあげて視界に映ったのは、白雲をくっきりと映し出す、美しい青空だった。その青に我に帰る。自分の感情の昂りに、すっと心が冷えて、怖くなった。だから、そのまま言葉にして、音にした言葉は――「生きているものを描くのが本当は嫌いなんだ。苦痛でたまらないんだ」だなんて言葉は、僕が僕を許したくて吐き出したものにすぎなかった。理由なんてどうしようもない。ただ、それが生きているから、いやなんだ。僕は死にたくなるほど気色悪い気持ちを抱えているのに、そうじゃないものが笑って生きてるのを見るのが苦しくてたまらない。

 僕はその時初めて、写実画が苦手な気持ちに理由をつけた。体は指先まで冷えているのに、心臓だけがその鼓動がわかる程につよく収縮していた。対して、そんな僕の毒々しい告白を聞いた絵哉は呑気なもので、パンを頬張ったまま適当な言葉を返してくる。その絵哉のあっけらかんとした言葉を聞いていたら、不意に絵哉が何か違うものに見えた。僕とは違う何か。夏の日差しを受けて光るその髪の毛が、赤金色に見えた。

 その時の心の動きを、今でも説明できない。記憶は遙か彼方に遠ざかって、よけいに思い出すことが叶わない。だけど僕は確かにその時、僕の怒りで燃え盛る景色に映る彼が、一人だけ妙に澄んで見えた。僕とは違う世界で生きているのだろう、たった一人の親友が、美しいピアノの音色や名声や、親との和解よりも何よりも魅力的に見えたのだった。僕は絵哉を【描きたい】と思った。僕の視界に移るこの瞬間の彼を、これからの彼を、描いて残してみたいと思ったのである。


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