七、闇に灯る蓮の花
カイヤとアメジが大きな鍋を抱えて台所から出てきたのを、男たちの大歓声が迎えた。何を言っているのかよくわからなかったけれど、どうも所々聞こえたところを継ぎはぎすると「隊長が来たから俺達の腹は安泰だ」とか「やっとこれでうまい飯が食える」とかそういう事だった。……隊長ってのは暫定とは言えカイヤのことだったはずだから、もしかしてアメジはそんなに料理はうまくないのかもしれない。
僕とユークの目の前に、黄色を地とした紫色と水色の花柄の鍋敷きがぽんとおかれ、僕たちはそれをしばらく凝視してしまった。ふと周りを見渡すと、テーブルのあちこちに置かれた他の鍋敷きも似たり寄ったりで、いわゆる女の子趣味な可愛いものばかりだ。
「何きょろきょろしてんだ?」
頭上からカイヤの声が降ってきて、僕は顔をあげ、やっぱりカイヤの手元を凝視する羽目になってしまった。
鍋を掲げるカイヤの手をすっぽりと包んでいたのは、うさぎと人参柄の、ピンクの可愛いミトンだった――妙に違和感がないから困る。ユークも気持ちは一緒だったみたいで、ユークの場合はカイヤの足元を目をカッと見開いて見ていた。……人参のアップリケがついたピンクの地に縁が白いラインになっているスリッパだ。カイヤがうさぎと人参が好きなのか、それともピンク色が好きなのかよくわからないけれど、そもそも羽織っているカーディガンがピンク色のどう見ても女の子ものである辺り、割とかわいいものが好きな少年なのかもしれない。まあ……悪いことじゃないし。
鍋を置いて、カイヤがふたを開ける。真っ白な蒸気が立ち込めて、僕とユークの頬を湿らせた。つんとくる酸っぱい香り。赤色の液体の中でぐつぐつと肉と野菜が震えている。僕は目を輝かせた。トマト煮込みだ。
なんだか嬉しくなって隣を見たら、ユークはとても複雑そうな面持ちでやっぱり鍋の泡を凝視していた。いちいち目を見開いているのでまるで猫みたいだ。
「ユーク……もしかしてトマト煮込み、嫌い?」
「……トマト? トマト……トマトって何……?」
「えっ?」
僕はぽかん、とした。そんなに高いものじゃないし、普通に使われている食材だと思っていたのに。
「食べたことないの?」
「……というか、うん、そうだね。僕は魚の丸焼きとか、鳥の丸焼きとか、そんな簡単なものしか食べたことないし……何この緑……」
ユークは眉を潜める。
「それはそれで簡単にできるものでもないとは思うけど、あ、それは多分ピーマンかな。赤いのはトマトっていう野菜を煮崩したものだよ」
「……何それ……」
「……逆に君が今までどんな生活をしてたのか気になるよ。食べてご覧よ。美味しいと思うよ」
僕はそう言って、取り皿にユークの分と僕の分をよそった。
アメジがフォークとナイフを握りしめて、その拳を僕らに差し出してきた。僕はアメジの左手からフォークを二本、右手からナイフをとった。その間、ユークは不思議そうにずっとこの銀色の食器を凝視していた。アメジも不思議そうにユークを見つめて首を傾げた。見られていることに気づいた途端、ユークははっと肩を跳ねさせ身体ごと僕の方に向け顔を背けた。若干、白い髪の毛がぶわっと逆立ったように見えた。それを尚も見つめるアメジの紫色の眼は、橙色の灯りに光って宝石みたいだった。僕はニーナのそれを思いだして、なんとなくぼうっとしてそのままアメジを見ていた。アメジは僕に困ったように笑った。僕もへら、と笑って視線を逸らし、ユークにフォークとナイフをあげた。ユークはなぜか、銀色の二つの柄を手の甲向きに人差し指と中指で挟んだ。意味がわからなかった。
「ちょ、ちょっとユーク。そんな持ち方しないよ」
「え?」
「ほら、それは肉を切るための道具だから」
「ああ……そう。何かと思った」
……何かと思った?
僕は一抹の不安を覚えて、そのままユークの手元をじっと見ていた。ユークはしばらくくるくるとナイフを回していた。器用だな、と思いながら僕ははらはらとしていた。それが飛んで誰かに刺さったらどうするつもりなんだ――そう思っていたら、なぜかユークは「ふっ」と小さな息を漏らして思いっきりナイフを投げた。ガッ、と鈍い音がした。
「ちょっと!?」
「ぎゃあ! なんだ! 何すんだてめえ!」
僕とカイヤの声が重なった。ナイフはぴんと壁に突き刺さっていた。丁度カイヤが背を向けて屈んでいたところの、真横だった。
カイヤが顔を真っ赤にして立ち上がった。ユークは椅子の上に立って、また更にフォークをぶん、と投げた。「ちょっ」とカイヤが言って、見事な反射神経で避けた。更にユークは僕から僕の分のフォークとナイフも取ろうとした。「ちょっと、ちょっと……!」と僕は半分悲鳴をあげながらユークの力に抗ったけれど、指の関節がすごく痛くなった。がぁん、と音がして、ユークが「いたっ」と呟いた。
振り返ると、アメジがすごく険しい顔をして木べらを掲げていた。
「……食事中です」
「……」
ユークとアメジはしばらく見つめ合っていた。僕はユークの服の裾を掴んで、座らせた。
「ちょっと、ユーク、いきなり何やったの」
「……アズが、肉を切る道具だって言ったでしょ。てっきり武器なのかなって思って」
「は?」
「食事中に戦闘するなんて変な慣習だなって思ったけど、この料理食べるためにみんな血肉の争いを繰り広げてるのかなって」
「血肉……って、なんか使い方間違っているけど、一体なんでそんな発想に」
僕は空いた口を閉じることもできずにユークの澄んだ青い目を見ていた。ユークはと言えば、本気で言っているらしく、真顔だ。
「食事中は椅子の上には立ちませんし、誰かの背後をとって攻撃したりする時間じゃないです」
アメジがむすっとしてユークの後ろから声をかけた。ユークはアメジの方は見向きもせず、「ふうん」と答えただけだった。
「……って、だからってなんで俺を攻撃したんだっつの……」
カイヤもまた、アメジとよく似た表情をしながら皿を抱えて僕の隣にどかりと座った。ユークはつん、とカイヤに対してもそっぽを向いた。
「気に食わない」
「あのなあ、それはいじめって言うんだぞ!」
カイヤは歯ぎしりした。苛立っているのか勢いよくお玉を鍋に突っ込んだ。僕は赤い雫の二次災害を避けるために椅子ごと体を後ろに引いた。ユークが何かを呟いたのが聞こえて、僕は椅子を動かすのをやめた。
「……アズに頼られてホイホイ僕の所に来たの、なんか気に入らない……」
ユークは俯いて、ほとんど聞き取れないような声でそんなことを言っていた。
僕は溜息にならないようにゆっくりと細く息を吐いて、肩を下げた。よくわからないけれど、この子は野良猫みたいなものなんだなと思った。噛みついていい相手とそうじゃない相手の区別もわからないのだ。どんな生き方をしてきたのかわからないけれど……少なくとも、それを教えてやる人がいなかったのかもしれない。僕はなんとなくユークの頭を撫でた。ユークは首を反対側に傾けて、恥ずかしそうにそれを避けた。僕は自分の掌を見つめながら、やっぱり、花びらみたいだなと思った。
ニーナの頭も、ユークの頭も、ウバロの頭も……誰かの頭を撫でると、なんだか花をそっと撫でているような心地になる。僕が花が好きだからそう思うのかもしれない。ふと、僕の瞼の裏側に、赤みがかった黄色い花の花畑がよぎった。黄色いチューリップの花畑だ。その蕾を撫でたら、花びらが巻き上がって――僕は何かを忘れたような、そんな心地がするのだ。あれはいつのことだろう。夢の中のことだったろうか。
はっと我に返った時には、賑やかさが戻っていた。隣でくちゃくちゃとした咀嚼音が聞こえている。僕は隣を見つめてぎょっとした。心持ち、ユークから再び距離をとって赤い染みが服につかないようにした。
「……おい、てめえ」
カイヤが腹から響く、獣のような唸り声をあげた。ユークは目だけでカイヤを興味なさそうに見遣った。
「あんあよ」
「飲みこんでから喋れや。てめえ、その汚ねえ食べ方は一体どうしたよ」
「は?」
ユークは口中に赤い液を塗りたくったような体で、顔をあげ、ごくりと口の中のものを飲みこんだ。その瞬間、さっとユークの後ろから青い布が巻きつけられた――大きなよだれかけだな……と思いながら顔をあげたら、アメジが無表情に僕と目を合わせた。……いや、ありがたいけど、君もいつまでここにいるの。そろそろ座っていいんだよ……?
ユークは手の甲で口元を拭った。ユークの散らかした跡が辺り一面に飛び散っていた。ユークはしばらく僕たちの言葉を待っていたけれど、気を取り直してよだれかけを外そうとした。トマトで汚れた指が首元の結び目に伸びたところで、アメジがぱしん、とそれを叩いた。ユークはものすごい舌打ちをした。
「信じらんねえ……まるで獣かよ……」
「何がだよ」
カイヤの呟きに、ユークはむすっとしたまま熱いスープが溢れる皿の中に顔を突っ込んで、時々手を添えながら肉を噛みちぎった。僕は呆然としたままなんとなくカイヤと視線を交わした。カイヤはと言えば、背筋をピン、と伸ばして、すごく綺麗に肉を切り分けていた。意外だな、と思ったのは失礼かもしれないけれど、ユークとカイヤのギャップが凄すぎて、僕はただただ圧倒されていた。
「ねえ、ユーク。あのさ」
「何?」
ユークはまた頬も口も汚したまま顔をあげ、きょとんと首を傾げた。
「そんなことすると、服も汚れちゃうし、ちょっと食べる音が煩い。その食べ方、僕とお揃いにしてみない?」
「……アズとお揃い?」
「うん」
僕は笑った。
ユークはまた口元を手で拭って、指先を舐めた。僕は再び、溜息にならない程度の細い息をゆっくりと吐き出して笑顔を貼りつけた。
「いいよ。教えて」
ユークはにっこりと花が咲くように笑ったので、僕はびっくりしたし、多分カイヤも固まっていた。
本当に、懐かれちゃったんだなあと思いながら、僕はユークの白い睫毛や髪に跳ねた赤い汁をよだれかけで拭いてやった。でも僕は少し教え方が下手だったみたいで、ふわふわとした説明をしていたらカイヤにしびれを切らされた。その後はカイヤが手取り足取りテーブルマナーってやつを教えていたし、ユークはしばらくごねていたけど僕が笑って睨んだら大人しくなった。「もう、食べてていいよ?」と言うまで、アメジはユークの背後に張り付いていた。女の子はよくわからないな、と僕はカイヤの怒鳴り声に紛れて深く溜息をついた。
それから食卓を片付けている間も、アメジがずっと根気強くユークに銀食器を持たせ、あれこれと何かを教えてくれていた。ユークの舌打ちだけは何度も聞こえたけど、僕は放っておくことにした。部屋から出てきたスフェンが不思議そうに首を傾げ、説明を求めるように僕を見たけど、カイヤに任せることにして、僕は扉の外に出た。カイヤが何かを叫んでいるのが聴こえたけれど、ドアが閉まったらよくわからなくなってしまった。足音と僕の名前を呼ぶ声が近づいてきたので、僕はしばらくドアの傍で待っていた。カイヤは扉を開けて、僕の姿を認めると深く溜息をついた。手に引っ掴んだカーディガンを肩にかけて、僕を覗き込む。
「何外に出てんだ。この辺りにはドブネズミと嫌な虫しかいねえぞ」
「うん……そうだろうけど、なんとなく、この辺りの構造ってどうなってるのか見たくて」
「元役人なのに知らねえのかよ」
「僕の管轄じゃなかったから」
僕は肩をすくめた。
「………それ、口実だな?」
カイヤの眼は、薄闇の中なのに青くキラキラ輝いて見えた。眩しいな、と思いながら、僕は目を細めた。
「まあ……ちょっと、一人で考えたいこともあったし」
「邪魔しねえからついて行かせろ。一人で迷われちゃたまったもんじゃねえ」
「うん。じゃあ、よろしく」
僕はくるりとカイヤに背を向けて、暗い細道を川のような下水の中に落ちないように気をつけて歩いた。
魔法で灯りを灯そうとしたら、後ろから赤橙の光がぱっと灯った。
「……いい火だね」
顔だけで振り返ると、カイヤは鼻で笑った。カイヤの右の掌の上では、炎がゆらゆらと揺らめいていた。カイヤは目を伏せて、深く息を吐いた。
「どうだかな」
✝
カイヤの炎を頼りに、僕は時々道や壁を洗い流しながら細く続く闇のトンネルを歩き続けた。途中から、足元の床は明らかに人の足跡の少ない、苔で覆われた汚らしい区画へと移り変わった。それまで「邪魔はしない」と宣言した通り一言もよけいなことは言わなかったカイヤが、ようやく後ろから声をかけてきた。
「おい、どこまで行くつもりなんだよ」
「ああ、うん」
僕はおざなりに返事をした。辺りを見渡して、もう少し先まで行かなくちゃと思った。僕は振り返って、カイヤの青い目を見つめると、にっこり笑って見せた。僕の顔にカイヤは怪訝そうに眉を潜め、深い溜息をついた後右手に灯した火を消して、今度は左手に火をつけた。突然訪れた真っ暗闇と、続いて訪れた橙色の灯りに、目がすぐには慣れなくて、視界の端で青い線が揺れているようだった。僕は何度か瞬きを繰り返しながら、道を洗いつつ先へと進んだ。
先へ進むごとに、嫌な臭いは強くなったし、時々嫌な虫も見かけた。足がすくんだし、「おえ」と変な声も漏れそうになったけれど、風で吹き飛ばして見なかったことにした。僕にはとにかく、汚い場所だろうと先に進む必要があった。
「おい、もうそれ以上進んだってキリねえぞ。この下水道がどこまで続いてると思ってんだよ。そのうち分かれ道にぶち当たるし、世界中に張り巡らされてるってことわかってんのかよ」
「そう……だね。君達も滅多にこの辺りまでは利用していないみたいだしね」
僕は踵でぐちゃりと苔を踏みつぶしながら、カイヤの言葉に応えた。気を抜くと滑ってしまいそうになるから困る。
僕は振り返って、天井と、壁と、濁った水を眺めて細く長く息を吐いた。僕のそんな様子を、カイヤは訝しげに見つめていた。
僕は少しだけどきどきしていた。今からやろうとしていることは、僕が今まで夢に見ながら、一度もやったことがないことだった。罪人の一人となってしまった今でも、なんとなく悪いことをしているような気になるし、どうってことないや、とさえ思う。
「見ててね」
僕は笑って、杖を掲げた。
「ロゼ・アズライト」
僕の言葉に合わせて、下水の水面が揺れる。波紋が広がって、波になる。カイヤはぎょっとしたように水面を凝視しながら後ずさった。僕は嬉しくて、楽しくて、早鐘を打つ心臓の痛みを持て余しながら杖を何度も指揮をとる様に揺らした。
「ルメヌレーナ……」
僕の言葉と共に、明るい金色の蛍火の様な光の粒が散らばって、水面にぶつかっていく。水は光を飲みこんで、更に揺らめいた。その奥からやがて、緑色の葉が見えて、赤みがかった白い蕾が震えるように頭をもたげていく。カイヤが息を飲んだ音が耳に響いた。僕は笑いながら体と杖を揺らして踊った。蕾はやがて、蝶が目覚める時のようにふるふると一枚一枚薄い花弁を剥がし、花開いた。その花芯が黄金色に輝いて、辺り一帯を淡く照らした。花粉が光の粉となって、辺りにふわふわと浮遊した。
「蓮の花だよ!」
僕は僅かに息を切らしながら、振り返ってカイヤに笑った。
「泥水とか、汚い場所にも咲くことができる花なんだ。そういう花だから街で育てるのには向かなくてさ。でも、この場所にならすごく似合うと思って。それに、ここ、すごく暗いだろ? この花に光魔法を施してランプとして使えば、これから君達も暗闇に悩まされることはないかなあって……それにね、香りもいいし、綺麗だろ? ね?」
僕は、褒められたがる幼子のように声を弾ませていた。そうだ、僕は褒めてほしかったのかもしれない。ようやく心の赴くままに花を咲かせることができるようになった自分が、心の隅では誇らしくさえ感じていたのかもしれなかった。
だから、続くカイヤの言葉は、予想できていたことだったはずなのに、酷く堪えた。
「……こういうの、やめてくれよ。俺になんて言ってほしいんだよ」
カイヤは、苦虫をかみつぶしたような顔をして僕を睨んでいた。
「綺麗だな、とか、すげえな、とか言ってほしいわけ? 俺、何度か言ったと思うけど、この世界のやりようは気に食わねえんだよ。花をてめえの都合で咲かせて、てめえの都合で枯らせない、そういう不自然さが嫌いだっつってんだよ。俺がここでお前を褒めたら、俺の信念が曲がっちまうじゃねえかよ。そういうこと……俺に言わせようとしないでくれ」
カイヤは唇を噛んで、俯いた。髪で頬が隠れて、表情はよく見えなかった。僕の心は高揚していた分、今度は痛いほどに冷え切ってしまっていた。まるで、凍傷にでもなったみたいだ。
わかっていたことなのに――僕は、へら、と笑うことしかできなかった。
「うん。ごめんね」
カイヤは何も言わなかった。そのまま僕を睨むように振り返って、踵を返し来た道を戻った。僕も大人しくついて行った。
枯らせ、とは言われなかった。カイヤはカイヤ自身の信念のせいで、僕がこうして勝手にたくさんの蓮の花を咲かせたことが嫌でも、それを排除することはできないのだろうと思った。それは、カイヤがカイヤの都合で花の生を牛耳ることになるからだ。
「……あいつに見せればいいんだよ、こんなもん……俺だったらこんなん喜ばねえってわからなかったのかよ……くそ」
カイヤはぶつぶつとそう言っていた。悪態をつくのは、それだけ彼が傷ついているからだと僕は思った。
「ユークは……そばを歩いたら、花を枯らしてしまうだろ。そうしたら……あの子が傷つくと思ったんだ」
「ああそうかよ」
カイヤは細い声でそう言った。
僕は心の中で、謝ることしかできなかった。
不意に、僕が咲かせた花を枯らして、怯えていたモルダ室長の目を思い出していた。
――ごめんなさい。
もう一度だけ、僕は声にならない音で、そう呟いた。
アジトに帰ると、ユークがテーブルの上に突っ伏して眠っていた。左の頬が潰れていたので、多分起きたら酷いかたがついているんだろうな、と僕は思った。ユークと向かい合せにアメジが座って、眼鏡をかけて本を読んでいた。眼鏡をかけると、驚くほど兄に似ている。
「寝ろよ」
カイヤがぶっきらぼうにそう言った。アメジは顔をあげて、肩をすくめた。
「喉が渇きました」
「だからなんだよ」
「お茶注いでください」
「なんで俺が注ぐんだよ……別にいいけどさ」
カイヤは嘆息して、台所へと向かった。足音を立てないように踵をそっと床に当てているのが、僕から見てもわかった。
僕はアメジを何気なく見つめた。その紫色の眼を見ていたら、なんだか苦しくなった。
ニーナは……喜んでくれるんだろうか。本当は、喜んではくれないんじゃないんだろうか。
僕は、きゅっと杖を握りしめていた。懐の中に入れたラベンダーの花の種が、ずしりと重たく感じられる。
アメジがじっと僕を見つめているので、なんだか居心地が悪くて、僕はへらりと笑って見せた。アメジは瞬きもせずに僕を見据えたまま、形のいい唇を開いた。
「あなたの花の紋は、ビオラなんですね」
「うん」
僕は、少しだけ面喰らいながら、反射的に頷いた。アメジは目を閉じて、またゆっくりと開いた。
「兄の花の紋を……知っていますか」
「いや……そう言えば、聞いたことはなかったな」
「そうですか」
アメジは頷いて、膝の上で開いたままの本に視線を落とし、その茶けたページをそっと撫でた。
「知らなくていいと思います。まだ、今は……」
「それは、どういうこと?」
僕は少しだけ苛立って、眉根を寄せながら首を傾げた。アメジは緩やかに首を振っただけだった。
「あなたの花の紋がビオラである理由を、考えたことはありますか? あなたのその、紫と、黄色と、青の花弁の紋の意味を」
「……花の紋の種類に、理由なんてあるの?」
僕は少しだけ空恐ろしい心地がしながら、呟いた。
「もちろん。でなければ、花がかぶってしまうことだってあるかもしれないじゃないですか。けれど、そんなことはないんです。そう言う風に、できているから」
アメジは、口元に僅かな笑みを浮かべた。その微笑みは、どことなく悲しげだった。
「私は花魔道士ではないですが、もしも私が花魔道士の資格を得ていたのなら、きっと私にはラベンダーの花の紋が浮かんだと思います。彼が……勿忘草であるように」
そう言って、アメジはユークのつむじを優しい眼差しで見つめた。僕は冷えた指先を別の手で握りしめながら、震える唇を開いた。
けれど、何も言えなかった。僕は何度か口を開いては閉じを繰り返して、そのまま俯いて、目を泳がせた。
「私と兄は、特殊なんですよ」
アメジは、少しだけ明るい調子で言った。その顔を、僕は俯いたまま、前髪の隙間からそっと覗いた。
「私達には、私達にまつわる記憶があるんです。だから、あなたのことも会ってすぐにわかりました。兄がどう考えて何をしているのか、私はてんでしりません。でも私は、少なくとも……あなた達にとって、未来が最善であればいいなあと思います」
アメジはそう言って、僕から少しだけ視線を外した。彼女が見つめていたのが、僕の花の紋だと気づいた時には、彼女は再び本に視線を戻していた。
「あなたがビオラである理由は、それがあなたの大切な女の子を象徴するからです」
「……え?」
「紫色の眼、金色の髪、そして彼女が流した涙の雨。それが今のあなたです。だからあなたは、ビオラなんて描かれたことはなかったのに、ビオラなんです」
「アメジ……?」
「わからなくていいです。今は」
アメジは悲しそうに笑った。
「早く会いたいなあ、ニーナ」
僕は、彼女がニーナの容姿を知っていたことも、まるで懐かしむように目を細めるのも、酷く違和感を持って、なんだか怖かった。けれど、何も聞くことはできなかった。頭の中がごちゃごちゃしている。花の紋の意味は、考えたこともなかった。彼女が一体何を言っているのか、わからない。わからないことが恐ろしい。
スフェンに聞けば、もっときちんと教えてくれるのだろうか。けれど、彼はそういうことは何もはっきりと教えてはくれないような気もした。だってこの兄妹は、よく似ている。
――『いつかはこうなるべきだったんでしょうから。ようやく、あなたの物語が動き出した……ただそれだけのことです』
「僕がいつか……君たちが答えを教えるに足るような人間になれたら、そのよくわからない物言いを止めて、僕にちゃんと全部を教えてくれるの?」
僕は、前髪を払いのけないままに、アメジを見つめて唸った。アメジは不思議そうに首を傾げただけだった。
僕は力が抜けてしまって、椅子にどさりと座りこんだ。ユークの額の紋――勿忘草を見ていたら、なんだか泣きたいような気持ちになった。今更だけれど、僕は、今の僕に無条件でついてきてくれる、僕を慕ってくれるこの子をないがしろにはできないと思ったのだった。僕なんかについてくる必要はないのに、と思っていた。僕なんかに左右されないで、自分のために生きてくれたらいいのに、とさえ。だけど……僕は少しだけ、カイヤに否定されて、苦しかったのかもしれない。曖昧なことばかり言って、僕の心をかき乱すスフェンやアメジに少しうんざりしてしまったのかもしれない。今は、僕に懐いてくれているユークが、心強く感じられた。彼が傷ついたらいけないから、だなんて偽善で、ユークが一生通ることはないだろう場所で蓮の花を咲かせたけれど。でも僕は、今はユークにあの光る蓮の花を見せたかった。僕は自由だって。君も自由だよって、そう、伝えたいような心地がした。
カイヤの足音と、食器が擦れる音がした。僕はその音を振り切る様にして、再びドアを開いて外に出た。
カイヤにはまた、怒られるかもしれないなあと思った。もしかしたら、失望させてしまうかもしれないし、傷つけてしまうのかもしれない。でも、僕の原点がニーナのために花を咲かせることであった以上、僕とカイヤの根本は相いれないのだろうと思った。それでもついてきてくれるというのだから、僕は僕なりにカイヤに誠意を見せていこう。たとえそれが、カイヤにとっては誠意でもなんでもない、僕のただの自己満足だとしても。
僕は、泥水の中に種をばら撒いて、杖を揺らした。
ふわりふわりとピンク色の花が咲いて、花芯が辺りを金色に染め上げる。汚水の嫌なにおいを、花のいい匂いが和らげてくれる。
僕は、汚さと可憐さが混じりあった空気を思い切り吸い込んで、吐いた。ドアを開けて中へと戻ったら、せっかく入れたお茶が冷めるだろ、とカイヤに小さな小言を言われた。
明け方、アジトを出た。扉を開けた途端、ユークは子供のように目を見開いて、カイヤは眉を潜めたまま僕から目を逸らした。僕は二人の表情を直視できないまま、ユークの花の紋ばかりを祈るような心地で見つめていた。ユークはしばらく呆然としたまま、下水道の端道をとぼとぼと歩いた。数珠連なりのように、下水の川に点々と並び続ける光る蓮の花は、彼の体を追いかけるように萎れて、枯れていく。それでも金色の光は淡く灯ったままだった。その光をしばらく凝視して、ユークは僕の方をゆるゆると振り返った。首を傾げた彼の灰青の眼は、僕に声にならない言葉を問いかけているように思えた。
「うん。僕が昨夜咲かせたんだよ。通路は明るい方がいいと思って。光魔法との複合だよ」
「そう……」
ユークはそう言って、再び枯茶色を滲ませた蓮の花びらの名残をじっと見つめた。
「……すごいなあ。一晩で、なんて」
「そうかな?」
「うん……僕には、こんなにたくさん一度に咲かせられない」
「もっとたくさん咲かせてるよ。向こうの方にさ」
僕は暗闇の奥を指さした。ユークはのろのろと僕の指す方を見つめて、頭を振った。
「見には、行かない。枯らしたくないから……枯らしてごめんね」
「いいんだよ。いいんだ。君が枯らしたくないってことは分かってるから」
「うん……」
ユークは頷いた。なんだかその仕草は、とても幼く見えた。
僕は胸の内がぎゅっと締め付けられるような気がして、ようやく心から笑えたのだった。
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