第三章 勿忘草のメランコリア
十、花咲かしの少年
目の前の窓には雨の痕がたくさん染みついていて、外の景色は少し汚れて見える。僕はそこから透けて見える外の景色を――眼前に広がっていく紫色を、ただ呆然と見つめていた。
埃一つない飴色の木板の床に、泥だらけの靴底はぴったりと貼りついてしまったのかもしれない。一歩だって動けない。目の前の光景が、あまりにも非現実的で、信じられなくて。あまりにも、綺麗で。
僕の喉から、変な嗚咽みたいな音が漏れた。
アズが、僅かな種からラベンダーを景色一杯に咲かせていく。芽吹き花開いて行く淡い紫色の粒。花の香りが鼻の奥に漂ってくるような錯覚さえ覚えた。信じられなかった。僕は、僕でさえ、昔は秀才だって、才能あるねって言われてた。だけど僕は、アズのように
なのにアズは、さっきもたくさんの山荷葉を咲かせて、今度はこの闇晶通りの一帯に新しい紫の花畑を作ってる。お役人の――勲一等級の魔道士が、何十人も寄ってたかってやっと咲かせられるだけの花達を。
「は、あ、あ」
僕は、額に手を当てながら、俯いて唸った。苦しむような声が、僕の喉からみっともなく漏れ出た。僕の傍で微動だにせず窓の外を見ていたニーナは、僕の声に一度だけ僕を見た。
「すごい、なあ、アズは」
僕は、まるでニーナに聞かせるみたいに、吐きだすようにそう呟いてしまった。僕の胸の内に、なんだか気持ち悪い、紫色の感情が渦巻いた。僕はアズが大好 きなので、そんな気持ち持ちたくないんだ。やめて、やめて、と思っても、その感情はぐるぐるとうねって僕の眉間をずきずきと痛ませた。僕は嫉妬していた。 アズの才能に、どうしようもない絶望と、羨望と、泣きたくなるような苦しさを感じていた。
(ビオラ……)
僕は、額の紋を引っ掻きながら、歯を食いしばった。
アズは、僕がアズの紋を見た時、どれほど憎らしかったか知らないだろう。でも、今はなんだかすごく納得しているのだった。そりゃあ、アズならビオラだっただろうなって。
僕がもらえなかった、その花だろうなって。……偶然なんだろうけど、でもそんな風に考えたくなっちゃうんだ。僕はアズには絶対に敵わないって。敵わなくていいんだって。
「そう、かな」
不意に、ぽつりと、ニーナが呟いた。僕は少しだけ驚いて、顔を上げた。カイヤの怒鳴り声が聞こえて、遠ざかる。カイヤが、アズを何か叱っているみたい だった。僕は、いつものようにカイヤのそういう図々しさにちょっとだけむっとしてしまった。いや、僕は単純に、カイヤのことが羨ましいのだと思う。僕は僕 を助けてくれたアズに、どうやったら僕がどれだけ嬉しかったかを伝えられるのか、わからない。だから、あんな風にまっすぐ怒鳴れるカイヤが羨ましい。同じ くらい、気に入らない。
ニーナは、ラベンダー畑を凝視してた。僕は、それ以上の言葉をこの子にかけることができなかった。なんだか、苦手なのだ、この女の子のことが。
僕はまた、ニーナにも嫉妬しているのかもしれないと思った。アズの心の半分以上を持ってる女の子が、羨ましくてたまらないのかもしれない。だから、差し 出された手を素直に握り返せなかった。……でも、それだけじゃないんだ。だって、なんだか……アズが、この子には負い目があるみたいだから。
僕は小さい頃から、特殊な環境で育ったから、人の心の微妙なところを感じ取るのは得意というか、癖みたいなものだと思ってる。アズは多分気づいていない けど、でもアズは、ニーナって子のことが好きというより、まるで負い目があるみたいだと見ていて思った。なぜと言われても、僕にだってわからない。根拠な んてないし、こんなの、ただの勘だ。アズは、ニーナを喜ばせたいと口では言いながら、本当は自分のすることをニーナに認めてもらいたいんだろうなって。だ から、ニーナのことばかりを気にする。アズにとってはきっと、ニーナの肯定の言葉が、何よりも大切なんだ。ラベンダー畑を見せたかったのだって、ニーナを 喜ばせたかったからじゃない、ニーナに認めてもらいたかっただけじゃないのかな……って。
玄関を駆けてきたアズは、息を切らしていた。その目はキラキラと朝露みたいに輝いてた。息を切らせていると言っても、それはどちらかというと興奮してい るせいという気もした。アズはずっと、ニーナだけを見ていた。僕の方は一つも見てくれなかった。ニーナはずっとずっと窓の外を見つめて、一滴の涙を零し た。その表情は何を想っているのか、伝わりにくかった。僕は、どくんと心臓が押しつぶされたような心地になった。――ニーナ、喜んでないなって。
ニーナは疲れたような、アズを蔑んだような目で床を見て、呟いた。
「あなたは……やっぱりわたしの心をわからない」
アズの表情が、キラキラ笑っていた顔が、強張ってじわじわと絶望に染まるのを、僕は苦しい気持ちで見ていることしかできない。
アズは、ニーナがどうしてそんなことを言ったのか、わからないみたいだった。カイヤはカイヤで、そんなアズを労わるような責めるような目で見ている。でも僕は、多分こいつも事がわかっていないと思うのだ。
カイヤは多分、『押し付けた親切なんて喜ばれないに決まってるだろ』とか、『罪で手を汚して魔法を使ったって、喜ぶわけないだろ』とか、そんな感じのことを思っている気がする。なんとなく、カイヤはアズとすごく似てるんだ。僕から見て。
でも、そういうことじゃないと思う。ニーナがああ言わないではいられなかったのは、きっとそういうことじゃないのだ。けれど僕は、それをうまく伝える言葉を一つも持っていない。それがすごく歯がゆい。僕はただ、胸のつかえに急かされるように少し裏返った声を零した。
「あの、さ」
アズの顔を見ようとしないニーナ、何か言うことがあるのに言えずに苛々しているカイヤ、ただ茫然と立っているだけのアズ。そんな三人を見ていたら、何か言わなくちゃという心地になった。僕のそんな気持ちだって、偽善なのかも、だけど。
「あんだよ」
お前じゃねえよ。
カイヤが僕を真っ青な目でまっすぐに見てきたので、僕はカイヤを冷めた目で見つめ返した。けれどすぐに気を取り直した。頭を小さく振ってみた。まあ、いいや。今はそういう場合じゃない。
なんか……別に噛みつきたくはないんだ。でもなんだか、苛々するんだよ、カイヤと話すと。そういうのってあるだろ。仕方ないじゃん。ただ、アズがいるか ら一緒にいるだけだし――僕は、心のしびれがとれかけたちくちくする痛みを感じない振りしながら、反らしかけた目をもう一度頑張ってカイヤに向けた。
「どうやって、ニーナを連れていくの。車椅子だから、あのマンホールは降りられないだろ。それとも、誰かが抱える?」
「それ。それを言おうと思ってたんだよ」
カイヤが、まるで助かった、とでもいうように、ぱっと顔を輝かせた。うっさいな、別にお前に手を差し伸べたわけじゃないぞ。僕は条件反射で顔をしかめた。カイヤは僕のそういう態度に慣れてしまったのか、そのままの和らいだ表情で穏やかに話を続けた。
「二つ考えてるんだけどな、お前とアズは顔がわれてるだろ。だからまだ顔を知られてない俺が、ニーナの椅子を来た道押して連れて行って、まあ、地下に下る 時は抱きかかえて降りようかと思ってた。でもな、それだとニーナのことも向こうは見張ってると思うから、追けられて俺らのアジトがばれる危険性もあるんだ よな。で、アズにまず俺とニーナをアジト内に転送してもらったらどうかと思うんだけど。その後改めて合流してさ」
「魔法を使ったら、転送先の座標がばれて、アジトの場所もばれる可能性があるよ」
アズが、目を伏せたまま疲れたような声で言った。
「たとえ真名で鍵をかけたとしても、僕の真名なんてすぐばれるだろ。宝石の名前と一緒なんだから」
――ほう、せき?
僕はふと、アズの言葉に違和感を感じた。どうして真名がばれるなんてことがあるんだろう。そんなはずはないはずだ。真名は名前を持つ本人しか知らない し、聞き取れるようなものでもない。現に僕は、アズが時々真名を詠唱しているのを聞くけれど、一向に覚えられない。……まあ、覚えようとも思っていないん だけど。
僕の胸の内の違和感をよそに、カイヤはアズの言葉に大きく頷いた。
「ああ……だな。それはそうなんだけど、あれ?」
不意に、カイヤも変な声を出した。途中でアズの言葉の何かに引っかかったようだった。それが、僕と同じところなのかそうじゃないのかまでは、僕にはわからないんだけど。
「何?」
アズが、力のこもらない声で呟いて、長い前髪に覆われた目だけでカイヤを見た。長い睫毛が揺れて髪の細い束を微かに揺らした。カイヤは首のあたりの肉を手まぜでいじりながら、唸った。
「そういえばさ……いや、やっぱなんでもない」
「なんだよ」
僕が苛立ったような声で言うと、カイヤは手の甲で額を撫でて俯いた。
「いや、今はいい。話続けるぞ」
「だからなんだよってば」
「いや……ってお前、やけに食いつくな」
カイヤは僕を見て困惑したように眉根を寄せた。僕は歯ぎしりしながら右足でタンタン、と床を踏み鳴らした。
「なんか、濁されるのって苛つくんだよね」
「ああそうかよ」
カイヤもさすがにむっとしたように僕を見返した。
「いまさら喧嘩……? いい加減にして」
僕達の間の張りつめた空気を、もっと鋭いアズの声が遮った。僕は俯いて、気持ちを静めようとした。僕が息を細く吐いたのとほとんど同時に、カイヤもやけにのろい喋り方で呟いた。
「いや、単純に、そう言えばニーナの名前って宝石じゃねえなって思っただけで。俺も、アズも、ユークも、宝石じゃん」
「だから、そのほうせきって何」
僕が放った一言に、アズが弾かれたように顔を上げた。またその顔に絶望にも似た色が差して、僕は心臓がぎゅっと握りつぶされた心地がした。何か、アズを傷つけることを言ってしまっただろうか。僕にそんな顔、向けないでよ。そう言う顔、弱いんだよ、嫌なんだよ。
目蓋の奥で、記憶の底に沈めた人間の淡い緑の眼差しが浮かんで、僕は自分の胸座をぎゅっと握りしめた。
「そうね」
ニーナの声は、小さかったのに部屋によく響いた。
「よく気づいたね。私の名前は、宝石じゃないよ。でも、今はまだ、だめだよ」
ニーナはそう言って、唇に人差し指を添わせ、なぜか僕を見た。僕は眉を潜めた。そしてなんだか、不快な気持ちになった。
ニーナが、僕のことをまるで母親のような目で見ている。
……僕は母親なんて知らないから、母親の目ってこういう感じなのかなと思うだけだ。まるで慈愛に満ちたような、僕を憐れんでいるみたいな。憐れまれる筋合いなんてないと思った。僕はふつふつと沸き上がる苛立ちを体の中で持て余しながら、同時に苦しくなった。
ニーナの目は、憂いと悲しみでいっぱいだ。
どうしてそんな目をしてるんだろう? アズの前では、なんだか強がって見せてるみたいなのにな。
精いっぱい、包容力のある女の人を演じようとしているみたいな、そんな感じ。僕は、もしかしてこの女の子は、僕の妹よりも精神的には幼いんじゃないだろうかと思った。僕の妹は、もう少し見ててゆとりがあったように思うのだ。
……思うと言っても、記憶の中のことだから、僕が記憶を歪めて覚えてるだけかもしれないんだけど。
「話戻すけど」
カイヤが僕達を見て、空気を読んだように話を戻した。その気の効く感じも、なんかちょっと気に食わない。正直、今は助かったけど。
「ユークの力が花魔法を解除するような性質があるんなら、アズの敷いた陣をユークが消せば足跡を辿られることはないんじゃねえの? ……って思ったんだけど。どう?」
「それは……」
僕は呟きかけて、やめた。多分、僕の力のことも、そういう魔法の痕跡とかのことも、僕よりアズの方がずっとたくさんわかるはずだ。
「……そうだね。なんか、また僕の都合でユークを利用するみたいになっちゃうけど」
アズは、視線を床に落としたまま、投げやりに笑った。
僕は僅かに焦っていた。アズが落ち込んでいるのは、明らかにニーナの発言のせいだと思う。ニーナがアズのラベンダー畑を喜ばなかったからだ。――あれ? もしかして、アズって結構子供だなあ。
なんとなく、妹の機嫌の具合に一喜一憂していた自分のことを思い出して、僕は首をねじるように傾けた。
アズの気持ちを、晴れさせてあげたい。
でも、僕なんかに何ができるだろう。できるとすれば、僕には甘えることしかできないのだ。アズに我儘を言うくらいしか――
……それは、僕の中にまだ僅かに残るプライドとか、見栄みたいなものの茎を踏んで萎れさせるような行為だった。だけど僕は、今アズに頼らなければ、僕自身もきっと後で後悔すると思った。
だってアズは僕と違って、僕のやりたかったことが――花をたくさん咲かせることができる人なんだから。僕が尊敬できる唯一の人なんだから。
「僕は、そんなの構わないんだよ」
僕は静かに、ゆっくり言った。なんか、すごく甘えているみたいな言い方になっちゃったかもしれない。昔から、妹には「おにいちゃん、ゆっくりしゃべるとなんか甘えた声になるよね」と言われていたし。自分ではよくわからないんだけど。
「その代わりさ、じゃあ、アズがカイヤとニーナを送ったら、ちょっとだけ僕の用事に付き合ってよ。それで、ちゃらにして」
「用事?」
ラベンダー畑を咲かせてから、アズが初めて僕の顔をまっすぐに見てくれた。アズの黒い瞳に、光が戻ってきているのがわかる。僕はアズの目を負けないように見つめ返した。
「うん。なんか、その用事、カイヤがいると嫌だしせっかくだし」
「お前、ほんと俺のこと嫌ってんな?」
カイヤが深々と嘆息した。僕は胸の中にまたしびれた後のようなちくちくした痛みを感じて、舌打ちした。
別に……嫌ってるわけでもないけど、ただいけ好かないんだってば。
ニーナは、僕をただ静かに見ていた。視線をあげるとその紫色の目と目が合って、僕は反射的に眉尻を下げた。
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