十五、少女の残した種
闇の中を、アズとゆっくり歩いた。だから水銀通りにつく頃には鳥の声が聞こえ始めて、空は裾の方から白んで来ていた。まだ太陽は顔を覗かせていなかったけれど、僕たちはやっと先を急ぎ始めた。道を駆け抜けると、僅かにパンの焼ける匂いがした。少しずつ重なり合っていく食器の擦れる音や、階段を踏むようなトントンという足音に僕らは息をひそめ、できるだけ足音を立てないように駆けた。相変わらずアズは走るのが下手で、僕が担いで走った方が速かったし音も立たない。そのうち朝早く活動を始めた人々の姿が道にもちらほら散らばり始めた。僕はアズの身体を抱えあげて、壁を走って屋根の上に上った。屋根の瓦はどうしたって足を踏み出せばかんかんと音が鳴る。僕はなるだけ人目につかないように、屋根と屋根の影になるような隙間を選んで走った。アズは、「鳥だ」なんてのんびりしたことを呟いた。空に誰かが離したのか、白い鳩が飛んできて僕やアズの髪に羽毛がついた。
全速力で駆けたから、少しだけ息が切れる。カイヤのアジトに続く廃屋の屋根を見下ろして、僕は辺りを見回した。一人だけ、パンの入った籠を抱えた女の子が歩いている。その子の後方までじっと見つめて、他に人がいないことを確認してから、僕は息をついた。あの子がいなくなったら、降りよう。
「ユークは、すごいね」
アズが、のんびりとした声で言った。
「壁を上って走れるとか、運動神経がすごいよね」
「ああ……」
僕は、灰を吹きはじめた煙突たちをぼんやりと眺めた。
「花枯らしの……その、魔力の質が変わってから、なんだか体中に力が有り余ってるんだ。暴れたくなるって言うか、すごく体がむずむずして、すごく……なんていうか、怪力になってる。重い剣とか、大人が両手で持つような鉄の兜も軽く感じる。だからアズのことも全然重いって思わないし。壁も前は上れなかったんだけど」
「はは、そうなんだ。それ聞いて少し安心した」
アズは笑った。僕は眉根を寄せた。
「えっ、今の笑うところ?」
「あは、だって、僕と一緒だったんだなって思って。僕も壁上れないし」
「それは……アズは僕と同じになっても、あんまり変わらないんじゃないかな……」
「えー? なんで?」
「うーん」
身体能力的に、多分無理なんじゃないかなとは思ったけれど、言わないことにした。アズはぼんやりと壁を見ている。もしかして、壁を駆け上ってみたいのかな、と僕は思った。変なの。行儀が悪いって僕は自分でわかってるんだけどなあ。
女の子の姿が消えたことを確認して、僕はアズの身体を抱え直し飛び降りた。ぶわりと髪が逆立つ。アズは「うわっ」と小さな声を出したけど、特にそれ以上身じろぎもしなかった。アズも大概、肝は座っている方だと思う。
相変わらず、その廃屋は汚れた布やガラスの破片、食器の破片やしみのついた紙が散らばって、汚い。ランプもないから、朝焼けの中でその部屋は薄紫色に曇って見えた。僕たちは、ギシギシと軋む床を音を気にせず踏みながら歩いた。白い光が差し込む、ひびだらけの木板の階段の下にアズと僕の影が差した。アズがその一段に足をかけようとする。その時、誰かが二階の窓から入ってきたような衣擦れの音と、どん、と足を床に踏み鳴らした音が聞こえて、天井からパラパラと埃が降った。足音は存在を潜めることもなく僕たちの頭上をなぞって近づいて来る。僕は反射的にアズの襟首を掴んで、傍に倒れている壊れた箪笥の影に隠れた。「メメントモリの人じゃないの?」とアズは呑気に呟いた。確かにそうだけど、でももしかしたら違うかもしれないじゃないか。追われてるってこと、忘れちゃだめだ。僕は溜息をつくのを堪えながら息を潜めた。
やがて、白い光の筋が途切れて影に消えた。人影が動いて階段を駆け下りる。そのままそれは全速力で家の出口へ駆けて行った。戻ってきた白い日の光がその赤い髪をぱっと輝かせる。
「おい、赤髪!」
僕は腹から怒鳴った。カイヤはびくっと肩を揺らして、玄関で立ち止まった。ばっと風の音が鳴るくらい、勢いよく振り返る。その顔はなんだか、蒼白で、表情も固い。
「あ……戻ってたのか。早いな」
カイヤは僕たちを凝視したまま肩をゆっくりと反りあげていった。そして、深く大きな息を吐いた。
「なんだよ」
僕は眉根を寄せた。アズも隣で首を傾げて、アズの髪が僕の肩で擦れた。
カイヤは一瞬だけ目を泳がせて、口を引き結んだ。そしてもう一度アズをじっと見た。
「ごめん……お前に謝らなきゃいけない。俺は……俺達、ニーナを見失った」
「え?」
「は?」
僕とアズの声が重なる。カイヤはぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「ごめん!」
カイヤはその場で土下座した。意味がわからなかった。赤い髪に埃が絡む。汚いし、やめればいいのにと思った。それに、見ていて気持ちがいいものじゃない。
「やめて……そういうの。何、何があったの」
アズが動いて、カイヤの腕を引いて立ち上がらせた。アズの声は震えていた。アズはカイヤの目を見ていなかった。うろうろと、黒い目が泳いでいる。
「ニーナは、王城に行った。アメジが……手引きしたんだ。俺が目を離したすきに、いなくなった。魔法で、転送魔法でいなくなった」
「え、は、どういうこと? ほんとに、意味がわからない……」
アズは、前髪をくしゃりと右手で握って引っ張り、俯いた。ぶつぶつと、「わからない、わからない」とずっと呟いていた。そのうちアズは、両手で髪をつかんで引っ張り始めた。僕が何かを言うより先に、カイヤがその手を叩いて、アズにそれをやめさせた。
アズは虚ろな目で、背中を丸めたままカイヤを呆然として見あげた。
「どういう、こと?」
「わからねえよ、誰も教えてくれないし。ただ、用は終わったから今度はお城に行くって、書き置きがあっただけ……」
「アメジは? アメジは、なんて……」
「アメ、ジは、」
アズの言葉に、カイヤは喉が詰まったような声を漏らした。
「アメジは……何も言わない」
「そ、う」
アズは口を開けたまま、どこともないところを見つめていた。しばらく僕たちは黙っていた。やがて、アズがぽつりと、「なんで……?」と零した。僕にもわからない。なんで、ニーナは急に王城に行こうと思ったんだろう。アズについて行くって、言ってたのに。
「……お前らに、教えに行こうと思ったんだ。俺、転送魔法とか使えないから、走るしかねえし。スフェンは、魔法使ってくれねえし……」
カイヤは静かな声で言って、息を吐き出した。
「アズ、お前ひでえ顔してる。休まずここまで来たんじゃねえの。ちょっと休めば」
「カイヤも酷い顔だよ」
アズはへら、と笑って、また前髪をくしゃりと握った。今度は引っ張らなかった。この仕草は、アズにとって無意識なのかもしれない。
「でも……そう、そうだね、頭が壊れそう。痛いなあ。わけがわかんない」
「休め」
カイヤは苦しげに顔を歪めて、アズの背中を押した。アズは糸の切れた操り人形みたいに、のろのろと腕を揺らしながら階段を上った。僕も、二人の後についた。前を歩くカイヤの髪や服から埃が落ちてくる。僕は眉を潜めながら口を手で覆った。少しだけ埃が口の中に入ってしまった。
錆びた梯子の前で、アズはぼんやりと立ち尽くした。その目が横に揺れる。アズはまた、空を舞う鳥を眺めていた。
「おい赤髪、頭の埃払ってよ。落ちてきて、迷惑なんだけど」
僕はアズの腕をそっと引きながら振り返って、カイヤに口を押さえたまま言った。
「え、ああ……わり」
カイヤはきょとんと眼を丸くした後、ぱたぱたと頭と肩を手で叩いた。埃が舞う。僕は目を瞑って顔を逸らした。少しだけ咳が出た。アズも小さく咳をした。あんなところで土下座するなんて、馬鹿だよ。でも、それくらいカイヤの気持ちはどうしようもなかったのかもしれない。
カイヤを先に促して。僕はアズを抱えて梯子を蹴り、窓から飛び降りた。アズはさっきよりもずっと重かった。だらんとして、全く力が入ってない。まるで小麦粉の入った袋を持ってるみたいだ。今にも肩からずり落ちそうで、怖い。
そのまま、結局アジトのドアを潜り抜けるまで、僕はアズを抱えていた。僕が跳ぶたびがつんがつんと僕の背中にぶつかるアズの頭が気になって、途中から背中に負ぶった。今度は、アズの左腕がぶらんと垂れさがって、ぼくの脇腹にがつがつとぶつかった。
部屋の中に入って、アズの身体を下ろす。アズはやっぱり、奇妙に斜めに傾いた格好で立っていた。カイヤも、アズの様子を気にしているみたいだった。何もしていないのにふらりとよろけたアズを、カイヤが腕を掴んで支えた。
部屋を見回して、僕は妙な違和感を持った。食べ物の染みがついて、磨いても磨いても脂っぽくべたりとしている床に染み入る様な、蝋燭の灯り。食器棚には、最後にここを離れた時と同じようにたくさんのマグカップや皿が詰め込まれていて、玄関から辛うじて見える壁にぶら下がった鍋には、取れない焦げや油の粕がこびりついている。台所にも、食べ散らかした食器が山と積んであって、脂っぽい匂いが部屋中に漂っている。床と同じくべたついた肌触りの大きな テーブルの真ん中に、誰かがついさっきまでお茶を飲んでいたのであろう、カップが二つとポッドが置いてあった。僕はそれを見た覚えがある。……アメジが、僕に何度もお茶を注いで、差し出してきたティーカップだ。口に黄色い縁のついた、白い陶器の。ふわりと漂う茶葉の匂いが、僕にその苦さを思い起こさせた。 乾いた口の中を湿らせるように、僕は喉をごくりと鳴らした。僕の鳴らした音に気づいてか、そんなの関係はなかったのかわからないけれど、テーブルの傍で背中を丸めて屈んでいた人影が徐に振り返って、ゆったりとした動作で腰をあげた。
「おや、おかえりなさい」
スフェンは首を傾けて、静かに笑った。その手には、柄に藍色のリボンがついた小さな箒とブリキの塵取りが握られている。
「うん……ただいま」
アズも弱々しい声で応えた。アズは、徐に右のこめかみを掌で押さえて、へら、と笑った。
「掃除してたの?」
「ああ、そうです。そうです」
アズの質問に、スフェンも少しだけ虚ろに視線を揺らして、静かにそう答えた。
僕はもう一度辺りを見回した。やっぱり、何かが変だと思う。つい何日か前、各部屋のドアを締め切っても聞こえて来ていた野郎達の話し声も笑い声も、どすどす煩い 足音も、何も聞こえないんだ。この室内で今聞こえているのは、スフェンが身じろぎした衣擦れの音と、蝋燭が時々零す火花の音、カイヤが鳴らす爪先と床のぶ つかる音。それだけ。
「アメジは?」
僕は、自分でも思っていた以上に唸るような声を出してしまった。なんで僕、急にあの子のこと気になったんだろう。目の前に、飲みかけの紅茶があるからかな。スフェンが、なんか様子がおかしいからなのかな。スフェンは僕に視線を映して、目を細めた。
「ああ……君、いつの間に妹と仲良くなったんですか? 気にしてくれるんですね」
スフェンは柔らかく笑った。その笑顔にもまた僕は違和感を感じた。スフェンがそんな風に、何の裏もなさそうな顔で笑うのって、初めて見た。
「別に……仲いいわけじゃないけど」
「えー。ずっと二人で話し込んでたじゃない。テーブルマナーってやつ練習してたみたいだったけど」
アズが、少し投げやりな声でそう言った。僕はムッとして振り返ったけれど、アズの口元が僅かに笑っているのを見て何も言えなくなってしまった。
「別に……ほんとに、結構言い合いになってたよ。仲よくないよ」
僕は小さな声で言った。スフェンはぽかんと口を開けた後、テーブルの上に塵取りを置いて、徐に手を打ち鳴らしはじめた。まるで拍手をするみたいに。
「これはこれは……そうですか、あの子が、君には噛みついたんですか。珍しいなあ。うん、それなら……最後にそれなら、それはそれでよかったのかも、しれないな……」
「何が」
僕は、次第に昂ぶってくる不機嫌を隠せもせずに唸ってしまった。スフェンは首を振って、「いえ」と呟き、塵取りの取っ手を握り直した。中に入れたごみを落とさないように、そっと――
「画用紙?」
不意に、アズの声が僕よりも前の方で響いた。僕は正直びっくりしてしまった。ついさっきまで僕の後ろにいたのに。アズは眉根をぎゅっと寄せて、塵取りの中身を覗きこんでいた。アズの眉間の溝が、ろうそくの明かりに照らされて少し金色にも見える。
スフェンは、アズからその塵取りを避けるようなふりだけした。そして、面白いものを見るような目つきで目を細めて、笑った。アズがそれでも、自分から遠ざかった塵取りに向かって首を伸ばしたから、アズは半分スフェンの肩に顎を乗せるような形になった。
「なんで……ここに、画用紙の切れ端が……」
アズの声は震えている。僕は、アズの言う【がようし】が何なのかいまいちわからなかった。
「役目を終えたからですよ」
スフェンは肩をすくめた。アズの顎とスフェンの肩がぶつかって、アズが小さく「いたっ」と声を漏らした。
「役目?」
「お前、今まで人が死ぬの見たことねえの?」
眉を潜めた僕の横顔を見つめて、カイヤが言った。振り返ると、カイヤは静かな表情で――何の感情も浮かべていないみたいな眼差しで、僕を見ていた。
「な……見たことは、そりゃ、無いけど」
僕は喉を鳴らした。カイヤは目を伏せた。カイヤの下瞼に、睫毛の黒い影が落ちた。
「そうか……あんまり楽しいもんじゃねえし、見なくて正解っちゃ正解かもな。でも、今後急に見たらショックだろうから、教えといてやるよ。聞きたくもねえかも知んねえけどさ」
カイヤは床を睨むように見下ろして、息を深く短く吐きだした。
「あの紙切れが、アメジの亡骸だ」
「は?」
「え?」
僕とアズの声が、重なった。僕達は反射的に顔を見合わせたまま、しばらくお互いに視線も逸らせず呆然としていた。何を言われているのか、わからない。
「骨、じゃなくて、紙……が……? 画用紙を破ったみたいな……切れ端が……」
アズの僅かに開いた唇の奥から、擦れた声が零れた。僕には、アズがそんなことしか言えないわけが全く理解できない。何を言っているのかもわからない。僕は、もっと、違うだろ、今呟くべきなのはそんなことじゃないだろ、って、急にかっとなった。
「そうじゃなくて、なんでアメジが死んだんだよ!」
僕は、叫んでいた。アメジのことなんてよく知らない。たった一晩関わっただけ。お茶は飲まないって言ってるのにしつこく食い下がったり、しゃもじで叩いてきたり、できないって言ってるのに勝手にテーブルマナーなんか教えた挙句、できないからって手を叩いてきた女の子のことなんて、理解できてるわけがない。むしろ、すごく嫌だった。僕がかけたたった一言の言葉に、勝手に懐いてきた女の子のことなんて。
でも、亡骸がどうとか、紙だとか、そんなことどうでもよかった。それよりも、なんで急に、って。そんなことしか思い浮かばない。頭の中がぐちゃぐちゃだ。嘘だろって。信じられない。なんでそんな亡骸を、床を掃きような箒で……掃き寄せて……。
「ニーナ、でしたか。その子を王宮に届けるため、まともに正しい使い方も知らない魔法で道を切り開いたからですよ」
スフェンは口元に柔らかな笑みを浮かべたまま、目を伏せて言った。
「ニーナ嬢が君達に見つからず、あの車椅子でここから王宮へ逃げるには、転送魔法を使うしかなかった。私は拒否し、妹はそれを使った。ただそれだけのことです。体に負担がかかったし、そもそもアメジの存在意義はただのそれだけでした。……この世界ではね」
スフェンは顔を上げて、アズを見た。
「そう。彼女――ニーナ嬢自身の、幸せへの道を切り開くこと。我らが主しゅの創りたもうた世界に抗ってでも」
「幸せへの、道……?」
アズは、魂の抜けたからくり人形みたいに、奇妙な抑揚でそう言った。
「じゃあ……ニーナ……どうしてここに来るなんて、言ったんだ」
アズの呟きに、僕は反射的に肩を揺らした。アズの顔を見つめると、アズは瞳を壊れた人形のようにゆらゆら揺らしていた。
「何で……最初から、来たくないなら、言ってくれたらよかったのに……来るって言ったじゃないか。なのに……なんで……ニーナが来なきゃ、アメジは死ななかった……僕がニーナを、ここに連れてこなければ……」
「向こうから来なければ、いずれはアメジが自らニーナ嬢の傍へ行ったでしょうよ。結末は同じです。二人の話し合いで決めた結末なんだから、私には文句はありませんよ。それよりもあなた、考えることがあるんじゃないですか? 私、言いましたよね。この世界の全ては、本当はあなたに帰属するって。あなたの物語 が動き出した……と。言ったはずです。けれど、正しくは……そうですね、あなたの物語を、動かそうとしている子がいるんですよ。その子がやっと動き出し た。そして、アメジはそのためのパーツの一つ……少女が動かす歯車が上手に回ってくれるよう油を垂らしてやるだけの、オイルポッドだった――それだけのことです。私も同じ」
スフェンは、塵取りをもう一度テーブルの上に乗せて、壁際の鏡台へと歩いた。僕は殆ど反射的に動いていた。テーブルの傍に寄って、塵取りの中身を覗きこんで。そこに積もる紙切れの山に、僕の影がかかる。僕はその一枚を指で抓んだ。白い紙の片側だけに、淡い紫色が滲んでいる。僕は目を見開いた。それは、花 の絵の一部だった。小さな紫色の花が滲んで重なっている――僕はこの花を知っている。僕が昨日、枯らしてしまったたくさんの花達だ。
ラベンダーの、花の絵だ。
僕は、他の切れ端も拾い上げた。どこにも紫色が滲んで、ところどころ緑や青い色が侵食している。重ねて繋ぎ合わせよう――そう思って切れ端をテーブルの 上に広げていたら、僕の手の甲を骨ばった手がぱしりと叩いた。僕は咄嗟に手を引っ込めた。スフェンは、無表情のまま僕の散らかした紙切れを集めて掴み、左 手に持っていた赤紫色の巾着袋にぱらぱらと落とし込んだ。
僕は、スフェンの横顔を見つめた。黒い髪越しに、スフェンの耳の下――首に繋がる、左の耳たぶに隠れた肌に、白い花の紋があるのが見えた。僕はゆっくりと瞬きをした。菊の花だ。
ちりちりとした痒みが、手の甲に走る。僕はスフェンにはたかれた手を撫でた。その肌は赤くなっている。叩き方もよく似ている兄妹だ。スフェンは僕をちら、と眼鏡の奥から見て、また視線を塵取りに戻した。その柄を掴んで、中身を全部袋の中に流し込んでしまう。スフェンが無造作にテーブルに戻した空っぽの 塵取りは、からからと音を立てて揺れ、床に落ちて跳ねた。袋の口を赤い紐で縛って、スフェンはそれを懐に入れてしまった。
「亡骸は土に埋めなければいけませんからね」
スフェンは、急にわざとらしい笑顔を浮かべて、首を傾けた。
「僕は……僕、も、妹がいたんだ」
僕は気がついたら、そんな言葉を零していた。
「妹は……僕のいない間に……僕が学校の寮に入っていたうちに、死んでしまってた。僕が見たのは、妹の墓だけだった……僕の妹も、そんな風に紙切れになったって言うの? 色が滲んだ――」
「ユークくん」
スフェンはくすりと笑った。
「そんなこと、私に言ってどうするの。何か君が満足するの?」
「僕は、ただ――」
僕は俯いた。耳の奥がじんじんとする。アメジが僕に言った言葉が、今まで思い出しもしなかったのに、くぐもって耳の奥に貼りついて、何度も何度も聞こえている――そんな心地がする。
――『あなたに構う理由? そんなの、あなたが、最初に言ったからです。女の子が一人きりって、なんか可哀相だって。女の子がもう一人いた方が、私のためになるだろうからって。それが、なんだか……救われたから。不安だったから。ずっと』
そう言って、歯を見せて笑ったくせに、その口元を指で隠した。アメジの顔が、今は鮮明に瞼の裏側に浮かぶ。……そんな錯覚までするのは、なんでなんだろう。僕、今までアメジのこと、思い出しもしなかったし、その時はうっとうしいって思ってたのに。
もう、感傷的になるのは嫌なのに。
僕がアメジにそんなことを言ったのは、アメジがスフェンの妹だったからだ。僕は無意識に、スフェンの妹に自分の妹の姿を重ねた。プレナの元に残してし まったアイオのことを。だから、僕はあの言葉を言ってしまって、むしろ失言だったと思ったのだ。余計なこと口走ってしまったって。その後アメジが僕に構って来るのがうっとうしくて、それが自分の失言のせいだったと知って、むしろ面倒くさいと思ってたのだ。
こんなことなら、もっと優しくしていればよかった。別に、嫌いだったわけじゃなくて……なんか、なんだか、こそばゆかっただけだったから。
僕、何回後悔すればいいんだろう。
「いつ……お墓を作るの」
アズが、暗い声を零した。疲れた様な声だった。僕は、のろのろと顔を上げた。
「あなたには教えませんよ。あなたが元凶だもの」
スフェンは豪快に笑った。スフェンがそこで笑える気持ちが、僕には全然理解できなかった。
「私も妹も、自分の役目は知っているし、妹はその役目を全うしただけ。いずれ役目を追えたら僕も同じ末路を辿る。覚悟なんてしてますよ、とっくにね。で も、だからと言って、僕達に心がないわけじゃない。あなたの心に、このことが少しでも突き刺されば……少しは生きた甲斐もありますかね」
「おい、アズに当たるなよ。みっともないぞ」
カイヤが、低い声でぶっきらぼうに言った。スフェンは俯いて、息を吐いた。
「アズ様ね、疲れているでしょう。泣き腫らした後みたいな顔をしていますよ。はは。あなたも不思議な人ですね。……難儀な人ですね」
スフェンは、アズを見て、弱々しく笑った。僕もアズの顔を見た。アズは本当に、酷い顔をしていた。傍目にわかるくらい疲れ切っていて、泣きそうで。
「僕のベッドを使っていいですよ。僕はまた王宮に戻ります。辞めた後も色々手続きがあるんですよ。ついでにニーナ嬢のこと、何か情報がないか気がけておきましょう。後は、ごゆっくり。あなたがどうしたいのか、あなたがちゃんと、向き合って決めてくださいね。アズ様」
スフェンはアズの顔を覗き込んだ。カイヤはアズの肩を後ろから掴んで、アズの身体を自分に引き寄せた。まるでスフェンから引き離したいみたいに。
「回りくどいんだよてめえはよ。恨むか心配するかどっちかにしろよ。くだんねえ」
「おまえが特殊なんだよ、カイヤ。アズ様はね、本当は、僕達世界中の全員から恨まれたって仕方がないんだ。それをわからず、のうのうと過ごしてきた人に対して冷静でいられるほど、僕は聖人君子でもない。……まあでも、いいよ、そんなことはね。さよなら、アズ様。またね」
スフェンはくすりと笑って、手でテーブルの上の蝋燭を消した。真っ暗になった空間で、ぱりん、と何かが床に当たって割れる音がした。水の跳ねる音もし た。目の前で僅かに揺らめいた濃い黒の影に、僕は、スフェンがカップをわざと床に落としたのだと確信した。かっと怒りがわいてくる。
「ロゼ・ルメヌレーナ、せめて安らかな祈りの灯を灯して」
掠れた声。灯る、桃色の滲んだ橙色の灯り。アズが手に蛍のような小さな光の粒を包み込んでいた。アズの指と指の間から光が漏れて、アズの顔を円形に照ら している。アズは組んでいた指を解いて、光の粒を掌から逃がした。光は辺り方々に散らばって、床に転がった陶器の破片にもそっと降り積もった。屈んで破片 を抓もうとしたアズの指を僕は握って、床から遠ざけた。アズの目は虚ろだ。僕はカイヤに目で合図した。カイヤは「いいから、お前は寝とけって」と低い声で 言って、アズの腕を引っ張った。アズはたたらを踏むように踵を床で打ち鳴らして、カイヤに引きずられて行った。僕は、爪に当たる光の粒をそっと弾きなが ら、破片を拾って掌に一つずつ乗せていった。
「……お茶、もう少し飲めばよかった」
僕は、小さく呟いた。声がいやに部屋の壁に響いた。ふと、僕は指の影の下に転がる、焦げ茶色の小さな粒を見つけて、拾い上げた。
茶葉の欠片かと思ったけれど、触ってみればそれは固く、楕円の形をしていた。花の種だ。どうしてこんなところにあるんだろう。
種の表面はしっとりと濡れていて、もしかしたらずっと紅茶の中に浸かっていたのかもしれない。わからないことだらけだ。僕は、それをそっと脇のポケット に入れた。拾い集めた破片をどうしていいかもわからなくて、結局テーブルの上に並べた。後は腰の力が抜けたように椅子の上に座り込んだ。テーブルの上から 縁を伝い、紅茶の雫が滴って僕の膝に染みを作る。僕は太腿のポケットからくしゃくしゃの手紙を取り出して、開いて、またぎゅっと握りしめた。後悔しない、 もう後悔しない。絶対に、やり残さない。僕は、言えばよかった、あの時もっと、だなんて――そんなこともう二度と、これ以上、思いたくないよ。
かたり、ぎい、と、扉の開く音がする。椅子を僅かにずらして振り返ると、カイヤがちょうどスフェンの部屋から出てきて、ドアを閉めるところだった。カイヤは僕を見て、静かに肩を下げた。多分、息を深く吐いたんだと思う。
「騒がしくしたな、怪我してない?」
「してない」
「そっか。……ってお前、片づけないのかよ。拾っただけかよ」
「どこに置けばいいかわからなかった」
「しかも床拭いてもないし……はは、なんかほんと、お前らしいな」
カイヤはくすくすと柔らかく笑って、部屋の隅の方からモップを取ってきた。僕の足の周りで動くモップの汚い糸を避けるように、僕は足を上げた。「さんきゅ」とカイヤは呟いた。
「ねえ、カイヤ。ここは、もう他に人はいないの」
「うん?」
「静かだなって、思って」
カイヤはしばらく黙って、吹き出した。僕は少し不快な気持ちになった。
「なんだよ」
「いや、お前が俺の名前を呼んだの、初めてだなって思っただけだよ。ありがとな」
「お礼を言われる意味がわからない」
「まあな」
僕は、笑ったまま床を拭くカイヤの横顔をじっと見た。カイヤは手を止めて、遠くのどこかを見つめた。
「みんな、消えたよ。突然な。アメジが紙切れになったとたん、これだ。【名無し】っていつもそうなんだよな。誰かが死ぬと……【名持ち】の誰かが死ぬと、 その周りの【名無し】たちがまるで元からいなかったみたいに消えてしまう。俺はもう、あいつらの顔も思い出せない。いや、元々覚えてなかったのかもな。けっこう、可愛がってたつもりなんだけど」
カイヤは、モップの先をゆらゆらと揺らして床をおざなりに撫でた。
「俺が、この世界が変だって思うのは、そういうのもあるからなんだよ」
「何が?」
「なんか……死がすげえ安っぽいじゃんか。いや、むしろ、誰もそれを【死】だと思ってない。消えたやつらのことを【死んだ】というくせに、俺達は目の前で 死んだやつらのことは【消えた】って言いたくなる。『紙切れになった』、『居なくなったみたいに消えてしまった』――そんなの、なんかおかしい」
僕はカイヤの言葉を聞きながら、僕の故郷のことをぼんやり考えていた。いつの間にか、生きた人のいなくなった場所。花が枯れたあの場所は、アイオの墓 と、廃墟以外に何もない。僕は、それを今まで意識したことがなかった。誰にも見つからずアイオのお墓に辿りつけた理由を、考えたこともなかった。
そうか、消えたのか、消えてたのか、みんな。僕にパンをくれた人たちも、スープを恵んでくれた人も、綺麗な目だねって頭を撫でてくれた人たちも。アイオとプレナが、死んだから。
カイヤがそれを、おかしいという理由が、僕にはよくわからない。僕はそのことを、むしろ静かに受け入れていた。人が死ぬところも、死んだ後のことも、一 度も見たことがなかった。だから戸惑ったけれど、そういうものなんだと聞いてしまえば、なんだそうか、と納得するしかない。
がようし、だなんて僕が知らない言葉を呟いたアズも、この世界に違和感を持つカイヤも、僕から見れば変な人たちだ。僕にはわからない。二人が一体、何をその目の奥に映してるのか、なんて。
僕は、手の中でくしゃくしゃにしていた手紙を広げた。この意味の分からない手紙を書いたアズと、これを送られるはずだったカイヤは、一体何者なんだろ う。僕は一体、何を知らないんだろう。ねえ、カイヤ、君を嫌いだなんてもう言わないから、言わないように努力するから、どうか教えて。君たちの世界に二人 だけで入り込まないで。
僕を、もう置いて行かないで。
「カイヤ」
「うん?」
僕は、すう、と息を吸って、吐いた。
「この手紙、読んで。あんた宛てだって」
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