二十七、紙切れ
指先が、すっかり冷えていた。
僕は、目の前に広がるラベンダー畑の絵を――正しくは、その写真を見つめていた。それは確かに僕が描いたものだった。梓の魂の欠片が宿る、作品たちだった。
……そして僕には、もうわかってしまった。ああ、その一つ前の絵を、もう一度直視なんてしたくない。見たくない、見たくない、ミタクナイ、……本能的にわかるんだよ。僕は、ああ、僕は、
梓じゃない。僕も、ただの絵画――画用紙に描かれた、ただの一枚。紙切れ。平面。質量の軽い、人間なんかよりずっと軽い命、存在。
須﨑梓という画家の人生を、壮絶だと思った。思うだけだ。圧倒されたのは、そこに残された絵画の筆致の一つ一つに、命が宿って見えたからだった。
梓がその絵たちを描いた時の感情の昂ぶりも、絶望も、希望も、諦念も、僕には何一つわからなかった。共感すらできない。ただ鮮やかで暗い色の混沌に息苦しさを覚えただけ。僕が自分を梓だと思い込めたのは、……思い込もうとだなんてできたのは、
『絵画の中に哭くケモノ』――それが自分だと自覚して。
震える手で画集を握り、顔をあげる。カイヤはまっすぐに僕を見ていた。僕は喉の奥から何かがこみあげてくるのを感じた。口元がわなわなと震え、目をうまく開けていられない。カイヤもまた、画集に残されていた『赤髪の少年』そのものだった。色鮮やかな赤髪も、夜空のようにも海のようにも見える深い青の瞳も、そばかすや、肌の肌理や、笑い方まで。『赤髪の少年』を見て、カイヤも今の僕と同じような感覚を覚えただろうか? 体がうすっぺらい、ざらざらとした紙のように感じられて、それが脳天から足先まで一気に破り捨てられるような衝撃と痛みを感じた? ねえ。
カイヤが、僕から視線を動かして、画集を見つめる。もう抗えなかった。逃げられない。相変わらず手はぶるぶると震えていた。冷たい指先で、ページを一枚めくる。そうしたら、『絵画の中に哭くケモノ』が現れる。血のように鮮烈な色の赤。死者のように清らかな白。そして、陰影すら持たない、塗りつぶされた黒が。再び視界に飛び込んでき、て。
「あ、ああ……うあ、あ」
僕の手から、画集がずり落ちる。
自分の手が、腕が、肌が、服すら、この体のすべて、真っ黒に塗りつぶされて見えた。自分が絵だと自覚してしまったら、もう
荒く息を吐く音が聞こえる。誰かが僕の名前を呼んでいた。あず、あず、一文字足りない、と頭がくらくらして――違う、僕はそう、アズだ。まちがってない、まちがってないんだ、と我に返る。気づけばカイヤに背中を支えられていた。まるで抱きかかえられるみたいに支えられていた。過呼吸を起こしていたのは、僕だった。
揺らぐ視界に天井の染みが見える。茶色のはずなのに、それが一面の紫色に見えた気がして僕は再び叫んだ。うわあああああアアアアア。ウワアアああああああ。僕が生まれた時、梓が見ていた景色を覚えている。梓はこの、僕という、とてつもなく気味の悪い絵画を描きながら、青く清んだ空の下に揺れる優しいラベンダー畑と、そこで走り回る幼いニーナを睨み付けていたのだ。梓はニーナを愛してなんかいなかった。情はあった。可愛いとすら思っていた。でもニーナが踏み込んでくるから、何も知らないのに踏み込んできて、何も知らないからって許されるような幼子だったから。そして少しだけ癒されていた自分がいたから。――何もかも許せなかった。死にたい死にたい死にたい――そう抱え続けてきた灰かぶりの感情が、熱を持った。僕はまた叫んだ。僕が、僕が生まれた時の事、知ってる。ちゃんと覚えてる。思い出した……梓は、ニーナに復讐したかったんだ。なぜ? なんで? そんなことしたって何の意味もない。ニーナはお前に何もしていない! 勝手に苦しんで、どす黒い絵の具の汚泥にどっぷり浸かって、自分を洗い流そうとも描きかえようともしなかったくせに。こんなのってない。こんなのってないよ……!
「アズ、アズ、しっかりしろ、アズ!」
「僕は! 僕は……っ」
「うん、大丈夫だ……大丈夫だぜ」
「何が! 僕は、ニーナを恨んで生まれた絵画だ! 梓の描いた全ての絵の中で、一番汚い感情で、一番気持ち悪く描かれた、最悪最低の絵画だった!」
僕は、自分でも無意識にカイヤの手を振り払い、まだがくがくと震える足で踏ん張って、距離を取った。
「僕、僕……絵だった。人ですらなかった。ニーナ、絵じゃなかった。僕はニーナと対等になれない! それだけじゃなくて、僕はニーナに顔向けすらできない! 僕はそういう絵だから! なんで? なんで僕が目が覚めたの。なんで僕は梓じゃないのに、こんなことしてるんだよ!」
杖を投げつける。すこしだけひしゃげた。
ニーナを好きな自分。
それは僕の中で、心の奥深くでずっとずっと大事にしまい込んでいた、大切な僕の核だった。僕はニーナが好き。でも照れくさいから言えない。ニーナの喜ぶことがしたい。ニーナの笑顔が見たい。そのラベンダーみたいな綺麗な目に僕が映るのが好き。ニーナの心に僕がいないのなら、でも僕が梓なら、ニーナの一番も僕になるって。
これは……そんな薄暗い気持ちを抱えていた罰? 僕の心がそんなに薄暗かったなんて、僕は今の今まで気づかなかった。僕は緩慢な動きで顔をあげ、ユークを見つめた。そうだ、ユークだ。この子が、僕の元に来たから。現れたから。それまでこの世界は一つも動かなかった。花も枯れなかったし、反逆者のことだってきっと後付け。僕はこの世界をあの日まで、何一つ正しく把握していなかった。ぼんやりと、色の海にたゆたっていた。ユークが物語を動かしたのだ。本当は止まっておくべきだったこの世界の時を動かした。何のため? 花を、枯らす、ため――。
この世界は、どうして動き始めたんだろう? どうして花を枯らす子供が現れた? それを僕が認識して、友達になって――どうして? 世界の仕組みすら、なにも近くしていなかったはずの僕が、まるで
「ニーナ……絵じゃないの?」
細い声が、僕をはっと現実に引き戻した。ユークは、眉根を寄せて、僕を見ていた。
「……ニーナの名前の絵があるじゃないか。だったらニーナだってさ、絵なんじゃないの。僕らと……一緒なんじゃないの」
「絵じゃない」
自分の喉から零れた声が、自分のものじゃないみたいだった。僕は喉に触れながら、かすれた声で笑った。
「ニーナは仲間外れ。わかるよ……だって、ニーナの名前だけ、宝石じゃない」
「ホウセキ……? それ、前も言ってたよね。何のことなんだよ」
「ニーナが元いた世界には――」
僕は、喉を微かに掻いた。
「
可愛かったなあ……、と僕は呟いた。カイヤが、非難するような目で僕を見た。わかってる。混同なんかしてない。でも心がまだ切り離せない。ぐっちゃりとくっついて、そのまま固まってしまっていた。まだ僕は、自分が梓じゃなくて、ただのアズだなんて、心の奥では受け止め切れていない。
「だから、多分この世界の住人は、梓の作り出したこの世界では、人の名前が全部宝石なんだ。僕、覚えてるよ。だってニーナが言ったんだもの。『梓の名前に似た宝石があるのね!』って。
「アズ」
カイヤは、咎めるような声を出した。いや、僕の心が淀んでいて、そう聞こえただけなのかもしれない。もう、よくわからない。
「お前は梓じゃねえ。それはお前の気持ちじゃねえし、大体
「わかってる、わかってるよ。わかってるんだよそんなこと! 少し待ってよ! 追いつかないんだよ!」
僕の口からは、言いたくもない言葉が、駄々が土砂崩れのように転がり落ちる。ユークは、戸惑うように僕とカイヤを交互に見て、言った。
「ニーナ……って宝石は、ないってこと?」
「……だろうな。俺はよく知らねえけど」
「へえ」
僕の息遣いばかりが部屋に響いている。僕はしばらくもう喋りたくなかった。とにかく落ち着きたかった。沈黙が流れる。ユークはややあって、再び口を開いた。
「じゃあ、なんで絵じゃないニーナがいるわけ」
「そんなの……」
知らないよ、と言いたくて、でも言えなかった。
僕には、わかったから。多分この世界の核は僕で、僕がこの世界の主人公で。
消えるべき存在だから。
「……梓が、死ぬ前に、梓の魂が残るこの世界にさ、ニーナの魂をきっと引きずり込んじゃった。
僕は、ユークを伺い見た。ユークは、ただひたすらに、困惑の色をその顔に浮かべていた。僕は、体中が冷えるのを感じた。僕は一番言いたくなかった言葉を、ユークに告げなければいけない。僕なのか梓なのか僕が何者なのか――混乱し続ける頭で唯一はっきりと考えられるのは、ニーナのことだけだった。結局僕は、ニーナのことだけが大事らしい。友達なんかよりも、ニーナのことだけ。なぜ? もしかして、梓は僕と言う
「でもニーナは、絵じゃない。紙じゃない。このままここには居続けられない。……いちゃいけない。あの子の足が動かないのはきっと、ここに閉じ込められているせいだ。あの子をこの世界から出してあげるために、僕らはここで花を枯らさなきゃいけないんだ。花という絵画の切れ端を、全部灰にしてしまわなきゃならないんだ」
僕は、口角をあげた。多分、にたりと笑った。きっと嫌な顔で笑った。息を吸い込んだ。
「……だから、君と僕が出会ったんだ。君とならこの世界、壊せるもんな。ね、ユーク。君はなんの絵なんだっけ?」
はは。……ははは。
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