八、花魔法使いと花の壁
来た時のように、魔法でいくらか綺麗になった梯子を上って、マンホールから日の当たる外へと出る。空気がおいしい、と感じたのは初めてだった。僕は最後尾にいたカイヤが上ってくるのを待っている間、ユークと二人で地べたに座り込みながら、白と紫色が僅かに滲む薄青の朝焼けをぼんやり眺めていた。この明るい色が降り注ぐ地上で、これからずっと、堂々と生きられず息苦しい地下に身を潜め続けることは、一体どれだけもどかしさを感じるものなのだろう。僕にはわからない。まだわからないのだ。だって何も考えていなかったのだから。考えなしだった。それでも、ニーナに会えば何かが変わる気がする。何かが見えて、僕もどう生きていきたいのかがわかるような気がするのだ。あるいは、僕は心の中で背中を撫でてもらった日々のように今もニーナに甘えたいだけなのかもしれない。
淡い三色のタイルが敷き詰められた街道を、三人で微かな足音を立てながら駆けた。
――『あなたの花の紋がビオラである理由を、考えたことはありますか?』
タイルを蹴りながら灰色の影に染まる地面の上を駆け抜ける間、耳の奥で、アメジから浴びせられた言葉がわんわんと木霊していていて、僕は不意に、僕がこの足でたくさんのビオラを踏みつぶして走っているような錯覚に陥った。胸の底から生温い息苦しさが込み上げてくる。その吐き気ともつかない気持ち悪さを吐き出す様に顔を斜めに背けて息を吐いたら、頭から血が少しだけ失せたようなふらつく感覚も覚えた。昨夜は結局まともに寝付けなかったから、結局はそのせいかもしれないのだけれど。
僕は振り返って、ユークをちらりと見た。ユークは、サロペットのポケットに手を突っ込みながら息を切らすことなく僕の後ろをついてきていた。カイヤは僕より僅かに前の方を走っている。二人とも、走り慣れているみたいだった。僕は……普段あまり走らないから、少しだけきつい。
「……きつくない?」
僕は、花壇を見遣りながら、ユークに声をかけた。ユークが近くを通った花壇の霞草達は、やはり枯れて土の上で砕けていた。
「今はね」
ユークはなんでもないことのように言った。僕は僅かに目を見開いてユークを見つめた。僕の視線を受け止めて、ユークは歯を見せてにっと笑った。
「アズのために生きるって決めたからね。だから、もう特に怖くはないよ。前は一人だったから、力を持て余して恐かった。花枯れの力なんか手に入れてから、無駄に物理的な力とか、身体能力って言うのかな? そう言うのもあり余って、暴れたりなくて、でも暴れたくはなくて、気持ち悪かったんだよね。でも今は、僕、アズを守ろうって思ってるから。アズが誰かに傷つけられたら、なぎ倒すよ。それがね、なんか、胸の向こう側の、この辺でね」
ユークは、笑いながら目を伏せて、胸の辺りに手を当てた。
「なんか、ぎゅっと温かくて、気持ちいいんだ。だから、花を枯らすのは嫌だけど、今はあんまりそのことも怖くはないよ」
僕は何も言えなかった。次第に足の動きがのろくなって、ユークに追い越されそうになってしまった。ユークは僕の手を引いて、笑った。手を引いてもらいながら走るのは、少しだけ楽だなと僕はぼんやり思っていた。
「暴れるのはいいけどよぉ、無駄にけが人増やすなよなぁ」
カイヤが、ぶっきらぼうに言った。僕も笑った。
「そうだね、できれば誰かを傷つけないでいたいよね……偽善かもしれないけど、僕達が傷ついたら痛いように、多分相手だって痛くなるから」
「だぁ~から、そういう【偽善】だとか言い出す時点で偽善だっつの。そういう小難しいこと考んのやめろよ。ガキのくせに」
カイヤは顔はこちらに向けないまま、そう呟いた。僕は目を見開いて、すんとした心地で声を零した。
「そう、だね」
「な~んか、お前さ、ごちゃごちゃ考えすぎなんだよな。こじつけってかさ。目下のお前の欲っての? それってそのニーナって奴に会いたいってやつだろ? でもってどうせ、その先のことは大して決めちゃねえだろ? お前さあ、政府の高官にいたせいかも知んねえけど、どうも言葉を飾る癖あるよな。でもそのくせ、頭ん中は結構空っぽじゃん。じゃあ、それでいいんだって。別に俺らは、お前が気まぐれであっちゃこっちゃ行きたいっつったって腹立てねえよ。ガキだし」
「許可なく僕をあんたと一括りにするのやめて?」
「あ?」
ユークがぼそりと呟いた一言に、カイヤは片眉を吊り上げてやっと振り返った。僕はなんだかおかしくて、声を漏らしながら笑ってしまった。
「まあ、別に、似たような気持ちだしいいけどね……よくはないけど」
「お前いつまで俺に噛みつくんだよ!?」
「は? 今どこに噛みついた? 僕は至極冷静ですけど。それとも何? 僕に噛みつかれそうって常日頃思ってんの? 怯えてんの? へー……僕が恐いの?」
ユークの口の端に、にやにや笑いが浮かび始める。カイヤは困ったように眉根を寄せながら頭を掻き毟って息を吐いた。
「あ~……くそ、口が減らねえやつだなあ……」
「あっそ。光栄だね」
ふん、と鼻を鳴らした瞬間、ユークは少しだけ不自然に足を右の方へと逸らした。僕は振り返って、ユークがわざと踏まなかった場所を見つめた。そこにはタイルの隙間に咲いていたはずの、枯れかけの霞草が項垂れて風に揺れていた。僕はユークの背中を見つめた。
何も考えてないこと、ないよ。
何もいい方法が思いつかないけれど。
ニーナの顔を見たら、もう一度あの笑顔を胸に刻めたら、僕はこの子のためにしばらく生きようと思うんだ。
この子の病気が治るまで。治らないのなら、ユークが寂しくなくなるまで。
それが、僕の我儘に彼を引きずり込んだ、せめてもの罪滅ぼしだと思うから。
カイヤはそれから何度も人気のない家の中に入って、窓から外に出ることを繰り返した。こんなの、住人の誰かに見られてしまうんじゃないかと思ったけれど、幸い早朝だったせいか、家々の窓は薄青のカーテンで覆い隠されていた。梯子のない場所もあって、足のすくむ僕をユークが肩に担いで飛び降りた。その後もユークは、僕が下ろしてというまで僕を担いでいた。足がとっくに痛くなっていたので、少し恥ずかしかったけれど僕はしばらくユークに体を預けていた。……さすがに、途中から頭に血が上って耐えられなくなったのだけれど。
ユークの肩に担がれながら、ふと僕は、そうか、早朝にこうやって彼らは行動しているのか、と妙に納得していた。僕が役人だった頃、僕たちは《メメントモリ》の彼らが一体いつ出没するのか、どこを狙っているのかの規則性さえ見つけられなかった。彼らが僕らに見つからない時間帯を狙い、僕らが人の住む場所だとは思いもしない場所を根城にしているだなんて、想像さえしなかったのだった。……想像力を傘に着ている連中が、呆れてしまう。もしも僕がまたあの場所に戻ることがあったら、僕はきっと確実にカイヤとその部下を捕まえることができるだろう。……だからこそ僕は、うまく役人たちの目を撹乱させて、彼らをきっと逃がすことができる。恐らくは、スフェンが僕の気づかないところで、そうしていたように。
でもまあ、きっとそんなことはもうないだろう。この世界は罪人に赦しを与えないから――僕はユークに身体を下ろされる瞬間、色の染みを洗い流して真っ青に染まりゆく青空を目に焼き付けた。
住宅が密集していたのが、次第に疎らになって、野生の霞草が揺れる草原へと移り変わっていく。タイルの街道は細く人三人が並んで走れる程度の幅に細まって、両脇にはいつからか木材でできた柵が延々と続くようになった。僕らは自然、ユークを真ん中にして横に並んで走った。僕が左側で、カイヤが右側。そうしているうちに次第に霞草の群れが疎らになって、やがて緑が生い茂る森が柵の向こうに広がったのだった。
不思議なことに、花のない緑の植物を、ユークの魔法は枯らさないようだった。やがて、柵の真下の草むらにも花が混じりだし、僕らの足取りを追いかけるようにその一帯が黄枯茶色に染まっていった。僕達は、次の花が咲く区画へと足を踏み出したことを知った。いつのまにかピンク色のタイルは一つもなくなって、代わりに青緑色のタイルが、薄紫色と白色のタイルの合間に点々と並ぶようになっていた。木々の隙間を縫うように咲く白い花と、肉厚で艶めいた緑の葉。僕らの眼前に、街道を挟んで鈴蘭の花畑が広がっている――闇鉄通り、鈴蘭の咲く街だ。やがて街道は分かれ道を幾つも作って、家々へと延びていく。僕達は立ち止まる時間も惜しんで、歩きながら昼食を喉に押し込んだ。
「ここ、格好の場所だよね、君達が狙うとしたら」
僕はパンを長い間咀嚼していたのを漸く飲みこんで、口を指で撫でながら呟いた。カイヤは首を前に傾けるようにして僕を見た。
「あ?」
「だって、これだけ広い鈴蘭畑。それにほとんど住民もいなくて、目撃されることも少ないんじゃない?」
「……大分、思考が罪人寄りになって来たなあ?」
カイヤはにっと不敵に笑って、袋の中からミニトマトを口に放り込み、ヘタをぶちっと千切った。
「ここはな、まだやらねえよ。俺達も別に、花を無闇に枯らしたくて活動してるわけじゃねえんだってば。これでもやるところは選んでる」
「君の主張もわかるけど、故意的にどんな理由であれ花を枯らして回るやり方は、僕そんなに好きじゃないよ。君が僕らのやり方を気に食わなかったようにさ」
僕は、赤色の水筒から小さなコップにお茶を注いで飲んだ。紅茶には砂糖が混ざっていて、甘ったるい味がした。僕は思わず眉根を寄せていた。
「おう。だから、俺らがその悪者の汚名を一身に被るんだよ。汚れ役もそれなりに必要だろ?」
「まあ、ね……」
僕は口を引き結んだまま、水筒の蓋を閉めた。まだ口の中が甘ったるい。砂糖は入れないでほしかった。
「この畑はさあ、魔法が他にも施されてるじゃんか」
カイヤは尚もぱくぱくとミニトマトを口に放り込みながら、言った。
「え……ああ、光魔法と、音魔法のこと?」
「そうそう。夜になると花が小さなランプになって、街道を照らすだろ。そして風に揺れてしゃらんしゃらんと鈴の音が鳴る。それさ、この区画の人間にとっての、毎日の楽しみ、癒しなんだよな。一日頑張ったご褒美の景色ってわけ。それを考えなしに焼け野原に出来るほどには、まだ俺らも悪人になりきれてねえって気がする。まあ、他でやってることは一緒なんだから、大差ねえんだけどな」
「そっ……か」
僕は、陰りゆく太陽を見つめた。もしかしたら今夜は、その景色を見られるのかもしれない。僕のような勲二等級の花魔道士は、主に王宮の庭の管理を任されていて、鈴蘭に施されたそれらの魔法――装飾魔法と呼ばれる、娯楽のための魔法を地方の花々にかけて回るのは、勲一等級の花魔道士達だった。だから僕は、話には聞いていても実際に鈴蘭が灯りのように瞬き、音を鳴らして揺れるのを見たことはなかった。僕はそっと木の枠に触れながら、繊細な鈴蘭の袋のような花弁を眺めた。自然、歩みが遅くなる。
「それ、言い訳でしょ。単に、ここで派手にやらかして、アジトの位置が特定されるのが恐いだけなんじゃないの? まあ僕だったら、逆に近くからやるけどね。僕は疑り深いから」
不意に、ユークが澄んだ声で無表情にそう言った。僕は思わずユークの横顔を見つめた。長い白金色の睫毛が、何度か上下した。
「……ま、そういうこったな」
カイヤも苦笑しながら肩をすくめ、小さい声でそう応えた。僕は信じられないような心地がして、地面に視線を移した。
カイヤの信念を、すごいと思う。今ではそれが、正しいことなんじゃないかとさえ思うし、芯のぶれなさが羨ましくもある。
だけど同時に、なんとなく恐いと思うのだった。僕は本当に彼らと行動を共にしてていいんだろうかって。まだ僕が、自分が罪人になってしまったことを本当の意味で実感できていないからなのかもしれない。
ユークはカイヤに突っかかるわりには、彼にちゃんとなじんでいるように見えた。僕が今も何となくなじめない心地がするのは、自分から手放したはずの花魔法使いとしての誇りに、みっともなく縋りついているからなんだろうか。
「変だな」
ぼんやりと考えていたら、カイヤが不意にぽつりと呟いた。僕は顔をあげて、カイヤの横顔を見つめた。カイヤの横顔の輪郭は、夕焼けに照らされて赤金色の線に見えた。
「こんなに堂々と街中を歩いてるのに、見つからねえもんかなあ」
カイヤは顎に手を当てて、考え込んでいる。
「逆に、堂々としてるから怪しまれない、とか……」
僕は小さな声で思ったままを言ってみた。
「ま、その可能性もあるな。実際、それ狙ってこの通りを駆け抜けちゃいるわけだし」
カイヤは頷いて、鼻を鳴らした。少し間が空いて、ユークがぼそりと呟いた。
「あるいはさ、アズがニーナって子の所に行くだろうことを見越して、先回りしてる可能性はあるよね。どこにいるかわからない人間の足取りを掴むより、そっちの方が確実だし」
ユークはポケットに入れていた手を出して、腰に当て、さらに加速をつけて走り始めた。
「とりあえず、先に行こう。相手の出方がわからないのにだらだらしとく必要はないよ」
「言われねえでも、ってな! ……あ? おい、アズ、お前足遅いな?」
カイヤが足踏みをしながら立ち止まって、僕が追いついてくるのを怪訝そうな顔で待っていた。僕は前屈みがちになって息をぜえぜえと吐きながら、前髪の隙間から二人のきょとんとした顔を見あげた。なんだか、まるで睨んでるみたいになってしまったけれど、顔を作るゆとりがちょっと今はない。
「……は、……た、体育会系と、一緒に、しないで、よ、僕……文化系、なんだよ」
「たいいくかいけい?」
ユークはますます目をぱちくりと見開いた。
「何それ?」
「え……なんだろう、僕もよく、わからないや」
僕はへら、と笑った。体を曲げて、膝に手をついて息を整える。血が激しく巡ったせいか、頭がずきずきと鈍く痛んで、少しだけぼうっとしていた。顔を僅かに上げてまた前髪の隙間から二人の顔を眺めた。カイヤは片眉を上げたまま、怪訝そうとも戸惑いともつかないような、不思議な表情をして僕を見つめていた。
✝
空は次第に赤みを増して、瞬きほどの一瞬にぱっと暗い藍色へ衣替えした。白い星屑は空いっぱいに瞬いている。眼前に広がる鈴蘭畑は、蝋燭の火が最初は微かに、やがて背筋をすっと伸ばして輝くように、夕焼け色が陰ると同時に仄かな金色の光を灯しはじめた。空が濃紺へと染まるころには、辺り一面、鮮やかな光がたくさんの金貨のようにちらめいた。風に揺れると、鈴のように連なる花達は風鈴のようにちりん、ちりん、と清かに音を立てるのだった。
僕達は夜通し、駆け続けていた。月明かりの下で、僕はとうとう息苦しさに吐きそうになって、蹲ってしまった。ユークは僕のために休んだ方がいいと主張して、カイヤは今は時間が惜しいんだから走るべきだと言う。僕は一度立ち止まってしまえばもう立ち上がることもできなくて、三色のタイルの上で座り込み、光輝く鈴蘭の花を眺めていた。その後はユークが僕を肩に担いだので、僕は再び逆さまの景色を拝むことになった。血がのぼるぼんやりとした頭で、綺麗な景色だなあと見惚れていた。頭の痛さなんか気にならなくなるくらい、足の方が疲れていた。
「……変だね」
不意に、ユークが低い声でぽつりと零した。僕はゆるゆると頭をもたげて、ユークのうなじを眺めた。
「何? どうかした?」
「霧が……かかってる。闇晶通りの一帯に。不自然だよ。だってこの鈴蘭畑にはあんな濃い霧なんてかかってない」
僕は、下ろして、と小さな声で言ってユークの肩から降りた。路の先には、家々の屋根の輪郭――水色の線が殆ど見えないほどに、濃密な白い霧が立ち込めていた。
「魔法……か?」
カイヤが僕の顔を覗き見た。僕は目を細めながら曖昧に頷いた。
「近寄らないと……陣が見えない。でも、魔法だと思う。多分……僕らがここに足を踏み入れたら霧が晴れる」
「どういうことだ? 俺達の誰かを対象にして、封印魔法でも施されてるのか?」
カイヤが眉根を寄せた。僕はユークの揺れる灰青の眼を見つめて、目を逸らした。僕は唇を噛んだ。
「違う……そうじゃない。そんなこと、する必要もない。ユークの花枯らしの魔法は、花魔法を解除するのと同じ作用があるものなんだ。だから、あの霧はきっと、ユークが足を踏み入れたらそこで霧散する。それを……その可能性を書類に書き残したのは、僕だ」
静寂が、辺りを包み込んだ。風すら止んで、鈴蘭の鳴る音も聞こえない。
「じゃ、じゃあさ、僕が行かなければ、いいってことじゃないさ」
ユークが、震えた声で空元気に笑ってみせた。ユークは両腕をぶんぶんと振って、顔をあげようとしない僕の気を引こうとした。
「ね、そうだろ? じゃ、じゃあ、僕が行かなければいいよ。カイヤと二人で、アズが行って、ニーナって子と会ってくればいいよ。僕が霧を消しちゃったら、アズがここに来たってばれちゃうじゃないさ。そしたら僕の……せいって……」
ユークは怯えたような笑顔を貼りつけて、へらへらと笑った。僕はユークの引きつった表情を前髪の隙間から見据えた。
「元は僕の責任だよ。中途半端に君を助けたいとか思いながら、中途半端に仕事を全うしようとなんてしたから……こんなことになったんだ。足がついた。でも、言ったでしょ。僕は君をもう見捨てないし、一人にはしないよ。こんな場所に、一人置いて行けるわけないだろ。そんなことするくらいなら、ニーナには会わなくったっていい。だってそれも僕の自己満足なんだから」
「嘘ばっかり」
ユークは口元は笑ったように歪めたまま、僕を睨んだ。
「目が泳いでる。嘘だよ。僕なんかよりずっと、アズはその子に会いたいんだよ。僕だって会いたい人はいたから、それくらいわかるよ。見くびるなよ。でも……でも、」
ユークはコごくりと喉を鳴らして、唾を飲みこんだ。
「でも、アズが僕を切り捨てられないくらい僕のことも大事に思ってくれてるって、それはわかったよ。じゃあ、別に僕が一緒にいてもいいんだよね。いいよね? 僕、がんばるよ。アズを誰かが攻撃してきたら、僕が倒すから。だから……ついて行ってもいいんだよね?」
「攻撃されたらそれ以上の力で抵抗すればいいだけの話だろ」
カイヤが、深い溜息と共にそう言った。
「あのな、ユーク。誰もお前を置いて行く気はねえよ、最初っからな。だとしたらそのまま正面突破、応戦するしかねえだろうがよ。端から争いになるってのはわかってたことだよ。ここでお前を置いて行ったところで罠なんざいくらでも仕掛けてあるだろうしな。それに、この程度でお前を引き離すようじゃ、どのみちこいつに未来はねえよ。こっからどれだけ俺らが罪を重ねていくと思ってんだ」
カイヤは僕を顎で指し示した。僕は朝焼けの薄暗い空の下でも鮮やかに輝くカイヤの眼を見つめて、不安が凪いでいくのを感じた。
僕達は再び、何も言わず歩き始めた。道のタイルが青緑色、薄紫色、白色の組み合わせから白、薄紫、黄色へと変わるその境界線を僕は踏みしめた。濃厚な霧が頬や額、首筋を撫でる。肌がしっとりと湿り気を帯びる。僕とカイヤは霧の中から、躊躇うように鈴蘭通りの道の果てに立ち尽くすユークを振り返った。ユークは黄色のタイルを凝視しながら目を泳がせ、唇を引き結んでいた。ユークはのろのろと視線をあげた。目が合った僕は、ユークに笑って見せた。
「僕の体が、花魔法を解除するなら――」
ユークは、擦れた声で呟いた。
「だとしたら、僕はアズが僕のためにかけてくれる魔法も、消しちゃうんだよね」
僕は首を傾けた。ユークの灰青の瞳は揺れた。
「だったら、アズはほとんど戦えないじゃないか。僕のせいで、危険にさらしちゃうんだね」
「関係ないよ」
僕は肩をすくめた。
「君が僕の咲かせた花を枯らすなら、枯らすのが追い付かないほどたくさん花を咲かせればいいだけの話」
ユークは目を見開いた。
僕は、へら、と笑った。
「でしょ?」
「段々、お前の性格がわかってきたよ」
カイヤが苦笑交じりに言った。
「おら、来いよ。別に臆病なだけってわけじゃねえだろ?」
カイヤはユークに向かって手を伸ばした。ユークはその手とカイヤの眼を睨みつけて、ぶすっと膨れた。
「誰が臆病者だって?」
ユークは鼻を鳴らして、指で鼻の下をこすった。男の子にしては小さな靴が、黄色いタイルを踏んだ。ユークは霧の中に埋もれた。その瞬間、霧はキラキラと水色の光を瞬かせて、空へと吸い込まれていく。星屑がらせん状に巻き上がるようなその景色を、僕達は立ち尽くしたままぼんやりと見上げていた。霧の欠片を追いかけるように、ざあざあと雨が降った。僕は直感的に、それが狼煙にも似た合図なのだと理解した。ユークの身体だけは、雨に濡れない。僕とカイヤはずぶぬれになったまま、呆然と立ち尽くすユークの姿を見つめた。ユークの周りには、ユークの輪郭をなぞる様に虹のような七色の光が浮かんでいた。
「綺麗じゃん」
カイヤがにっとして笑った。
「え?」
ユークは不思議そうに首を傾げた。不安そうな表情で僕を見返す。
「虹が、ユークの周りにいっぱいかかってる」
僕も笑って、杖を掲げた。すう、と息を吸い込んで、雨の降りしきる空を睨んだ。
「ロゼ・ヴェンタレーナ。空の涙を拭う御手となれ」
ごうごうと風がうねる。雨水を巻き込んで、竜巻になる。少し離れたところで悲鳴が上がった。
僕は杖を揺らして、容赦なく悲鳴の先へと竜巻を進ませた。不意に腕にねじれるような違和感が走る。竜巻は少しずつ回転を緩め、やがて消えてしまった。僕は右腕を撫でながら竜巻が消えた方向を睨んだ。
同じ風魔法で、竜巻を逆回転させた人がいる。一度放たれた術に干渉するのは高度な魔法だ。つまり、勲一等級の誰かがあそこにいるということなのだ。
濡れ鼠のようになった僕らに光の矢が降り注ぐ。僕は闇の欠片をばら撒いて光を包み込んだ。けれど光は僕の魔法なんかものともせず差し込んで、僕の太腿を貫いた。喉から悲鳴が零れ、僕はその場に頽れた。
「アズ!」
「形勢が……悪い。相手が遠すぎる。向こうは僕らの位置がわかってる。僕には向こうの位置がわからない」
僕は擦れた声で答えた。腕を伸ばすと、カイヤが掴んで、引き上げてくれた。カイヤはユークを振り返って鋭く言った。
「おい」
「な、なに」
ユークは迷子の子供のような、怯えた表情でカイヤを見た。眉根だけは、不快そうに寄せられている。
「お前、アズのために何でもするっつったな? おとりになれ。おまえが動け。あいつらは霧の晴れ方で俺達の居場所を予測してるだけだ。お前が攪乱しろ。お前なら、少々の魔法を受けたところで無効化できるんだろ。走れ!」
「わ、わ、わかったよ」
ユークは噛みながら答えて、虚空を睨みつけるとびゅん、と目で追えないような速さで霧の奥へ消えた。飛行機雲が空を裂くように、霧が直線的に晴れていく。僕は、飛行機雲って何だっけとぼんやり考えた。カイヤに腕を強く引かれて、よろよろとしながら走った。肩が外れるかと思った。僕がいた場所には魔法の雷が落ちて、地面に炭の色が散らばっていた。
「ぼさっとすんじゃねえ! くそっ」
カイヤは僕を振り返って舌打ちをした。
「俺、役に立たねえな。この辺り焼いていいっつうんならできるんだけどな。……したくねえしな」
山荷葉の花畑に二人で埋もれる。霧と雨に濡れた花は、透明になってキラキラと輝いていた。ところどころ花弁が溶けているのは、ユークがその場所を通ったからなのかもしれない。
「せめて、魔道士達の位置がわかればな……」
カイヤが呟いた。
「どうして?」
僕は首を傾げた。
「火薬爆弾なら持ってきてる。それをそいつらに投げてよこせば、焦って水魔法で火を消そうとすんだろ。そしたら少しだけ隙ができる。この花畑にぶっぱなしてもいいけど、そんなの居場所を教えてるようなもんだ。だから……今はできねえんだよ」
剣が何か固いものとかち合う音が遠くの方で響いている。僕は霧の薄まった向こう側をぼんやりと眺めやった。ここからしばらく歩けば、僕とニーナの家がある。喧騒の止まない、音の先――やっぱり、待ち伏せされていたんだ、と思ったら無意識に唇を噛んでいた。
ニーナのことは、ウバロ以外誰にも言っていないはずなのに。それとも、調べ上げればわかってしまうものなんだろうか。身分証明で家の場所を記帳したような気もするし。……ああ、ウバロを疑いたくない。
あの子が僕を売ったなんて、思いたくない。こんな気持ち、都合がよすぎるよ、先にあの子の信頼を裏切ったのは、僕だって言うのに――
僕は頭を抱えて、荒い息を吐いた。カイヤが何度か僕の名前を呼んだ。ユークが暴れれば暴れるだけ、山荷葉の花が枯れていく。霧は見る見るうちに晴れ渡って、荒れ地には僕とカイヤがぽつんと立ち尽くしているのだった。僕はちらちらと見えるユークの姿の、向こう側を睨みつけた。全部計算ずくだったのかもしれない。霧が晴れればユークの居場所がわかる。ユークが動けば花が枯れる。花が枯れたら、たとえ別行動していたとしても僕らの隠れる場所はなくなっていく。
僕に向かって馬鹿の一つ覚えみたいに光の矢が降り注ぐ。僕にはそれを防ぎきることなんかできない。だって、光の矢も、霧の膜も、降り注いだ雨も、全部術者が違う。この間とは打って変わって、それぞれの魔法に長けた人間に術を発動させているのだ。僕は特別どれかの属性に秀でているわけじゃない。ただ、バランスよく六属性の魔法を使えるというだけの、平凡な魔道士なのだ。それぞれに秀でた者の魔法に、直接勝てるはずがない。
僕は降り落ちる光で金色に輝く透明な花達を見下ろした。豪雨にのされて、不安げに僕を見あげる子供のように花の顔を揺らしている。僕は息を荒く吸って、ゆっくり吐いた。目の前の花をいくつもぶちりと摘み取った。カイヤが何かを言ったのはわかったけれど、風と雨の音でよくは聞き取れない。
もう、後戻りはできないんだ。空に焦がれて頭をもたげる花の蕾のように、僕の杖の先端がゆるゆると空に向き合った。
「咲き誇れ!」
声を張り上げる。僕の足元から、土や雨を飲みこむように山荷葉の花が層をなして増殖していく。僕の目の前でそれらは花の壁を作って、僕と光の矢を隔てた。光の矢は花を燃やし枯らしていく。遠くの方で悲鳴が上がった。僕の脳裏に、モルダ室長の怯えた顔が何度も浮かんでは消えた。卑劣だと自分でも思う。僕の誇りは、誰よりも早く、たくさん花を咲かせることができる、その一点に尽きる。僕にはそれしか切り札が無い。
だから、もう、仕方ないと思った。きっと頭に血が上っていたのだと思う。肺の痛みも、足の痛さも、胸の苦しさも、まったく感じられなかった。僕はカイヤさえ置き去りにしたまま駆け出して、杖を指揮をとる様に振り回した。僕の足元で花開くのをやめない透明と白の花達が、僕の周りにたくさんの壁を作る。僕が杖を振り上げるたびに花の竜巻になって、空を駆ける。悲鳴があちらこちらから聞こえるたびに、僕はその花の風を声の先にぶちまけた。僕らを襲おうとする魔法が花の壁にぶつかって、花をはらはらと枯らしていく。折り重なった花の帯の隙間に、戸惑ったような表情で僕を見つめて立ち尽くす、ユークの姿が見えた。ユークの周りでも花は枯れている。それに抗うように、僕の魔法でユークの足元に花が咲く。僕はユークに向かって笑って見せた。
「……ズ! おい、アズ! やめろって!」
カイヤの声が追いかけてくる。
「お前、無茶すんなって! 絶対後でガタがくる――おいってば!」
「うるさい!」
僕は叫んだ。
「出てこい! 卑怯者! 何度でも僕が花を咲かせてやる、僕らを攻撃する度花を枯らして、自分の罪に恐れおののけばいい!」
僕は喉が潰れるような声で叫んだ。ユークが見開いた目で僕を見ている。その宝石みたいな目に映る僕は、少し前、怯えて毛を逆立てていたユークと少し似ていた。
やめろ、とどこかから声がした。カイヤの声なのか、他の魔道士達の声なのか、僕にはもうわからない。
「僕の力を見くびるなよ、花枯らしを利用すれば僕を捉えられるとでも思った? もう怖いものなんて僕にはないんだよ!」
「やめろって!」
カイヤが僕の肩を揺さぶった。
「お前はそんなことのために花魔道士になったのかよ! こんなてめえの都合で、人を陥れるために花を咲かせるなんて、そんなことのために花魔法を覚えて、挙句こいつを助けたのかよ!」
「だって……みんな卑怯じゃないか、ユークの能力を利用して――」
「お前もやってることは同じだろ!」
カイヤは怒鳴った。僕の頬に幾つも雫がぶつかった。僕は、カイヤが泣いていることに気づいて、目を見開いた。
「目を覚ませ!」
「でも……」
僕は震える声で言った。
「でも、僕の得意なことなんて、それしかないんだよ……僕はそれしか、他の魔法使いに誇れるものが無いんだ……だったら、それは、それが僕の武器だろ? ユークを守るための武器だろ……?」
「ユーク、ユークって馬鹿の一つ覚えかよ……てめえを先に守れよってんだよ!」
カイヤは僕の肩を掴んだまま、俯いて肩を震わせた。僕は呆然としたまま、曇り空に照らされた赤い髪を見つめた。
鈍色を帯びたカイヤの赤髪は、まるで灰を吹く炎のようだ。僕の体中を急いて駆け巡っていた血は行き場を失い、胸の奥と頭の内側でどくどくと拍動している。頭痛に目も眩む。僕の目の前で俯くカイヤの髪が曇り空の影を広げ、やがて黒く染まったように見えた。ぼんやりとした視界の向こう側で、カイヤによく似た黒髪の誰かが笑っている。……僕に、笑いかけている。
――『仮にお前が――に行っちゃって……、道を踏み外して、みんなから後ろ指指されてもさ、必ず追いかけるよ。お前が道に迷ったら、俺が探しに行ってやる』
耳元で、風が僕にそう囁いた。僕ははっとして、苦しげな眼差しを僕に向けるカイヤを凝視した。カイヤの前髪は濡れて、毛先から雨の雫が滴っている。僕は急に、苦しくて不快な気持ちになった。弱々しい力で、カイヤの前髪を掴んだ。
カイヤは目を丸くして、瞬いた。僕は、怪訝そうでいて、僕に対して何の悪意もないその表情にますます不快感を募らせた。普通、髪の毛を急に掴まれて、不快な気持ちにならない人間なんていないはずだ。なのにカイヤは僕の行動を訝しむだけで、それを嫌だと思っていない。おかしいと思った。僕はまだ、そんなに長い時間を君とは過ごしていないよ、勝手に僕の心に踏み入ってこないで。
僕はカイヤの手を振り払って、ふらりと後ずさった。目の奥が痛くて、目を片手でぎゅっと押さえた。
「ねえ……カイヤ。僕、君に昔、会ったことあるかなあ」
「え?」
カイヤは、戸惑うような声を出した。僕は、僕が今しがた見た白昼夢に苛立った。カイヤと似た誰かが、僕が道を踏み外しても追いかけると言ってくれたこと。道を踏み外しかけている今の僕に、カイヤが怒鳴ったこと。もう、よくわからなかった。僕は、カイヤに肯定してほしかったんだろうか――カイヤが花魔法を嫌っていること、よく知っているはずなのに。どうして期待して、無防備に背中を見せたりしたんだろう。
「ねえ、カイヤ。僕はどうしたらよかったの。どうしたらよかったんだよ。ただ僕は、好きな女の子のために、花を咲かせたかっただけなんだよ。でも、まるでこれを間違いみたいに言わないで。僕は、……僕は、ユークのことを、道を踏み外したなんて言いたくないんだ」
僕は両手で顔を覆ったまま、体を二つに折った。お腹も痛い。胸も苦しい。息の仕方を忘れてしまったみたいだ。喉からは笑ってしまうほどに変てこな音が漏れていく。
「僕に、僕の友達をそうだと思わせないでよ。もう、何も言わないで」
「アズ、俺は――」
「お願いだから、何も言わないで」
僕は指の隙間から、花の枯れた大地に立ち尽くすユークを覗き見た。ユークは捨てられた子供のような顔で、呆然として僕を見つめている。僕はもうわかっていた。
僕は、道を踏み外してしまったんだということ。
「これが卑劣なやり方でも……もう僕はそれを正しいと信じて突き進むしかないんだ。僕が僕のやり方を否定したら、僕はもうどこにも行けないよ」
「アズ、待てよ、聞けって」
カイヤの手が伸びる。けれど僕は、その手が届かないようにさらに後ずさった。
「もうやめるから……ニーナにラベンダー畑を見せたら、やめるから……もう僕は、花を咲かせることもやめるから、どうかそれまで僕を責めないで、お願いだよ」
「アズ! 聞いてくれったら――」
ばしゃ。
カイヤの声と、僕の耳を撫でる水飛沫の音が響いたのは、ほとんど同時だった。僕はずぶ濡れになっていた。水が飛んできた方向へ、ゆるゆると振り返る。僕は、そこに佇む影に、ゆるゆると目を見開いた。
「もう、いい加減にしてください」
ウバロが、空っぽの大きなバケツを構えて、僕を睨んでいる。
「あなたが、そんなに心の不安定な人だとは、思っていませんでした。ぼくの前では格好つけてたんですか? もっと前に、言ってくれていたらよかったのに」
「ウ、バロ……?」
前髪から滴る雫が目の中に入って、つんと染みた。僕はぼたぼた垂れそぼる雫を拭いもせず、呆然と立ち尽くしてウバロを見つめた。
「なんで、ここに」
「売ったからです」
ウバロはくしゃりと歪んだ笑顔で笑った。
「あなたの情報を、売ったからです。ここがあなたの家で、あなたがこの家に住む女の子をとても大切に思っていることも、その子が車椅子に乗っていて、簡単には逃げ出せないだろうことも。全部全部、ぼくが売りました」
僕は何も言えないまま、ウバロの翡翠のような目を見ていた。ウバロは、僕から目を逸らして、肩を震わせた。
「あなただって、ぼくを裏切ったじゃないですか。ぼくは、あなたにまだ何にも恩返しできてなかったですよ。あなたのこと、尊敬してましたよ。ひどいじゃないですか、あんな形で、室長にあんな仕打ちで今までの恩を返すなんて」
「ごめん、ね」
僕は擦れた声で呟いた。そこから一歩も動くことができなかった。まるで、足が泥に飲みこまれてしまったみたいに。
「ごめん、ウバロ」
「ごめんなさい、アズ様」
ウバロは泣きそうな顔で笑って、僕と向き合った。
「だって、こうでもしなきゃ……ぼくはアズ様の討伐隊に関われないでしょう? アズ様は勲二等の持ち主だから、アズ様を追いかけるのは勲二等か勲一等級の魔道士だけだ。勲四等のぼくは、アズ様が捕まって、牢屋に囚われて、処刑されるまで、きっと会えないじゃないですか。だから、誰も知らないあなたの大事なものを売ってしまいました。そうしたら、ぼくは討伐隊に加えてもらえました。この場所まで、みんなを導く案内役として」
ウバロは腕をだらんと下ろした。バケツが揺れて、ウバロの足を何度も打った。僕はのろのろと項垂れた。僕の髪から滴る雫が大地を濡らすのを、ただ見ていた。
「アズ様。あなたはずっと、花魔道士の掟に不満を持っていましたよね」
ウバロは掠れた声で言った。
「でもだからと言って、あなたは、どうして罪を犯してしまったんですか。その少年のせいですか。なぜ、彼だったんですか。他にも罪人はたくさんいて、あなたは今まで一度だって彼らに心は寄せなかった。それなのに、なぜ……なぜその少年のためだけに、そこまでできたんですか」
ウバロはユークを指さした。ユークは歯を食いしばって、ウバロを警戒するように腰を下げ、身構えた。
「だって、理不尽じゃないか。枯らしたくて枯らしているわけじゃないんだから」
「罪を犯したくないのに罪を犯したから、許されるべきだっていうんですか?」
ウバロは静かに言った。
「じゃあ、今のアズ様はどうなんですか? あなただって、罪を犯したかったわけじゃないんでしょう? そうしたら、あなたは許されるべきですか?」
「僕とユークは違う」
僕の喉から、やけにはっきりした声が零れた。
「僕は自分の意思で、やった」
「どう違うって言うんですか!」
ウバロは俯いて叫んだ。
「あなたは間違ってる」
ウバロは息を細く吐いて、僕を睨んだ。
「あなたは間違ってます」
「君の基準ではね」
僕は苦しい心地で笑った。
「ぼくとあなたの不満は、同じものだったはずなのに……どうして道が分かれてしまったのか、考えたことがありますか? この数日、あなたはちゃんと考えましたか? ぼくはめいっぱい考えました。頭が痛くなるくらい」
ウバロはぐすっと鼻を鳴らして、袖でごしごしと顔を擦った。汚れるのになあ、と僕は思った。ウバロのそんな些細なくせが、今は酷く懐かしくて苦しいのに、心は冷え切っている。雨に、打たれ過ぎたのかもしれない。
「アズ様は……優しいんです。だから、意思が弱いんです。あなたは弱いんです。あなたが意思だと思っているのは、それはただの意地だ。ぼくはあなたのようにはならない。そうしなければ、あなたにそれが間違っていると示せる人間がいなくなってしまう」
ウバロはバケツを胸に抱えて、苦しげに抱きしめ、俯いた。細い肩が震えている。ウバロがこれだけの言葉を言うために、今日までどれだけ心にひっかき傷を作ったのだろうと思ったら、なんだか泣けて、笑えてきた。
僕は初めて、僕がしたことが間違いだったのだと悟った。だからと言って、それ以外の方法なんて僕には今でもわからないのだった。僕はどこか凪いだ気持ちで、ウバロを見つめた。口元が自然と緩んで、僕は知らず微笑んでいた。
「じゃあ、ウバロはその場所で、僕とは違う道を進んでよ。それで、どれだけ僕が間違っていたのか、本当はどんな道があったのか、僕に教えて。待ってるから。ああ、でも」
僕は俯いて笑った。
「でも、もうここで捕まっちゃうかな。まさか、君がこんなところにいるとは思わなかった。侮ってたんだと思うよ。ごめんよ。まだ罰を受ける覚悟まで立ててなかったんだけど、そんなこと言ってる場合でもないね。君に捕まるなら、それでもいいかなって思うし」
僕は顔をあげた。
「でも、君となら僕は戦えるよ。ユークを逃がすくらい僕にならなんてことない。君は僕より魔法が下手だって僕は知ってる」
「おい」
耐えかねたように、責めるような声でカイヤが僕の肩を掴んだ。けれど僕は、ウバロから視線を逸らさなかった。ウバロもまた、表情を消したまま僕から目を逸らさなかった。
「ぼくにはあなたを捕えられません。今、捕えるつもりもありません」
ウバロは擦れた声で言った。
「あなたが、どれだけこの人に会いたかったのか、ぼくは知ってるから」
ウバロはゆっくりと振り返って、曇る窓ガラスを見つめた。僕は目を見開いた。がむしゃらに駆けて辿り着いたこの場所が、自分の家の目の前だと気づかなかったなんて、自分でも信じられない。けれどそんなこと、どうでもよかった。曇った窓ガラスの向こうに、金色の髪を湛えた誰かの頭がぼやけて見える。僕の喉から擦れた音が漏れた。僕は窓を見つめたまま、ふらふらと木造りのドアを目指して土を汚く踏みしめた。途中で何度も自分の足につまずいた。家の中からは、小さな白い人の手が伸びて窓の結露を拭き取った。水滴の跡の向こう側で、紫色の眼が見える。僕はたまらなくなって、たった三段の階段をもつれる足で駆け上った。ドアのノブを回そうとしたけれど、手がつるつるとすべってうまく回せない。指先が氷水に浸けたみたいに凍えて、上手く動いてくれなかった。僕は荒くて白い息を零しながら何度も何度もがちゃがちゃと音を立ててノブを触った。
「次に会ったら、ぼくは絶対にあなたを逃しません。でもぼくは、今日はあなたを捕まえられませんでした。あなたを、捕まえられませんでした」
ウバロはそう言って、後ろ足に僕らから距離を開けた。
僕はウバロに何かを言いたかった。なのに、喉からは擦れた音が零れるばかりで、何の言葉にもならなかった。晴れた隙間を埋める様に、まだ遠くの方で残っていた薄い霧が空に滲んでくる。その水粒に輪郭を滲ませ、ウバロは霧に淡く溶ける様に姿を消した。さようなら、と言う幼い声が、微かに聞こえたような気がした。
「ニーナって、この子、なんだよね」
窓の向こうを見つめながら、ユークが力ない声でぽつりとそう呟いた。窓の向こう側から、ニーナはユークを見つめて笑っていた。ニーナは首を回して、視線を僕とかち合わせた。そしてそのままふっと笑って、カーテンの向こう側へ隠れてしまった。
カイヤから腕を引かれて、振り返った。カイヤは眉間にしわを寄せたまま、僕の手をとって、両手に挟んだ。カイヤの掌が赤橙の光を灯す。じんわりと、温かい熱が掌から滲んで、僕の手を、腕を、体中をほんのりと温めていく。
僕の手が血色を取り戻した頃、カイヤはそっと僕から手を離した。僕を痛ましげに見つめるカイヤの眼を、苦しいと思いながら、僕はしばらくカイヤから目を逸らせなかった。「アズ」と呟いたユークの声に背中を押され、僕はカイヤに背を向けた。ゆるゆると両手を擦りつけて、ゆっくりと階段を上り、今度こそ落ち着いてノブを回した。扉ががちゃり、キイ、と音を立てる。ふわりと、焚火の匂いがドアの隙間から漏れて、僕の肺を満たす。
「ニーナ」
僕は濡れた足を踏み出した。ニーナは暖炉の光の傍で深緑色の車椅子に腰かけて、髪を赤橙に輝かせていた。赤銅の様なその煌めきを、そっと右の耳にかける。足がまた凍えて、動けなくなった。ラベンダー色の眼。金色の光の粒が瞬くそれを、僕は見つめて、息を吸った。胸が苦しくなって、息を吐いたら泣いてしまいそうだった。ニーナはくすりと笑って、目を細めて言った。
「おかえり、アズ」
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