十三、影の町
日が暮れ始めて、建物が黒い影になる。その縁に橙色の色が滲んで、青い空を下から汚していく。
僕の脇では、白い百合が音もなく枯れていく。百合が枯れ切る直前で、アズは百合に魔法をかけた。枯れていく花と、息を吹き返す花達と――僕はその景色を、泣いた後のようなじんじんと痛む心を抱えながら横目で眺めていた。
アズは、すっかり吹っ切れてしまったのかもしれない。アズの魔力って、一体どこから溢れ出ているんだろう。無尽蔵の花魔法に、僕は口を出すことができないほどに委縮してしまっていた。振り返ると、「いや、こうしたら枯れる花は一つもないことになるでしょ? 僕達の足跡を消すことにもなるし」とアズは悪びれずにっこり笑って言った。僕は、それは何か違うと思った。
「花が一回枯れたことに変わりはないよ。僕が枯らしたことには」
「そう。でも、じゃあ枯らしたままにする? ユークはそうしたいの?」
アズはどこか険のある声でそう言った。
「別に……」
「そう。じゃあ、いいよね」
アズは表情を消して、また杖を振り上げた。僕は雨の染みがついた黄色の煉瓦道を見つめた。
八つ当たりされている、と思った。だけど僕は、アズのかんしゃくを止める方法もわからない。こんな時、カイヤならアズに口答えできるんだろうかと思いか けて、浮かんだその考えに嫌な気持ちがした。それに、カイヤは多分こんな状態になったアズをどうすることもできないだろう。アズにすごく遠慮して見えるから――結局、僕と同じか。
僕は小さく自嘲するようにため息をついた。
「あのさ、僕の昔の話、聞く気ある?」
零れた僕の声も、少し刺々しかったかもしれない。僕は、たかが好きな女の子が思うような反応をしなかったというだけで自棄になるアズが子供っぽいと思っていたし、その苛々で自分のことばっかりになっていることにもなんだか嫌な気持ちがしていた。今は僕が、僕の妹のためにアズに託した願い事のために、二人で歩いているはずだ。いつまでも、その嫌な感情を僕に向けないでほしかった。
返事がなく、アズの足音さえ聞こえなくなったので、僕は口をきゅっと引き結んで、振り返った。
アズは、呆然としたような顔をしていた。僕と目が合うとゆらゆらと視線を彷徨わせて、へらと笑ったまま俯いた。僕はアズのその姿になんだかむすっと拗ねてしまった。アズって、いっつもへらへら笑ってばっかりだ。まるでプレナみたい。ほんとは腹の中でいろいろぐちゃぐちゃ考えてるくせに、笑ってごまかすんだ――アズの場合は、プレナよりはましかもだけど。
プレナは毒を隠すために笑った。アズは、内に籠りたい衝動を堪えるために笑ってるんだと思う。
「ごめん……」
アズは、蚊の鳴くような声で言った。
「ごめんね、ユーク。僕、苛々してた……君には関係ないのに」
「僕も、苛々したから、おあいこ」
僕はむすっとしたまま口をとがらせて視線を逸らした。手首から下がずっしりと重たく感じられて、僕は手をズボンのポケットにつっこんだ。右手の指先にかさりとした感触があって、どきりとした。そこに入れていたものを、少し忘れかけていたのだ。僕は思い出しかけたそれを忘れようと、頭をぶるぶると振った。 喉を何度か鳴らして、何度も唾を飲みこんだ。
いざ、僕の妹の話をしようと思ったら、急に気恥ずかしくなった。アズが僕の目を覗うように見上げて、視線を逸らさないからかもしれない。自分の都合が悪い時は目を逸らすくせに、こっちの都合が悪い時はまるで目を逸らしてくれないんだなって思ったら少しだけむっと来たし、同じくらい嬉しかった。
僕は、きっと、アズのそういうところが好きなんだ。
*
「プレナが酒を煽って、だらしない姿でアイオの死をあいつなりに悲しんでたのを見て、すごく不快だった。僕は結局、プレナのことはよくわからなかったよ。 どうして、僕を庇って、わざわざ法廷まで来て、罪を被るべきは僕だって言ったのかもよくわからない。僕のことを、やっぱり少しは思ってくれてたのかなって 思いたくなる弱さが、まだ僕の中にあるんだ。……でも、単純に、アイオがいないこの世界からさっさと消えてなくなりたかったのかもしれないし。僕にはわからない……話しかける墓すらないから」
僕は、僕の心の中に閉じ込めていたぐちゃぐちゃな思い出を全部吐き出した。話しながら、法廷で僕を見て笑ったプレナのくしゃくしゃの顔を思い出していた。「お前を追い出さなきゃよかったのに、僕は……」ってうわ言のように呟いたプレナの声は、頼りなかった。追い出したって自覚はあるんだなと思ったし、 自分にとって絶対的だったはずのプレナを哀れだなって思ってしまったことにも、自分で衝撃を受けていた。僕がいなくなってから、プレナとアイオがどんな暮らしをしていたのか、僕には知りようがない。プレナがアイオだけに依存したから、僕はプレナの苦しみを一つも知らないのだ。
プレナが処刑された日、僕は、とてつもなく後悔した。苛まれた。今ならわかる。少しだけ大人になったから――プレナが、僕が思っていたほど大人じゃなかったこと、誰かに依存したくなるくらい、何かに追い詰められてたってこと。アイオに投げないで、僕だって、どれだけ拒絶されたって、プレナに歩み寄るべきだったなってことが。きっと今なら僕は、プレナと友達になる努力ができた。けれどこんな気持ちも、アイオとプレナを失って初めて手に入れたんだし。だか らきっと、僕はプレナとは何度生まれ変わっても分かり合えないのだ。それが、とてつもなく、苦しい。
アズに僕の過去を話したのは、話せばもしかしたら何かが変わるんじゃないかって、狡い期待があったからだ。誰もかれも、僕のこの花枯らしの体質を原因不 明だと言ったけれど、僕にはわかっているのだ。アイオを知らない間に失っていたこと、恨みたくて、同時にきっと好きだったはずのプレナのことまで失ったこと、そのプレナが僕を庇ったこと――いろんなことが僕に降りかかって、僕はあの頃自棄になっていた。絶望して、何もかも死んでしまえばいいのにって思った。その僕の気持ちが、僕の身体を造り替えてしまったのだ。僕はもう、そんな絶望を知らなかった頃の自分に、戻れない。昔の自分がどんなだったかさえ、よくわからないから。
アズは、僕の横顔を見つめたまま、黙っていた。僕は、自分の胸の奥が、少しだけ綺麗になったような心地がしていた。心のお腹がすくって、こんな感じなんだろうなって。胸がすうすうして、楽になったのに、同じだけ気持ち悪くて、具合悪い。
道沿いに視線を移すと、花は絶えず枯れつづけていた。僕は泣きたくなった。おかしいよ。おかしいだろ。僕今、ちゃんと自分の心の中の毒を吐き出しただ ろ。ずっと閉じ込めていたものも、がきっぽいわがままも、嫌いだった自分の気持ち、全部吐き出したよ。なのにどうして、元に戻ってくれないんだよ。
「ほんとは……」
僕は顔を手で覆って、唸った。アズは、僕の顔から視線を逸らして、「うん」と静かな声で応えた。
「ほんとうは、僕がこの話、思い出とか、嫌な気持ちとか、全部吐き出したら、この体質、病気、治ってくれるんじゃないかと思ってた」
「うん」
アズの声が、風に溶ける。
「僕は……」
僕は、自分の肌に爪を食いこませた。
「アズになら、話せるような気がした。だから話したんだ。利用したんだ。それで、僕が楽になりたかった」
「うん」
「でも……治らない……」
僕の喉から笑い声にも似た変な音が漏れる。
「治らな、かった……」
「また、治らないと決まったわけじゃない」
アズの声は、優しかった。
「治るとも、言えないけどね」
「意地悪」
「今更」
アズはそっと笑う。
「きっかけと原因は違う。ユークが絶望したきっかけがそれでも、ユークの魔力を変えた原因はもっと根本的なものかもしれない。例えば、悲しい気持ちがずっと降り積もって、爆発したとかね。ひびだらけの瓶の中に閉じ込めてた悲しい気持ちが、瓶が割れちゃって流れ出して止まらない、とか。だったら、その悲しい 気持ち全部取っ払って、楽しいことばっかりのピエロにしないと、ユークの病気は治らないかもしれないだろ」
「ぴえろ、って何……」
僕は鼻を啜りながら、目尻を指で拭った。
「わからなくて、いいよ」
アズは一層俯いて、へら、と笑った。
「ユークが苦しいなら、それを取り除いてあげたい」
アズは杖を握った右手の手首を、左手で掴んだ。
「でも、一つだけ……君の花を枯らす力は、悪いことばかりじゃないと思う。カイヤも言ってただろ。花が咲き続けるのはおかしいって。おかしいかどうかまで は僕にはわからない。けど、ねえ、ユークは、君の妹やプレナって人が死んだこと、死んだからもう意味なんてない、生きてたことすら無駄だって思う?」
「そんなわけないだろ!」
僕は反射的にかっとなって叫んだ。ぶわり、と体中に怒りが走る。
「そうだよ」
アズは、まっすぐに僕を見つめて言った。
「死んだことにも意味がある、なんてそんな偽善は言わない。だけど、そのことに価値すらないなんて、僕は思わない。それと同じことだ。みんな、花が枯れる ことは花が死ぬことだって思ってる。それはこの世界で意味ない無駄なことだって思ってる。だから花を枯らしちゃいけないっておふれが出るんだ。でも、花が 枯れないと種は取れない。ユークだって知ってるだろ? ビオラの種、取り出したんだから」
アズはぎこちなく笑った。
「僕だって一緒だよ。ラベンダーの花の種が欲しくて、無理矢理許可とって、花を枯らして種を取った。僕もユークも同罪だ。それを罪って言うならさ」
「じゃあ、アズは、」
僕は乾いた唇を舐めて、喉を鳴らした。
「そうやって罪を犯したのに、喜んでくれなかったニーナを恨む?」
アズの顔がこわばった。僕は握りしめた拳の中で、爪を深く肌に食い込ませた。アズから絶対に、目を逸らさないように。
「……恨むわけ、ないだろ」
アズは、低い声で静かに言った。
「思い通りにならないからって、いちいち恨んでたら生きていけな――あ、いや、」
アズはばっと口元を手で覆って、視線を彷徨わせた。アズの顔は真っ青になっていた。僕は心配になって、アズの顔を覗き込んだ。
「アズ、大丈夫?」
「大丈夫……いや、大丈夫じゃない……」
「え、どっち」
「僕……僕……どうしよう」
アズは震える声で言った。
「何か、思い出しちゃいけないこと……違う、僕が、目を逸らしてたこと……僕の、根幹の――」
あとは、ぶつぶつと籠った音が聞こえるだけで、アズが何を呟いているのか僕にはわからなかった。
アズはしばらく、目を見開いたまま瞳だけゆらゆら揺らしていた。やがて喘ぐように息を吐いて、顔を上げて、汗が滲んだ額に前髪を貼りつけたまま、僕にぎこちなく歪んだ笑みを向けた。
「ぼ、僕のことはいいや。行こうか」
紫に染まった空の下で、アズの顔は僕の影に隠れて、黒い瞳だけが闇色に輝いている。
僕を置いて速足で歩き始めたアズの背中を見つめながら、僕はそっとポケットから紙を取り出した。よくわからない言葉が書かれた、カイヤ宛ての手紙。僕は その内容をよく理解できていなかったけれど、少なくともこれを書いていた時、アズが自棄になっていたことだけはなんとなくわかるのだった。さっき、僕が枯らす花を雑に咲かせ直していた時と同じだ。
「僕は、もういいよ……」
僕は唇をきゅっと噛んで、重たい足を動かした。
「充分だよ。お願い事聞いてくれただけでも、嬉しかったんだ。だから、今度は」
僕の足は、簡単にアズに追いついてしまった。僕は黙り込んだ。アズに聞かれるのは恥ずかしかった。手紙をポケットに戻して、そのまま手を突っ込んだま ま、僕はわざとらしくぶすっとした表情で歩いた。アズは道の先だけを目を見開いて見ていた。僕達は結局それからずっと、僕の故郷――花の枯れ切った水晶通り、枯れた菫の残骸が落ちる町へと辿り着くまで、一言も話せなかった。
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