十四、薄闇に屈む

 太陽は水平線に消え入る最後の灯を、薄赤に灯していた。その光を覆い隠して消してしまおうとでも言うように、藍色を滲ませた蒼い空が迫ってくる。蒼と桃色の狭間で、街の建物の影は真っ黒に染まっている。窓や壁の蔦なんて見つからないくらい、べったりと黒一色に。

 そんな薄闇の中では、丘の上に佇むアズの姿も、ちらちらと瞬く黒い影で、目が痛くて僕は何度か瞬きをした。アズの影は、アイオのお墓の前で膝をついて、俯いていた。きっと、僕の代わりに祈ってくれているのだと思う。その姿が、まるで本に出てくる王子様みたいだなって、僕はふとアイオが好んで読んでいた絵本を思い出しながらそんなことを思った。

 その本をアイオに与えたのはプレナで、プレナはアイオの王子様になりたかったのかもしれない。僕には、まだそんな気持ちは分からないけれど。

 僕は丘の中腹で立ち止まって、アズの姿と、輪郭を淡い白に染めた丘陵を見ていた。僕がこれ以上近づいたら、これからアズが咲かせてくれる花をまた枯らしてしまう。僕が一度枯らした花は、二度と咲かない。種を蒔き直さない限り、その大地は花のない荒れ地になる。

 アズは、しばらくアイオの墓の表面を撫でていた。その後掌を見つめて、また撫でる、なんて動作を繰り返していた。何をやっているんだろうって、僕は首を傾げてしまった。しばらくしてアズは立ち上がり、振り返って僕にはにかむように笑った。

「結構、汚れてるね」

 そう、言って。

 僕は目を伏せて、息を細くゆっくり吐いた。唇を撫でた息は熱かった。お墓を掃除しに来ることは、もうできない。花を咲かせてしまったら。僕はどっちをとればよかった? でも、やっぱり……僕はアイオにお花畑を見せてあげたい。僕には花束程度しか咲かせられなかった、今はもう咲かせられない花で、アイオのお墓を囲んであげたいんだ。

「……しかたない、から」

 僕は、自分に言い聞かせるように小さな声で呟いた。視線を上げると、アズは僕に背を向けて懐から種をばらばらと辺りに巻いていた。あまりに沢山蒔くので、僕は少しだけ不安になった。あの種は、僕たちにとって大事な種の一つなのに。

「アズ!」

「うん?」

 僕は叫んだ。アズは不思議そうに首を傾げた。顔がよく見えない。薄闇に翳って、ちらちらと瞬く。

「そんな……種、使い切らなくて、いいから。少しでも咲くだろ? アズの力なら」

「うーん」

 アズの横顔は、明るい水色の筋を輪郭に引いていた。

「うーん」

 アズは少しだけ俯いて、懐から種の入った袋を取り出した。その口に指を突っ込んで、ぐいと開く。アズは袋を無造作に逆さまにして、その場でくるくると回りながら袋の中身全部、種をばら撒いてしまった。

 僕は唖然とした。なんて雑なんだろう。そして、なんでそんな事したんだろう?

「なんか、こうしなきゃいけない気がして!」

 アズは叫んだ。弾んだ声は明るい。

 僕の足元にも、種はぱらぱらと零れ落ちてきた。僕は、目の奥が痛くなって後ずさった。アズの姿がほとんど見えなくなるくらい、下へ降りた。風がアズの声を微かに運んでくる。

「ロゼ・アズ――・カルペ・ウィアム」

 アズの影は杖を空高く掲げて、先端をくるくると回す様に振った。杖の先からキラキラと星屑のような水色の瞬きが零れて、辺りに霧を作る。霧が零れ落ちる先に、七色の光――虹の筋が見えて、まるでカーテンのように揺らめいている。

 その景色を、とても綺麗だと思った。

 アズの影がくるくる回って、踊る。僕は、他人の花魔法をこれまで綺麗だと思ったことは一度もなかった。けれどアズの花魔法は、いつも僕の胸をぎゅっと締め付ける。蓮の花も、百合の花も、ラベンダーの花畑も。

 アズが杖をふるう姿は、まるで光の絵の具を大きな筆で空に塗っているみたいだ。僕はアズの蒔き散らかす光の粒を見つめながら、プレナの描いていた花の絵を思い出していた。僕は、プレナの描いていたその花の絵が嫌いじゃなかった。花の綺麗だとか、可愛いとかはわからなかったけれど、プレナがそれを綺麗な色で描いたということがなんだか好きだった。へらへら笑いながら、それを描いていたプレナはどんな気持ちでいたんだろう。僕は今なら、プレナがアイオに愛されたかった気持ちがわかるような気がした。プレナはきっと、自分の見た景色を一緒に綺麗だねって、可愛いねって言ってくれる人が欲しかったんだろう。自分の描いた絵を、可愛い、可愛い、と言って喜んだアイオのことが、どれだけ愛しかっただろう。【名持ち】の女の子だから――最初はそんな理由で手元に置いた女の子のことを、もしかしたら、本当はちゃんと好きになってくれてたんじゃないだろうか。僕の妹のことを、ちゃんと。

 だとしたら、僕はきっと、やっぱり邪魔者だったのだ。あの白い造花の花冠は、僕が見ていいものじゃなかった。僕はプレナを傷つけてしまった。プレナだって僕をたくさん傷つけたから、おあいこなのかもしれない。だから僕は、あの時逃げないでちゃんとプレナとぶつかるべきだった。今カイヤに対して八つ当たりで向けている敵意を、ちゃんとプレナにもぶつけるべきだった。嫌われるのが怖かったんだ。もう、とっくに嫌われていたのに。

(アイオ、アイオ……僕の魔法を見たら、僕が花を枯らしてしまう魔法を見ていたら、おまえは喜んでくれたかな。可愛いって、やっぱり言ってくれたかな)

 見てほしかった。僕も、アズの魔法の欠片でも綺麗な花魔法ができていたかしら。僕もあんな風に綺麗だったのかな。僕は今更、アズの魔法に憧れても、いいのかな。

 魔法の粒は、種を追いかけて草をかき分け、僕の足元までにじり寄ってきた。水と光に包まれた種は、ビオラの花を咲かせる。それは、青と白と、紫色の花弁をもった小さなビオラだった。それは僕の足先でふるふると蝶が蛹から孵るみたいに頭をもたげ、やがて泣き崩れるみたいに萎れて枯れた。

 頬を、温い何かがつたって、顎からポタリと零れた。筋のようなその跡は、夜風に触れてひんやりと冷えた。僕はそれを指で拭った。ぽた、ぽた、ぽた、僕の涙が、枯れてしまったビオラの上に落ちる。憧れたくったって、そんな資格ない。ただ僕は、今のアズの姿に自分を投影することしかできない。僕もあんな感じだったんだよって。そう思うことで自分を慰めることしかできないんだ。それってなんてつらいんだろう。

 膝ががくんと崩れて地面にぶつかる。痛さもよくわからなかった。僕は枯れたビオラをそっと撫でた。枯れた花弁は、触れただけで崩れて粉になってしまった。僕の、マニュキアを塗った爪の上に、その粉は貼りついた。僕は爪を撫でた。

 顔をあげ、立ち上がる。丘の上で、蝶の羽のような花の影が蛹から孵って頭を次々にもたげていく。風に震えるその花の影を足元に揺らめかせながら、アズの影は真っ黒にくるくると踊り続けていた。もうその顔も判別できないほど、空の蒼が濃さを増している。

 僕は目を伏せてもう一度指の爪を撫でた。杖を奪われてからはずっと、このマニュキアを媒介にしていた。けれどその魔法も花を枯らすと知ってからは、ほとんど使ったことがない。こんな体質になってしまって、僕が人前で魔法を使ったのはアズの前が初めてだった。僕が枯らした黄色のカタバミ。それはとても自虐的な行為で僕の胸の奥を引っ掻いたけれど、それを見ていたアズの顔が本当に泣きそうだったから、僕は泣かないでいられたのだ。へら、と笑うことができた。僕はその時ようやく、プレナが笑っていた理由に寄り添えた心地がした。

 奪われた杖を使えば、花を枯らさずに済むだろうか? どうせ、変わらないだろうなと思う。媒介の問題じゃないのだ。アズが言うように、僕の根本が変わってしまった。プレナを思い出すと悲しくなる。前は怒りとか苛立ちとか、恨めしい気持ちが強かった。でも今は、僕はプレナのことを思うと悲しくてたまらなくなる。後悔ばかりが僕を支配する。だとしたら僕は、やっぱり変わってしまった。その気持ちを吐き出したところでどうにかなる問題じゃない。それが、やっと今、わかった。

 僕はすう、と息を吸って、吐いた。星空に手をかざす。指の隙間から、アズの影がようやく動きを止めたのを見た。アズの影は、首を傾けどこかをじっと見ていた。まるで、斜めに傾く蝋燭みたいで、微動だにしない。一体今、アズは何を考えているんだろう。

「ロゼ・ルメヌレーナ。蝶が僕になりますように。花に焦がれて飛んで」

 僕の爪が淡く薄荷色に光った。そこから光の小さな蝶達がぶわりと噴き出した。蝶達は僕の頬を撫でて、髪を梳いて、そして丘の上を目指して飛んで行った。アズの影が振り返る。蝶達は僕の足元から雁のように列を作って、アイオのお墓を目指した。ひらひら、ひらひら。蝶は花の影に舞い降りる。蝶が触れる瞬間、その薄荷色の光に照らされて、ビオラたちの色が見えた。紫、白、水色、赤紫、黄色。小さな霧が立ち上り、蝶が消える。光が消えたので、僕はビオラの色が枯れていく様を見なくて済んだ。花の影が一つ消える。二つ、また一つ。アズの影が振り返って、首を傾けた。僕は、僕の顔がアズに見えているのかわからなかったけれど、笑えなかった。こういう時笑うのは、プレナとアズだけだ。僕にはやっぱり、笑うことなんてできない。痛いのを我慢するだけで精いっぱい。

 アズの影は、その場で屈んでしばらくもぞもぞと動いいていた、やがてもう一度立ち上がった影の手には、ビオラの花がたくさん揺れていた。アズはアイオのお墓の前でもう一度蹲った。墓の影で、アズの姿はすっかり隠れてしまう。

 やがて立ち上がり、僕の傍に近づいて来る。次第にやっとアズの顔がうっすらと見えた。アズは静かに微笑んでいた。アズの手には、もう花は握られていない。

 アズはもう一度振り返って、僕が枯らした花の痕を眺めた。アズは何も言わないでいてくれた。

「いこっか。それとも、君も花束をあげる?」

 僕は首を振った。

「できない。だって、枯れるから。また枯れる」

「そっか」

 アズはそっと僕の身体を回して、丘に背を向けさせた。そのまま僕の背をそっと押した。僕は、目頭につんと上ってきた痛みを堪えて、唇を弱々しく噛んだ。

 アズの咲かせた花畑。僕が咲かせたかった花畑。僕は、僕の願いをかなえてくれた友だちの花を、枯らすことでしか僕の存在を示せない。アイオの前で、僕もいたんだよって、僕はもう来られないよって、アイオのお墓の前で、花を枯らすことでしか。

「足跡みたいだった」

 人気のない街の街道を歩きながら、アズがぽつりとそう呟いた。

 僕は思わずアズの横顔を見た。アズは目を伏せたまま、白い綿毛のような息を零していた。アズの顎から、黒にも白にも色づいて見える雫が落ちた。

 アズは泣いていた。こんな時でも。僕は、今が夜でよかったと思った。僕の涙はもう出なかったけれど、たくさん泣いた後のように少しだけ心の奥がすんとしていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る