ジョーカーが笑う
「
口にしてから、うろたえた声の響きに我ながら舌打ちしたくなる。
「ええ」
相手は穏やかに微笑んでいるが、その平穏さこそが反論を一切受け付けない表明に見えた。
「どうして相談してくれなかったんだ」
問い掛けのはずなのに言い訳じみた調子になる。
「貴方には帰るべき場所があるでしょ」
彼女はローズ色のルージュを引いた唇から白い歯並びを覗かせて告げる。
オフィスで「お電話ありがとうございます」と受話器片手に切り出す時と同じ笑顔だ。
「それは、私じゃない」
微笑の奥の乾き切った瞳だけは、今まで一度も目にしたことがなかった。
*****
後腐れなく終われたわけだし、これで、いいんだ。
職場での不倫がこじれて仕事も家庭もなくす例だって世間にはあるし、そこからすると、自分はむしろ運が良かったのだろう。
食卓の向かいの空席に目を移して、彼は息を吐く。
今日から
――そんな顔してどうしたの?
妻から問い掛けられる場面を想像しつつ、誰も居ない正面を眺めていると、胸が奇妙にどきついた。
もしかすると、遥子は今まで口に出さないだけで、知っていたのではないだろうか。
「さっきスーパーでお買い物した時ね、
唐突に、隣からの幼い声が飛ぶ。
「え?」
箸を止めて振り向いた父親を見上げ、娘はまるでその驚いた顔つきがおかしいかのようにぷっと吹き出した。
「おばちゃん、て声掛けたら、変な顔して走ってっちゃった」
――明子はおしゃれだから、私も変な格好は出来ないのよ。
新調したワインレッドのコートを着て出て行った妻の後ろ姿を彼は思い出した。
背中に垂れた髪の先が栗色にカールして跳ねていたところまで、今朝、実際に目にした時より奇妙に鮮やかに蘇る。
あいつの髪は真っ黒で真っ直ぐだったはずなのに。
「それは、人違いしたんだよ」
大体、あの明子さんは確かここから電車で一時間近く掛かる場所に住んでいるのだから、この付近のスーパーに来るはずはないのだ。
そう思い直して一瞬、安堵してから、いや、それは向こうがまだ結婚していた頃に夫婦で住んでいたマンションの話だったと思い当たる。
遥子の口から彼女が離婚したとは聞いたが、その後、どこに移り住んだかは聞いていないし、自分から尋ねたこともなかった。
いつの間にか、妻の話を右から左に流すだけで、確かめなくなっていたのだ。
*****
寝る前に一度、遥子に電話しようか。
それともメールの方がいいか。
単純に「無事に
やはり、抜き打ちで電話して、どこに誰といるのかそれとなく窺うのが確実だろう。
しかし、いきなり電話して、俺は一体、遥子とどんな話をするのだ。
考えあぐねている内に、不慣れながらも二人分の食器を洗い終えてしまった。
拭いて棚に戻すの面倒だから、明日にしよう。
どうせ休みだから、家にいる俺たち二人は昼まで寝ている。
次は、風呂にお湯を張って遥佳を入れないと。
頭ではそう思いつつ、何とはなしにくたびれてソファに腰を下ろす。
「ババ抜きしよう!」
娘がプラスチックのケースを掲げて走ってきた。
「分かったよ」
彼は強いて笑顔を作ると娘の頭を撫でる。
いつの間にか随分頭の位置が高くなって、撫でた時の感触がふっさりしてきた。
*****
「パパの負けだ」
カードの山の上にジョーカーを投げ出す。
ペアのカードを積んだ山の上で、たった一人で笑うジョーカー。
顔の半分が赤、もう半分が青に彩色されており、笑った口元は白目だけの瞳の下まで裂けていた。
嫌な顔だ。
まだ恋人だった頃に遥子と一緒に観た映画にも、こんなキャラクターが出てきた。
当時のあいつの好きなハリウッドスターがその役をやってたけど、あの俳優は何て名前だったかな?
頭の隅で思い巡らしつつ、カードを裏返す。
黒字に白の唐草模様の上で、まるで切り取ったように一部だけ四角く蛍光灯に反射して光った。
「ジョーカーのカードは一度背中が破けたからママがセロテープを貼ったの」
幼い娘は丸い頬に笑窪を浮かべて告げる。
「だから、すぐ分かっちゃった」
ウフフフ、と、大きな目に掛かる前髪を払いのけもせずに笑う。
この子は遥子より俺に似ていると、今までずっと思い込んでいた。
「そういうズルはダメだぞ、遥佳」
声に出すと、自分で把握していた以上の苦さを帯びる。
「気付かないパパが悪いんだよ」
目の前の相手は相変わらず白い八重歯を見せて笑っている。
「どうしてカードを破くの、パパ?」(了)
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