囚われの恋人

「先生は、クリスマスはどうするの?」

 八歳のマリーは栗色のお下げ髪を揺らして問い掛ける。

 夢見るような明るい茶の瞳が真っ直ぐ見上げていた。

「それは内緒だよ」

 ジョゼフは微笑む。

「そう」

 予想に反して、少女は寂しげに丸い頬を俯かせた。

 ジョゼフは仕切り直しに小さな栗色の頭を撫ぜる。

「君の予定を教えてくれたら話すよ」

 女の子は何歳でも難しい。

「ブルゴーニュのおばあちゃんちに行くの」

 両の頬にパッと笑窪が入る。

 楽しい予定を思い出してくれたようで良かった。

「先生の伯父さんもブルゴーニュに住んでるよ」

「本当?」

 祖母が亡くなって遺産の件で揉めてから、何年も会ってないけど。

 茶色の目を輝かせた小さな丸い笑顔を見下ろしていると、嘘をついているわけでもないのに胸がほんの少し痛む。

「僕は、ルーアンに帰るんだ」

 ジョゼフは、今度は内緒話をする風に声を潜めて教え子に囁いた。

「そうなの!」

 僕もこのくらいの頃は、クリスマスに親兄弟や普段顔を合わせない親戚たちと過ごすのは、誰にとっても楽しいことだと信じて疑わなかった。

*****

「パブロ、君もそろそろ片付けを」

 ジョゼフは教室に戻ると、一人残った少年に声を掛ける。

 相手は黙って大きな黒い目をギョロリと向けた。

「お母様も迎えにいらっしゃるだろうから」

 どうも、この子は苦手だ。

 穏やかな口調を努めつつ、ジョゼフは頬が自ずと強張るのを感じる。

 画才は子供離れしているが、普段も無邪気さがない。

「とにかく反抗的な行動を見せ付ける」という意味で子供らしい生徒ならば、これまでもいないわけではなかった。

 しかし、この少年はどうもそれとも違う気がする。

*****

「ママ!」

 先ほどとは打って変わって少年は勢い良く駆け寄っていく。

 ジョゼフは苦笑いした。

 やっぱり、パブロもまだ子供だ。

 ただ、自分に対して、あどけなさを示してくれないだけで。

「今日は遅くなりましてすみません」

 母語でない言葉を話す人にありがちな歌うような調子だが、彼女の低く澄んだ声を通すと、正確な発音よりも魅惑を帯びた響きの言葉に思える。

「マダム、お気になさらずに」

 ジョゼフは自然に見えるよう細心の注意を払って切り出した。

「クリスマスは、どうなさるんですか?」

 これじゃまるで詮索好きの婆さんだ。

 言い終えてから、上擦った自分の声に苛立った。

「アンダルシアに帰ります」

 黒いベールの下から同じく漆黒の目がジョゼフを射る。

「主人のお墓参りもありますので」

 控えめな語調で言い添えるが、ベールを通しても明らかな黒い瞳の煌めきは、墓の中の男が彼女の中でまだ葬り去られていないことを示しているように思えた。

「ママ」

 呼び掛けとは裏腹に、パブロの目が自分に向けられていることにジョゼフは気付く。

 彼女は優しく弧を描いた眉なのに、この子の眉はまるで黒炭を思い切り引いたように太くて真っ直ぐだ。

 今、初めて気付いた特徴でもないのに、眺めていると何故か暗いものが湧き出てくる。

「寒いから早く行こうよ」

 デッサンを取る時と同じ冷ややかに光る瞳を教師に注いだまま、少年は絵の具でわずかに汚れた小さな手の指を母親の長い指に絡める。

 春先に教室に来た時は片言だったのに、今では聞くのも話すのも他の子供たちと変わらない。

「それでは、ごきげんよう」

 ベール越しに微笑むと、彼女は息子に手を引かれる形で歩き出す。

 その拍子にベールがふわりと翻り、滑らかに浅黒い頬からうなじを一瞬、顕わにしたかと思うと、また覆い隠した。

「良いクリスマスを」

 ジョゼフは唇が自ずと動いて機械的な声音で告げるのをぼんやり聞いた。

 角を曲がって教師の視界から姿を消す瞬間、少年が笑って母親に話しかける。

 至ってあどけない声音だが、その異邦の言葉の響きは、解せないジョゼフの胸に突き刺さった。

 片付けのために誰もいない教室に戻りながら、母子がアンダルシアからいつ戻るのか聞くのを忘れていたことにジョゼフは思い当たる。

 というより、尋ねる前にパブロが遮ったのだ。

 カリキュラムからすれば、一月ひとつきもしない内に、また息子を送り迎えする彼女に会えるはずだ。

 ジョゼフはふっと吐くと、急速に薄暗くなった廊下に出て教室の鍵を閉める。

 何故か、彼女がもう会えないところに永久に去ってしまったように感じた。


 *****


 アパートの自室に戻ったジョゼフは、オレンジ色の灯りの下で描き上げたばかりの絵に目を注ぐ。


 赤子を抱いた、大きな黒い瞳のマリアの肖像画。


 結局、あの人には渡せなかった。

 でも、これでいいんだ。

 もともと、彼女じゃなくて、自分のために描いたんだから。

 大体、息子の教師からいきなりこんなものをもらっても向こうは困惑するだけだろう。

 どこかでそう分かっていながら、描いている間は現実に目を向けるのを避けていた。


 画中の母子は揃って優しく弧を描いた眉を持ち、円らな黒い目に微笑を含ませて、こちらに視線を向けている。


「この嬰児みどりごは誰なるぞ」


 ジョゼフは苦笑いしてそう呟くと、カンバスの後ろに題した「聖母子」に二重線を引き、その上に「恋人」と記した。(了)

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