ソウルメイト

「いいかげんにしろ!」

 太鼓腹の中年刑事がバンと両手で思い切り机を殴るようにして立ち上がる。

 隣の若い刑事はビクリと目を見張った。

「まだそんな与太話を続ける気か」

 机の向こうに座した男は蒼褪めたまま、しかし、銀縁眼鏡の奥の大きな瞳で迷い無く見上げる。

 中高の彫り深い顔立ちは一見して白人の血が入っていると知れた。

「私は、本当のことを話している」

 低い声で話す言葉には、母語でない言語を話す人間に特有のたどたどしさが混じる。

 整髪料で固めた男の黒い髪は所々解れ、青みの勝った白シャツの襟にも崩れが見え始めていたが、それでも品の良いビジネスマンか年若い学者といった印象を与えた。

「彼女たちにも……」

「ラストエンペラーの血筋を引く、香港の大富豪。母親はパッテン元総督の妹で、オックスフォードを首席で卒業したってか」

 年若い刑事は嘲りを込めて口を挟むと大げさに吹き出した。

「よく引っかかる女がこれだけいたもんだ」

 白シャツの男は黙したまま表情の消えた顔を二人の刑事に向けている。

「もう調べは着いてるんだ」

 中年刑事は一転して憐れむ面持ちで犯人を見下ろす。

「本当のお前は、香港生まれと言っても、赤柱スタンレーの孤児院育ち、引き取り手もなく中卒で働き出し、そこも喧嘩でクビになった後、日本に渡った」

 男はまるで耳にする相手の言葉を解せないかのように、端正な面を崩さない。

 窓の外で日が沈み、男の顔の半分を闇に浸した。

李嘉剛りかごう、もう、認めたらどうだ」


 *****

「まだ分からないんですか」

 若い刑事の目は苛立ちから不気味なものを眺める恐怖に転じつつあった。

「あいつの話は全てでたらめです。常識で考えれば分かるでしょう」

 毛羽立った山葵わさび色のカーディガンに擦り切れた煉瓦れんが色のロングスカートを纏った、もう若いとは言えない女は、憐れみを込めた眼差しを自分より年下の相手に向けている。

「あなたのお金が目当てだったんです」

 女は無関心な風に取調室のガラス窓に目を移す。

 雲一つない快晴だ。

「同じ手口で他の女性とも関係を持っていたんですよ。あなたに結婚話を持ちかける一方でね」

「ばかばかしい」

 向き直った女の瞳も声も冷蔑そのものだった。

「随分嗅ぎまわったみたいだけど、あなたが彼の何を知ってるって言うの」

 言葉を失った青年に女は再び憐れみの視線を注いだ。

「私には本当のあの人が分かるの」


 *****

 雲一つない青空の下、刑務所の門を出て行く男がいる。

 遠目には高級なスーツを着た長身の端整な体格だが、肩の肉は落ちて痩せこけ、薄くなった髪には白い物が目立ち始めていた。

 歩いていく少し先には、中年を通り越して初老に近くなった女が立っている。

 しかし、こちらは地味だが上質なグレーのワンピースを纏い、品の良い老婦人といった印象を与えた。

「お帰りなさい」

 薄化粧を施した顔に柔らかな笑い皺が増える。

「こんないい服を差し入れてくれて、ありがとう」

 たどたどしさが幾分取れた代わりに、力も抜けた口調で男は告げた。

「私には、もったいない」

「あなたに着てもらう服ですもの」

 日差しの照らし出す笑顔も、穏やかな声も、一度も苦労せずに老いた人のようだった。

 だが、その姿を眺める男の目には暗いものが宿る。

「私はもう、前科者なんだよ」

 ゼンカモノ、とぎこちなく発音した言葉が晴れた空の下に転がる。

「裁判で有罪と決まったんだ」

 ユッザイ、と切り裂くように吐き出す。

「君だって、本当はもう気付いて……」

 言葉の途中で、もはや女より一回りは上に見える男の顔がいっそうクシャクシャになった。

「私たちは、ソウルメイトでしょ」

 女は福々しい顔つきのまま、笑い皺の奥の瞳を潤ませて語った。

「あなたがそう言ってくれたから、私も今日まで生きて来られたの」

 肉の落ちた肩にふくよかな掌を置かれると、男は崩れ折れ、グレーのワンピースにしがみつき、声を放って泣いた。

 空を飛んでいく鳥の群が二人の上に影を落として通り過ぎた。

「さ、行きましょう」

 男が落ち着くのを見計らって、女は背中を押して立たせる。

「あの部屋に、まだ住んでるのかい」

 男は鼻を啜りながら尋ねた。

「あそこはもう手放してしまったわ」

 女は少し苦笑いして続ける。

「でも、海の見える場所に家を建てたの。二人で暮らせるだけのね」

「そうなんだ」

 男は寂しく笑って薄くなった白髪頭を頷けると、進んでいく先に視線を向けた。

 と、その目が大きく見開かれた。

 寂れたがら空きの駐車場には、一台だけ真紅のフェラーリが止まっている。

「これは……」

「あなたの出所祝いに買ったの」

 晴れやかな女の笑顔に、艶やかな車体の赤が映る。

「言ってたでしょ、ご両親が事故で亡くなった時、あなたは赤柱の別荘で、ずっと二人が真っ赤なフェラーリで迎えに来て、家族皆で本当の家に帰るのを待ってたって」

 女の言葉を聞く男の顔は、まるで恐ろしい刑を宣告されたかのように凍りついている。

「私、これでもゴールド免許なのよ」

 助手席のドアを開けて、慄いた表情の男を押し込む。

 車が緩やかに動き出したところで、我に返ったように男は尋ねた。

「今、どれだけローンが残ってる?」

 口にしたことで恐怖が強まったらしく、男の声が上擦った。

「君、私にくれたのもサラ金から借りた金だったんだろう?」

「もう、そんなの昔の話」

 女は笑い飛ばす。

 車は寂れた駐車場を抜けて、色褪せた灰色のアスファルトの車道に出た。

「あなたの妻と言うだけで、色々な人が助けてくれたの」

 車体からすれば、やや窮屈な道路をフェラーリはそろそろと進んでいく。

「私の妻……」

 男は解せない外国語でも耳にしたように繰り返した。

「私の夫はウィリアム・レイ、中国名はレイ・カーゴン。香港に移住した愛新覚羅一族の子孫で、母方の伯父はパッテン元香港総督です、とね」

 女は迷いなく真っ直ぐ前を向いたまま続ける。

「初めは小ばかにしていても、あなたと一緒に撮った写真を見せるとすっかり信じてくれたわ」

 男は灰色が勝った薄茶の瞳を見開いたまま、言葉も出ない。

「男の人って、単純ね」

 ぽつりと呟いた女の声はひやりとしたものを含んでいた。

 高速道路に出て、赤い車体は一気に加速していく。

「ただ一つ嘘を吐いたとすれば、未亡人と言ったことよ」

 ルームミラーに映る唇は晴れやかに微笑んでいる。

 窓ガラス越しに空の青を映したその唇は赤紫に染まり、間から覗く歯は抜けるように白く見えた。

「もう嘘をつく必要は無いわ」

 男は物問いたげに口を半ば開いたまま、隣で運転する女の横顔を見詰める。

「私たち、二人きりですもの」


 トンネルに入って、車内はオレンジ色の闇に閉ざされた。(了)

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