車輪の向かう先

静安寺せいあんじ通りまで」

「はい!」


 また違う女だった。

 俺は足を走らせながら気付かれない様に息を吐く。


 座席に乗せた女はかなりの上玉だが、あいつとは似ても似つかない。

 大体、あいつは亀や蛙みたいなぬめっとした生き物が嫌いだったから、こんなこけが生えたみたいな緑の服は間違っても着ない。

 あいつが好きなのは、故郷くにの湖の畔に咲く桃李や海棠の花みたいな、薄紅色だ。


 それなのに、どうして、あいつは里を捨てて出ていってしまったんだろう。

 女中のまま奥様方にこき使われて終わるのが嫌だったのか。

 それとも、俺から逃げたかっただけなのか。

 小さい頃から同じ家で下男と女中をしていて、いつかはめあわせられるとどこかで思っていたし、あいつが嫌がっているとも夢にも思わなかった。


 出て行く前の晩だって、使いから帰ってきた俺に笑顔で「お帰りなさい」と。

 その目尻が赤かったのも、きっと、お母さんを墓に入れたばかりでまだ割り切れないからだろうと。

 あいつが姿を消して初めて、明日が今日の引き伸ばしだと信じていたのが実は自分だけだったことに気付いた。


 横目に過ぎて行く通りには灯りが点き始めた。

 故郷の夜道は卵色の優しい灯りが多かったと離れてみて改めて分かる。

 ここでは道路に置いた柱に蒼白い灯りを点す一方で、暗くなればなるほど赤やら朱色やら目の痛くなるような色合いの灯りが通りに溢れ出すのだ。

 急に冷えてきた風に、埃っぽい地面の匂いが混ざる。

 里の道ではしっとりした土の香りがしたが、この街の路面からは乾いた石の匂いがする。

 夜道でこの香りにふと気付くと、いつも軽く鳥肌が立つ。

 こんな匂いのする街では、じょうのない人間ばかりなのも無理はない。


「最近、また車代が高くなったわね」

 客はビーズのバッグに財布を仕舞うと、降りながらぼやいた。

 何を言われようが、代金さえ貰えば、あいつ以外の女に用はない。


 日がとっぷり暮れて足元の暗くなった道を俺は再び走り出す。

 駆けていく夜の街は空の星と競うようにきらめく灯りを増やしていく。

 通りの灯りならすぐ近くに点してあるはずなのに、なぜかいつも手の届かない場所で光っているように見える。


 もしかすると、あいつは通りで人力車なんて待っていなくて、この無数にある灯りのどこかで、里で主家の奥様に仕えていた時と同じように椅子に腰掛けて刺繍でもしているのかもしれない。

 俺が上海に来て半年余りも車を引いていることも知らずに。


 黒塗りの洋車が向こうの道から姿を現したので俺は足を止めた。

 どでかい鉄で出来た車が目の前で横切るのを待ちながら、ふと空を見上げて息を吐く。

 出始めの星をどんよりと黒い雲が覆い隠し始めて、一雨きそうな気配だ。

 今夜は、あと一人は乗せたいところだ。


 そもそも、あいつはこの街にいるのだろうか。

 曇った空を見上げていると、そんな疑いがまた頭をもたげる。

 俺が聞いたのは、汽車にあいつに似た娘が乗るのを里の誰かが見た、という噂だけだ。

 きっと、上海に行ったのだろうというのも、いわばその噂に付いた尾ひれに過ぎない。

 だから、もしかすると、全くの見当はずれかもしれないのだ。


 仮にこの街にいるとして、顔を合わせてから、「あんたなんか嫌い」と言われたら?


 目の前の道が開けたので、再び走り出す。


 俺にはこうするしかなかったし、今更後戻りは出来ない。


 遥か遠くに、手を振って招く人影がまた見えてきた気がした。(了)

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