坂を越えたら

「本当に、申し訳ありません!」

 花嫁が式場を突如逃げ出し、残された新婦の父親が土下座した。

「何と、申し上げたら良いか……」

 白い物の混ざり出した頭を垂れて、言い淀む。

 留袖姿の新婦の母もその横に膝を付いた。

「うちの今日子が、こんなことを仕出かしまして」

 話しながらも、まだ信じられないらしく、年の割にあどけない大きな目がうつろに泳いでいく。

「本当に、本当に……」

「謝らないで下さい」

 控え室の椅子に腰掛けたまま、新郎の俊介は寂しげに笑った。

 日本人離れした手足の長い長身に白タキシードを纏い、栗色の髪を整えて、彫り深い顔の下にグレーの蝶ネクタイを結んだその姿は、むしろ、その隙のなさ故に、本当の花婿というより、ブライダル広告の花婿役のモデルに見えた。

「今日子さんの気持ちが、一番大事ですから」

 白く滑らかな面も、淡々とした声も、あたかも、怒鳴る、罵倒するといった感情表現の選択肢がこの青年の中に最初から存在していないかの様に思わせる。

「失礼いたします」

 スーツ姿の初老の男が入ってくる。

 椅子に腰掛けた新郎の姿を目にすると、儀礼的な微笑を浮かべた男の目に、幾分か、本当の安堵の色が現れた。

「招待客の皆様には、新婦様は本日急病ということで……」

 沈黙が流れた。

 青年はしばらく切れの長い目を伏せて思案する様子でいたが、やがて、意を決した風に瞳を上げた。

「それでは……」

「あたしは許さない」

 切り裂くような声に、その場にいた全員が振り向く。

 発言の主たる少女は、大きな瞳から浅黒い頬に光る粒を伝わらせていた。

「お姉ちゃん見つけて、連れ戻してくる!」

 叫ぶが早いか、水色のミニドレスの背を見せて走り出す。

「明日香ちゃん、駄目だ!」

 白タキシードの青年はそこで初めて急き込んだように立ち上がると、倒れた椅子もそのままに追い掛ける。


「あいたたた……」

 花盛りのコスモス畑を貫く灰黒色の石段の途中で、少女は水色のドレスのスカートを広げる様にして倒れた。

 躓いた拍子に脱げて跳んだパールブルーのピンヒールの片方が、三段ほど下に転がっている。

「大丈夫かい?」

 白のエナメル靴で追いかけてきた青年が声を掛ける。

 蝶ネクタイを締めた首元が苦しいらしく、白タキシードの広い肩が上下していた。

 青空を背にして半ば陰になった俊介のすぐ後ろを、朱色のトンボがさっとレースじみた羽をきらめかせて通り抜ける。

「捻挫しちゃった」

 青年を見上げて告げる少女の目はまだ赤かったが、平素の笑いをどこかに含んでいた。

「慣れないヒールで走るからだよ」

 俊介は窘めるように言うと、歩調も緩めて一段ずつ慎重に石段を降りて、片方だけの靴を拾い上げる。

 まるで、父親が幼い娘にでもしてやるように、元通り自分にピンヒールを履かせ、ドレスに着いた砂埃を払う青年の栗色に光る髪を、明日香は食い入るように見詰めた。

「じゃ、戻るよ」

 別に何でもないことだ、という調子で青年は告げる。

 秋晴れのコスモス畑の中で穏やかな笑いを戻したその顔は、しかし、涼やかな切れ長の目に張り詰めた気配を秘めていた。

「私、もう歩けない」

 明日香は叱られた子供のようにうなだれると、自分のピンヒールの爪先に目を止めたまま、答えた。

「仕方ないな」

 俊介は息を吐く。

 白タキシードの背を向けて屈みこむと、乗れ、という風に明日香を振り向いた。

 少女は笑いの消えた目で、しかし、従順に青年の背に凭れ掛る。

 俊介は、ゆっくりと元来た坂道を昇り始めた。

「戻って、どうするの?」

 明日香は白タキシードの背に頬を寄せると、まるで他人に聞きつけられては困る話を打ち明けるようにひっそりと問いかける。

「式は中止と皆に伝えるよ」

 答える俊介の声は静かだが、揺るぎがなかった。

「恥ずかしくない?」

 明日香の瞳に、また光るものが微かに宿った。

「そりゃ辛いさ」

 白タキシードの背が僅かにそれと分かる程度に震える。

 少女はいっそうその背に柔らかな頬を強く押し当てた。

「今日子がどうして逃げたのか」

 押し殺した声で言い掛けてから、俊介はふっと息を吐く。

「きっと、分からないから、こうなったんだ」

 背負われた明日香は大きな瞳を通り過ぎていくコスモスの花々に注いでいた。

 白、ピンク、赤紫の花が入り混じって微風にそよいでいる。

「でも、俺まで逃げるわけにいかない」

 その言葉を最後に、俊介は黙って灰色の石の階段を一段ずつ上り続ける。


 カーン、カーン、カーン……。

 坂の上から、チャペルの音が鳴り響いてきた。


 二人は思わず、行く手を見上げた。


 式場の屋根から突き出た十字架の上に広がる空に向かって、色とりどりの風船が音もなく飛び立っていく。


「このシーズンでは今日が一番いい日って聞いて、俺らも予約したんだよな」


 独り言のように呟いた白タキシードの肩に、少女はそっとピンクのキスマークを付けると、何も言わずに頬を寄せ続けた。(了)

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