笑容《えがお》

「鬼婆め」

 人力車が角を曲がってアパートが見えなくなったところで、あたしは座席から道に唾を吐く。

「せっかく阿偉アウェイが来たっていうのに」

 彼はまだ下っ端だから、あたしたちの舞庁ダンスホールにもそうちょくちょくは顔出しできない。

 老大ボスの使いで華姐ホアチエの下に来る時が、ちゃんと顔を合わせて話せる数少ない機会だ。

 台所で夕べの残りを食べさせてもあげられるし。

 それなのに、今日は彼が現れた途端、華姐は仕立屋に行けと言う。

 店に電話しても通じなかったから行っても留守かもしれないし、そもそも取りに行くのは姐さんの服。

 この前、仕立てた、秋冬向けの厚地の旗袍チャイナドレスだ。

 汗を拭いながら、九月も半ばだというのに、まだ日差しのジリジリ照り付けてくる空を見上げる。

 阿偉は普段は暑がりの癖に、今日は具合が悪いのか、蒼い顔をして黒い長袖をまくりもせずに着ていた。

 鍋に残ってる夕べの海老のあんかけを食べさせてやりたかった、と思い出しつつ、あたしは息を吐く。

 あたしが今朝、姐さんお気に入りの湯飲みを割ってしまったから、わざと意地悪したとしか思えない。

 あの人のことだから、きっと、平手打ちしただけじゃ、気が済まなかったんだ。

 大きな藍宝石サファイアの指輪を嵌めた手で往復して殴るのだから、かなわない。

「あんな女、死ね!」

 こんな風に車輪の回る音に紛らして吐き散らすのが、一人で乗った時の習慣になってしまった。


*****

 阿偉はまだいるかな。

 人力車を降りたあたしは、受け取った服の包みを抱き締めて急ぎ足で歩く。

 夕方になると、風がひんやりして、夏服ではやっぱり肌寒い。

 しかし、角を曲がると、アパートの前には、行く手を阻む様に人だかりが出来ていた。

「殺しか?」

「いや、身投げだろ」

「綺麗な女だったのになあ……」

 なぜか、昼間に会った阿偉の蒼ざめた横顔が蘇ってきて、今までとはまた別な風に胸がざわついてくる。

 今日の彼は、あたしとは不自然に目を合わせようとしなかった。

 知らず知らず、服の包みを抱く力が強まる。

「あんなピカシャカしたなりをして、何が不満だったのかね」

 いや、死んだのはどうやら女みたいだし、このアパートには訳有りの金持ち美人が少なからずいる。

 そう思いつつ、姐さんは窓際でまたおかんむりかもしれないと不安になって、三階に目を走らせる。

 もう夕方なので、どの階の窓もぽつぽつと薄橙色の灯りが点っていた。

 三階の、ここから見て一番、左端の窓は……。

 あたしの足が止まる。

 目に入った窓は、レースのカーテンが半ば透けてほの白く揺れてはためく、まるで白い壁を四角く切り取った黒い穴に見えた。

 全身の血が一気に吸い込まれていく感触に襲われて、あたしは目の前の人だかりを次々押しのける。

 見物に飽きたのか、野次馬の方でも三々五々に散っていく。

 疎らになっていく人影の間から、地面に倒れている人の剥き出しの細く白い腕が目に入った。

 地面を撫でるように半ば広げられた、白く、細長い指をした手。

 その薬指に嵌まっているのは、群青色の夕闇に紛れてしまいそうな色の石。

 と、あたしの前を塞いでいた最後の野次馬がさっと身動ぎした。


 悲鳴を上げようと思わなくても、勝手に出ることもあると身をもって知った。


*****

「華姐は知ってたんだ」

 今となっては主の消えた、真っ暗な部屋の中で、阿偉は震える声で告げた。

「自分が消されるって事」

 そこまで言うと、彼はポケットから取り出したものを、まるで火の付いた爆竹でも放るように床に投げた。

蓉蓉ロンロン、あの人は笑って飛び降りたんだよ」

 崩れ落ちるようにこちらに倒れこんできた彼を抱き止めるつもりが、二人とも互いの重みに耐えかねるように抱き合ったまま膝を着く。

 大きく開かれたままの窓から、冷え切って酷く乾いた、埃っぽい匂いのする風が絶え間なく流れ込んでくる。

「きっと、俺がこの役に選ばれたのも……」

 阿偉は言いかけたまま、あたしの肩に顔を押し当てると、声を押し殺して泣き続けた。

 黒い長袖を着た彼の肩からは、汗と安タバコのうっすら混ざった、普段通りの匂いがした。

 でも、あたしには髪油が足りなくていつも洗い晒した風にパサついた彼の髪と、そして、近頃急速に幅を増した背中を撫で擦ることしかできない。

 床に転がっている小刀の、夜目にも白々と鋭く光る刃を眺めながら。


 *****

「華姐」

 一枚きり残した枯葉色の写真にあたしは今日も問い掛ける。

「あの時はあたしを助ける為に、一人で行かせたの?」

 日毎に色褪せて輪郭のぼやけていく写真の中で、姐さんは勝ち誇った笑いを浮かべるだけで、何も答えてくれない。(了)

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