クッキーには紅茶を
「この辺りで、お昼にしましょう」
彼女を振り返って、俺は声を掛けた。
「そうね」
まだ赤より緑色の優勢な楓の木々を背にして、彼女は安堵した表情で頷く。
「随分歩いたわ」
彼女は青空を見上げて、両腕を伸ばした。
そんな格好をすると、この人は綺麗な白い顎をしていると改めて思う。
だからこそ、鮮やかに色づいた秋の風景を見せたかったし、その中に立つ彼女を見たかったとも思うのだが、こればかりはどうしようもない。
「お弁当の他にクッキー焼いてきたの」
彼女は微笑みながら、ビニルシートの上に次々と昼食を広げていく。
蒸れたおにぎりの海苔や揚げ物の油の匂いが立ち上る。
「口に合うといいけど」
正直、二人で食うには多過ぎる気もしたが、それが嬉しかった。
彼女が俺と過ごす時間のために、それだけ手間を割いてくれたのだから。
「あなたがずっと家に居てくれて」
俺は出来るだけさりげない風に言ってみる。
「こんな風に毎日作ってくれたらいいのに」
作ってくれなくても一つ屋根の下に居られたら御の字だけれど、それはまだ言わないことにする。
「知ってるでしょ」
彼女は目を落として寂しく笑った。
と、その目が急にこちらに向けられて、俺は射竦められたように固まる。
「私、バツイチなの」
こちらに挑むかのように言い切ってしまうと、また、寂しい笑いに戻って目を落とした。
「今は珍しくないって言うけど、自分がそうなってみると、やっぱり人様に言いたいもんじゃないわね」
彼女は傍らの魔法瓶を取り上げると、湯気立つ液体を蓋のカップに注ぎ始めた。
ふわりとした香りで紅茶と知れる。
オフィスの自販機ではいつもブラックのコーヒーを買っているが、家では違うのだろうか。
「お袋も、バツイチでした」
俺は話しながら、知らず知らずおにぎりや唐揚げをすり抜けて、クッキーの小山に手を伸ばしていた。
「というより、俺は本当の父親には会ったこともない」
チョコチップ入りのクッキーを一枚摘む一方で、空いた手で彼女の注いでくれた紅茶を受け取る。
「もしかすると、書類の上では、バツイチですらないかも」
魔法瓶入りのお茶って、どうしてこんなに熱いんだろう。
「遠足の時も、俺だけおやつは手作りのクッキーで」
皆にからかわれ、恥ずかしくて堪らなかった。
「お袋は不器用だったから、こんな綺麗には焼けなかったですけどね」
見てくれはともかく、少し甘過ぎる味付けは似ている。
「お袋が今の義父(ちち)と再婚してからは、暮らしも大分楽になりました」
苗字が変わると同時に、俺らは灰色のアパートから、ケーキの上の砂糖菓子みたいな赤い屋根の家に移った。
「あの人には、本当に感謝しています」
それから、いつ友達を連れてきても出せるように箱詰めのチョコレートや缶入りのクッキーを買い置きして常備してくれる代わりに、お袋は二度と手作りのクッキーを焼かなくなった。
「今の義父(ちち)がいなければ、俺はたぶん大学まで進めなかったし、今の会社にも入れなかった」
息子の就職まで見届けた後、春の昼下がりにソファの上で眠ったまま冷たくなっていたのだから、お袋の再婚生活は幸せだったはずだ。
あの人から電話を受けて、俺が駆けつけた時には、ソファ脇のテーブルに、飲みかけの紅茶のカップがまだ残っていた。
夫婦で買い揃えたセットの片割れだ。
風が木々の枝葉を通り抜けてざわめかせる。
音は遠くに聞こえるのに、体がすうっと冷えて、こちらに吹いた風なのだと初めて気付いた。
彼女の汲んでくれた紅茶を持つ手だけが、温かい。
「男の人って」
目の前の彼女は目尻に皺を寄せて笑っている。
「幾つになっても母親を求めるものなのね」
「そうかもしれないな」
チョコチップを奥歯で噛み締めると、苦くてしょっぱい味がした。(了)
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