ベルを鳴らすのは誰

 全く馬鹿な女だわ、四十にもなって。

 絹の水玉ブラウスをクローゼットに放り込み、枯葉色に褪せた上着に替えたマーサは、今度は洗面台に向かった。

 蛇口脇の小瓶を取り上げ、瓶の四半分まで残っていた美容飲料を流しに捨てる。

 顔に飛び散った雫を掌で拭うと、うっすら紅い跡が着いた。

 控えめに引いたつもりだったけど、ルージュを随分厚塗りしていたみたい。

 さぞかし、間の抜けた顔に見えたことだろう。

 マーサは蛇口を思い切り捻ると、勢いよく噴出した水に袖口が濡れるのも構わずに、両手に水を掬い上げて、顔を擦った。

 すっかり洗い落とした顔でレジに戻ると、幸か不幸か、客は誰一人来ていない。

 マーサは勘定箱を開いた。

 たくさんの五セント硬貨たちが顔を出す。

 刻まれた価値は同じはずなのに、ピカピカの新品もあれば、黒ずんだ古銭じみたのやら。

 へりに僅かに傷の入った一枚に目を留めると、化粧気の消えたマーサの蒼白い眉間に皺が刻まれる。

 ほんの二、三時間前にこのコインを手渡してくれたあの人は、貧乏画家などではなく、れっきとした建築技師だった。

 私の古パンは、単に製図の消しゴム代わりにされただけ。

 それを勘違いした私はパンにバターなど塗り込んでしまった。

 製図を滅茶苦茶にされたあの人は、今まで見たこともない形相で、若い同僚の男と一緒に飛び込んできたかと思うと、「お節介ババア」と。

――チリン、チリン。

 玄関からのベルの音に、マーサは弾かれたように大きく目を見開いた顔を上げた。

「あら、ヘンリー、いらっしゃい」

 入ってきた相手にマーサは笑って声を掛ける。

 現れたのは、まだ十歳にも届かない少年だ。

 この前までお母さんの胸でおくるみに包まれていたはずなのに、この子ももう学校用の鞄を肩に提げるようになった。

「マフィンなら、焼き立てのがそこにあるわ」

 女主人は穏やかに奥の棚を示すが、少年はいつもの様に取ろうとせず、後ろ手に立っている。

「お店、やめちゃうの?」

 ヘンリーは目を伏せたまま、ポツリと言った。

「どうして?」

 問われたマーサの方が驚く。

 どこかで廃業の噂でも立っているんだろうか。

 あの人がいくらご立腹だって、たかがよそ者の技師に地元の店一軒潰す力もコネもないはずだけど。

「結婚して、ここ閉めちゃうんじゃないの?」

 顔を上げた少年の目は潤んでいた。

「近頃、知らないおじさんがお店に来て、ずっとしゃべってるんだもん」

 呆気に取られたマーサを見上げながら、ヘンリーは押し殺した声で続けた。

「僕、あのおじさん、嫌いだ」

 店内が静まり返る。

「大丈夫よ」

 マーサはふくよかな顎を半ば二重にすると、声を上げて笑った。

 この子には、私がまだ嫁ぐ可能性のある女に見えるのかしら。

「しばらくは結婚の予定もないし、ずっとパン屋を続けるわ」

 少年の顔がパッと晴れた。

 丸い頬に笑窪が入る。

「それじゃ、僕、明日も明後日もずっとマフィンを買いに来るからね!」

 一息に言うと、少年は後ろに回していた手をさっとカウンターの上に出すと、リボンを結んだ真っ赤な薔薇を一輪残し、一目散に走り去る。

――チリチリン。

 慌ただしく鳴るベルと共に、扉は閉じた。

「また、どうぞ」

 お決まりの挨拶を口に出してから、あの子は今日は何も買って行かなかったとマーサは気付く。

 目の前に置かれた紅い薔薇を改めて手に取って眺める。

 動かすと、まだ蕾から咲きかけの花からは、どこか青さを残した香りがふわっと漂った。

 これ、大通りの花屋で売ってる薔薇じゃないかしら。

 開きかけた花の額のすぐ下に結ばれた、赤紫のビロードのリボンからマーサは推し量る。

 半月前、大通りのデパートに口紅を買いに行った時、花屋の前を通りかかった。

 店頭には緋色の薔薇が飾られ、傍らの黒板には白チョークで「あなたの大切な人へ一輪」と記されていた。

 値段までは正確に覚えていないが、五セントのマフィンを一日一個買うのがやっとの少年にとって、たやすく手に入る品ではない。

「どうして」

 四十歳のマーサは言いかけたまま、手にした花に結ばれたリボンを指の腹でそっと撫でる。

 レジに点した電灯の下で、赤紫のビロードは柔らかにうねりながら、どこか一箇所が翳れば、また別の一箇所が光を帯びるのだった。

――チリン、チリン。

 パン屋の玄関から再び響いてきたベルの音に、女主人は真紅の薔薇に頬を寄せたまま、笑顔で振り向いた。

「いらっしゃい」(了)


 *O.ヘンリー(1862-1910)の有名短編「魔女のパン」のその後を考えてみました。なお、O.ヘンリーの著作権は没後六十年以上経った現在は、法律上は失効しています。

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