あなたの温もり
――おやすみ。
あの人は、男にしては長い睫の奥の目を細めると、掌で私の額から顎に掛けてふわりと撫ぜた。
柔らかで温かな感触が通り過ぎるのに合わせて、こちらもそっと目を閉じる。
まるで催眠術だ。
閉じた瞼の裏の、乳色の靄じみた色合いを眺めながら、ふっと可笑しくなる。
この人が傍にいて温かな手で顔を撫でてくれるだけでこんなにも心が安らいで眠りにつけるなんて。
乳色の靄が白濁してきて体全体が温もりに包まれていく。
目を開けると、暗闇の中、天井に取り付けられた四角い電灯の形だけがほの白く浮かび上がった。
チク、チク、チク、チク。
静まり返った中、壁時計の秒針の動く音が僅かに響いてくる。
また、あの夢だ。
灯りの消えた青白い長方形の電灯を見詰めながら、毛布と布団で肩まで覆った体の奥が冷えていくのを感じた。
意識が鮮明になるほど、胸に次々重い現実が突き刺さってくる。
幸せな夢から醒めた時の常だ。
目尻からこめかみを冷たいものが伝って、耳の窪みに溜まった。
もう涙など、とっくに枯れていいはずなのに。
手の甲で両目を拭うと、擦れ合った部分全てが冷たく濡れる。
「フェーン」
唐突に、真綿じみた柔らかな泣き声が部屋の片隅で起きた。
反射的に私の半身が起きて、裸足の裏がひやりとしたフローリングの床に着く。
「フェフェフェーン」
ベビーベッドの主はいつの間にやら布団を跳ね除けて小さな手足を虚空にばたつかせていた。
「どうしたの」
問い掛けながら抱き上げると、ずしりと両腕に重みが懸かる。
この子はまた少し体重が増えたようだ。
「またおっぱい?」
夜目に壁時計を見やると、ミルクを飲ませて寝かしつけてから、まだ二時間と経っていなかった。
「どうして欲しいの?」
まだ言葉を持たない娘のベビードレスの背を擦ると、掌から抱いた腕まで温もりが伝わって来る。
グスン、グスン、と啜り泣きながら、赤ん坊は母親の胸に頬を寄せては来るものの、しかし、そのまま瞳も唇も固く閉じてしまった。
「もういいの?」
腕の中の温もりは答えない。
泣き出した時と同じように娘は唐突に寝入ってしまったようだ。
チク、チク、チク、チク。
静まった部屋の中、壁時計の秒針の動く音だけがまた幽かに響いてくる。
私は寝入った娘の頭をそっと撫でる。
体重ばかりでなく、髪の毛もまたすこし豊かになったようだ。
真っ直ぐだが柔らかな黒髪といい、閉じた瞼を縁取る長い睫といい、この子は本当に父親に似ている。
まだお腹に宿していた頃に、帰らぬ人になった、あの人にだ。
「おやすみ」
暗闇に紛らすように囁くと、二人きりの部屋がほんの少しだけ温まった気がした。(了)
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