明鏡は映し出す
「それでは、車に乗って」
宰相様が振り向いておっしゃった。
声音はいつもながらに穏やかだが、逆光で陰になったその顔は表情が読み取れない。
すっくと長い首を持ち上げ若竹色の絹衣の背筋を伸ばした姐さんの後について、あたしは罪人さながら俯いて馬車に乗り込む。
――この辺じゃ、あんな大きな馬、見たことないわ。
近所の誰かが囁く声が耳に届いた。
あたしだって、こんな立派なお車は見るのも乗るのも初めてだ。
しかも、こんなお妃様みたいな水色の
――二人とも、天女様みたい。
声の上がった方を振り向くのが怖い。
代わりに隣の姐さんに目をやった。
翡翠の簪を挿した黒髪が日差しに眩い光を返し、若竹色の絹の襟からは白く長い首がすっと抜き出て中高な横顔を見せている。
裾の長い衣は姐さんが気にしている(といってもそこまで酷くはないけれど)大根足をすっかり覆ってそよ風に靡いていた。
確かに、これは天女様だ。
足元を浸すような肌寒い風が通り抜けていく。
あたしも同じように裾の長い服を着てはいるけれど、どうにも落ち着かない。
「ヒヒーン」
席を陣取るあたしたちに尻を並べて向けている馬たちの一頭が、苛立った風に
車全体がゴトンと揺れる。
我知らず衣裳の胸に手を当てると、ヒヤリと滑らかな布の感触がした。
これは見た目には煌びやかだが、身に付けるとどこか捉えどころのない生地だ。
息をするたびに胸の下が締め付けられて苦しい。
姐さんの結んでくれた帯は少しきつ過ぎたみたいだ。
「では、出発!」
こちらの思いを打ち切るように車が動き出す。
単純に「動き出す」というより、車全体としては物凄い勢いで前に進みながら、あたしたちの座る席は激しく上下するといった方が正しいかもしれない。
さすがは馬だ。
人が力いっぱい駆ける倍は速い。
ふと振り向けば、私たちの家も、隣近所の人たちも、辛うじて見分けられるまでに小さくなっていた。
眺める内にもどんどん遠ざかっていく。
と、目の前がじわりと熱くなってぼやけた。
不意に後ろ頭を掴まれ、前に向き直らされたかと思うと、そのまま頭を下げる格好になった。
「私どものためにこの様なお車まで用意していただき、まことにありがとうございます」
隣で姐さんの静かな声がする。
涙目になったあたしの後ろ頭はしっかり押さえたまま。
「頭を上げて良い」
宰相様の苦笑い混じりの声がした。
それをしおに姐さんの手のつかえが取れて頭を上げると、周囲は完全に見覚えのない道に差し掛かっていた。
道沿いに柳の木が並んで枝葉を揺らしている。
道幅が妙にだだっ広いから、多分、これが都に向かう道なのだろう。
「
平生と違わぬ穏やかな宰相様の語調だが、こちらは着付けぬ帯の下から息を吐くのもやっとだ。
玉の
「二人とも誇りを持て」
西施姐さんとあたし。
共に育ってきたあたしたちは同じ
でも、そんなたかだか田舎娘の器量自慢がお国に役立つなんて大それた話になるとは自分でも思えない。
姐さんはともかくあたしは何やらせても不器用だし。
この衣裳だって、一人ではまともに着られなくて姐さんに着付けてもらった。
単に器量だけ見たって姐さんの方が上だろう。
従姉妹(いとこ)同士で小さい頃から似てるとよく言われたけれど、姐さんは素直に円らな目で、あたしは端の吊り上ったきつい目をしている。
姐さんは大根足だと気にしているけれど、あたしは手足が細い代わりに胸もお尻も薄べったい。
姐さんはもちろん、生まれた時から良い物を食べて育った都のお姫様方と比べたら、随分見劣りするんじゃなかろうか。
「そなたたちには生まれついての価値が備わっている」
宰相様がおっしゃるのだから、そう思うことにしよう。
青い紗の膝に滲んだ涙の跡をそっと指の腹で拭う。
この衣裳や髪飾りだって、宰相様があたしたちのためにそれぞれ揃えて下さったものだ。
こちらはこの身以外、何も持ち合わせていない。
「鏡のようだ」
急に感嘆する風に転じた宰相様の声に振り向いて、あたしは息を呑んだ。
走り抜けていく道の横に、大きな湖が一面に煌いている。
これは、普段あたしたちが魚採りや洗濯や泳ぎに行くのと同じ湖の一部だろうか。
それとも、また別な湖なのだろうか。
狭い村の中で暮らしてきたこの身には、そんな見分けすらつかない。
大きな鏡じみた眩い水面を眺めていると、その中から本当に天女様か恐ろしい化け物が出てくる気がした。
「吸い込まれそう」
呟いた姐さんを見やると、湖面の光をきらきらと宿したその潤んだ大きな瞳は、まがうことなく宰相様の陰になった背を見詰めている。(了)
*文中の宰相様は越の知将・
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