空に発つ前

「パパ、早く早く!」


 七歳の優一ゆういちは母親の隣から、父親を振り向いて空色の半袖Tシャツの手を振った。


 息子は母親に似るもんなんだな。


 家族三人分の荷物を入れたスーツケースを引きながら、すぐるは思う。


 太く縮れた黒光りする髪といい、いつも笑ったような細い目といい、固太りした体つきといい、優一は妻の美里みさとそっくりだ。


 ただ、桃色の勝った厚い耳たぶや男の子にしてはほっそりと長い手指を見ると、やはり自分の血筋だと思う。


 何度も洗って色がそろそろ褪めかけているのに、頑として、水色の服を着たがる好みも、父親譲りである。


“Quick, quick!“


 絹じみた金髪に白桃じみた頬をした白人の少年が甲高い声を響かせながら、すぐ傍を通り過ぎた。

 それぞれトランクを引いた白人の中年夫婦がその後に続く。

 夫婦の内、こちらに背を向けた妻は、体型こそ中年白人特有のぶよついた上半身をしていたが、髪は艶めいた金髪で、一見して、前を歩きながら朗らかに笑う少年の母と知れた。


 もし、莉香りかとの間に息子が生まれていたら、金髪ではないにせよ、あんな風に彫り深い顔立ちにスラッとした、そのままチャイルドモデルになれそうな美少年だっただろう。


 そう考えて、優は苦笑する。


 不毛な妄想はやめよう。


 もう、別れて八年近くも経つんだ。

 彼女とは最初から住む世界も違っていた。

 莉香の方では、こんな風に俺を思い出すこともないだろう。


――これで、もう、おしまい。


 青みの勝った薄茶の大きな瞳をサングラスで隠した顔で微笑んで告げると、柔らかに波打つ栗色の髪を垂らした背を向け、古ぼけたセピア色のトランクを引いて去っていった莉香の後ろ姿が浮かんで消えた。


 あれはフランス人だった母親の形見だと彼女は言っていた。


 一緒にお母さんのお墓のあるパリに行く約束は果たせないまま別れてしまったが、生きたビスクドールに見えた莉香の顔を思い出す度に、いつか行ってみようと思う一方で、頭の中にある遠い憧れの地に留めておきたい気分に囚われる。


「ここが一番後ろね」


 美里の声で優は我に返る。

 白人に比べると全般にずんぐりしている代わりに、極端な肥り方や急激な老け込みをしない分、日本人女性の方が中年以降は良いかもしれないと傍らの妻を顧みて思う。


「やっぱり、ホノルル行きは混んでるなあ」


 並んでいるのは、自分たちと似た様な家族連ればかり。そこに、たまに若いカップルが混ざる。


 夏休みにハワイ旅行なんて、ベタなもんだ。

 まあ、そもそも俺が行こうと提案したんだけど。

 夫婦で英語はさっぱりだけど、ハワイなら日本人が多いから子連れでも何とか安全そうだし。


 それに、俺らみたいな一般庶民にとっては、夏休みに家族でハワイって子供の頃の憧れだったしな。


 自嘲しつつ、優は他の航空会社のカウンターに目を走らす。


 どこも多かれ少なかれ並んではいる。

“Asiana Airlines”

 卒業旅行は、あれに乗ってソウルに行ったんだっけ。

“EVA AIR長榮航空”

 多分、中国のどっかに向けた便だろう。

“Air-France”

 あれは、パリ行きの列かな?


 次の瞬間、優は息を飲んだ。


 そこだけ古い写真の世界に変わったような、セピア色のトランク。

 その脇には、目も覚めるような鮮やかな空色のワンピースを着た少女が立っていた。


 彫り深く、それでいて瞳は大きくあどけない、幼女型のフランス人形じみた顔立ち。

 だが、髪は俺と同じ真っ黒な細い直毛で、しかも、透けるように白い顔に比してふくよかな耳たぶだけがほんのりとピンクに色づいて……。


 と、そこにサングラスを掛けた、ショーウィンドウを抜け出たマネキンのようにすらりとした長身の女が近付いてきた。


「遅いわ、ママ!」


 少女がほっそりと長い指をした小さな手を伸ばすと、女は娘の黒くあえかな髪をそっと撫でた。


「ごめんね、優香ゆうか


「パパ、ハワイ行きはこっちだってば」


 小さな手が、父親を動き出した列の中に戻した。(了)

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