パンドラのお仕事

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン……。


「ちょっと、おじさん」


 朝の満員電車の中、座っていた中年男は幾分挑発的な響きを含んだ声にスポーツ新聞から目を上げた。


「あたし疲れてるから、そこ、どいてくれる?」


 声の主は真っ直ぐな長い髪こそ鴉の濡羽色だが、フランス人形じみた顔立ちにはしばみ色の目、すらりと長い手足をした、一見して白人の血の明らかな容姿の少女だ。


 しかも、名門で知られる私立高校の制服を着ている。


「分かったよ」


 負けたよ、という風に中年男は立ち上がる。


 こちらは風貌も身に付けたスーツもくたびれ切っている。


 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン……。


 吊り革に捕まった男は揺られながら大きく欠伸をする。


“次は……”


 車内放送の声が途切れ、辺りが静寂に包まれる。


 中年男はむしろ体の揺れの止まった違和感にハッとした風に周囲を見渡した。


 乗客たちは蝋人形さながら動きを止めている。


「あはは」


 向かいに座った先程の少女だけが艶やかな黒髪を揺らして笑っている。


「今、一時的に時空を止めているの。だから、あたしと貴方以外にこの会話は聞こえない」


「何者だ、あんた」


「あたしの名はパンドラ。死神なの」


 細めた榛色の目の奥が光る。


「死神……」


「といっても、今時の死神は残りの寿命と引き換えに希望を叶えるビジネスパーソンみたいなものだから」


「そうか」


 ややあって、中年男は恐る恐る切り出した。


「私の寿命はどのくらいあるかな?」


 人形じみたパンドラの顔が無邪気に笑う。


「残念ながら、今日死ぬ運命ね」


「何てことだ」


 中年男は両手で我が顔を覆う。


「でも、あたしと取り引きすれば……」


 パンドラが言いかけたところで、相手はパッと顔を上げる。


「なあんてね」


 両手で覆っていた顔を上げると、中年男は彫り深い空色の目の青年に変わっていた。


「オーディン様」


 パンドラは榛色の目を丸くする。


 そうすると、一気に幼く見えた。


「死神を死神と見抜けないようじゃ、まだまだだな」


 車窓越しの空と同じ水色の瞳が少女の姿をした死神を見据える。


「どうしてこちらに」


 制服のパンドラは罰を恐れる生徒のように尋ねた。


「近頃、地獄も定員超過でな」


 満員電車の真ん中に立つ死神の上司は苦笑いする。


「しかも、やって来るのはヘトヘトに疲れきって懸命に働けば天国に上れるといくら聞かせてももはや信じない連中ばかり」


 青年の顔をした首を横に振る。


「現世でも裏切られてばかりだったのに地獄にそんなうまい話があるか、と口を揃えて言うんだ」


 少女の姿を見下ろす笑いはどこか哀しい。


「地獄に堕ちる連中にだって一筋の希望は必要なんだ」


 時の止まった朝の車両に冷厳な声が響く。


「お前たちにはきちんと仕事をしてもらわないと困る」


 *****


「じゃ、頑張れよ」


 立ち尽くすパンドラの肩を叩くと、碧眼の美青年から中年男に戻ったオーディンの姿はたちまち駅の雑踏に紛れて消えた。(了)

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