窓辺の猫

 ドン! ドン! ドン!

 叩く音ですぐあいつと分かる。

いてるわ」

 あたしが言うが早いか、扉がバン、と弾けるような音を立てて開いた。

「よう!」

 阿建アジェンは満面の笑顔で、膨らんだ紙包みを掲げる。

「今日は洋梨ようなし買ってきたぜ」

 中身が何でも、このにきびだらけの真ん丸い笑顔を目にすると、それだけで気持ちが晴れる。

「本当?」

 この前、一緒に店の前を通りかかった時にあたしが洋梨に見入っていたのをやっぱり隣で気付いていたのだ。

 ずいぶん物欲しい顔をしていたんだろうな。

 彼ははちきれそうな笑顔のまま頷く。

「さっそく、酒盛にしよう」

 *****

「これ、まだ早かったみたいだな」

 剥いた梨の最後の一切れを口に放ると、彼は苦笑いする。

「ちょっとね」

 答えるあたしの舌の上にも、青臭い甘酸っぱさが残っていた。

 洋梨を食べたのは初めてだが、これが食べ頃でないのは何となく察しが付く。

「よく確かめないで買ってきちゃったからさ」

 阿建は苦い笑いのまま、湯呑に口を付ける。

 その動作でいつの間にか湯呑の底にひびが入っていたと気付いた。

 今度、またこいつが来るまでには買い換えよう。

「次は、林檎りんごがいいな」

 たぶん、彼も食べたいはずだから、ねだってみる。

「この食いしん坊」

 彼があたしの額を指で小突いた。

「あんただって」

 すぐ近付いた彼の口から青っぽい洋梨の実の匂いがする。

 味と香りは一緒みたい。

薇薇ウェイウェイ……」

 彼の声が甘くなって、二人は口づける。

 *****

 一しきり抱き合った後、彼はあたしの枕を使い、あたしは彼の腕を枕に眠る。

 最初は逆だったが、彼は枕がないとよく眠れないらしく、自然とそうなった。

 阿建の腕は太くて柔らかいので枕に丁度いい。

 今日は疲れていたのか、隣からはすぐ規則正しい寝息が聞こえてきた。

 甘酸っぱい洋梨の匂いがまだうっすらと二人の上を漂っている。

 最初に聞いた通りの年齢ならば、もう二十歳はたちになるはずだけど、こんな風にして寝入っている横顔を見ると、阿建は十八にもなっていないといつも思う。

 あたしも本当は十六だと打ち明けていないから、彼の中では十九の女になっている。

 上海に出てこなければ出会うこともなかったけれど、田舎にいればつかずに済んだ嘘を二人とも吐き続けているのだ。

 一緒にいればいるほど、言いたくても口に出せないことも増えていく。

 本当は危ない橋など渡って欲しくない。

 上の兄貴分たちのようにならなくてもいい。

 舞庁みせに来る上の人たちを見れば、いくら身奇麗にしていようが、それが血塗られたものの上に成り立っているのは、あたしにも分かる。

 誰かが消されたと聞くたびにあんたじゃないかと背筋が寒くなるのよ。

 左腕の切り傷がまだ完全に消えてないのに、今度は右の肩にそんなに大きいあざが出来たのね。

 抱き合うたびに、あんたの体には新しい傷が付いている。

 窓に目を向けると、白と黒の斑猫ぶちねこが向かいのトタン屋根にうずくまってこちらを眺めていた。

 どこをねぐらにしているのか知らないが、近頃、よく見掛ける猫だ。

 阿建が来る晩には、決まってお向かいの屋根に陣取っている。

 と、猫はやおら立ち上がって、パッと駆け出した。

 不思議なもので、薄闇の中を遠ざかっても白と黒がぶつかり続けて、決して一つの灰色に融け合わない。

 どこかの屋根の影にでも隠れたのか、白と黒の小さな点は同時に消えた。

 *****

「今日は、早いのね」

 目を覚ますと、阿建はすっかり上着まで纏った格好でベッドに腰掛けていた。

 顔だけはあたしを振り向いて見下ろしたまま。

 彼の方が先に起きたのは初めてだ。

「ああ」

 頷くと、阿建はあたしから目を逸らして、おもむろに靴を履き始めた。

 寝起きの彼はもともと口数が少ないが、今朝はどうもそれとも違う。

 窓辺からは人力車の車輪が路地をカラカラとゆっくり過ぎていく音が聞こえてくる。

 それ以外は静かなので、いつも二人が目を覚ますより、ずっと早い時刻だと知れた。

「最近、忙しい?」

 屈んだままの彼の背中は答えない。

 いつもと同じ、毛羽立ったねずみ色の上着を羽織ったその背が妙にだだっ広く見える。

「ごめん、もともと暇じゃないわよね」

 窓の外から車輪が路地をガラガラ忙しく通り抜けていく音が響いてきた。

 そんなに急いで、どこに向かっているのだろう。

 ややあって、背を向けたまま彼がぽつりと呟く。

しばらく、来られない」

 *****

 あれから一月。

 まだ一月なのか、もう一月なのか。

 とにかく組織の命で旅に出た阿建はまだ戻らない。

 あいつの為に買った新しい枕を抱きしめながら、あたしは今日も一人、眠れぬ夜を過ごす。

 窓の外を、白と黒の斑猫が音もなくまた通り過ぎていく。(了)

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