第26話 佐賀県知事の有事
佐賀県庁では一郎が待っていた。
「お父さん……」英章は、理沙に一郎の話を結局していない。しかし、その方が良いとも思っていた。
「理沙、今日は宜しく頼むよ」
「お父さんが、先生に頼んだの? 私全然聞いてなかったわ」
「ごめん、ごめん理沙、でも、いち兄は、今日はあくまでも、県議の立場としてここにいるんだから、あんまり気にしすぎないようにね」
「……」理沙は腑に落ちないような顔をしていたが、英章は、あらかじめ理沙に話せば、一郎の思いを一心に受けとめようとするだろうと思った。それは、もちろん、やる気にもつながるだろうが、必要以上の責任感と負担をもたらすのではないかとも考えた。一郎の願いは、涼子の願いでもあるのだから。
「事前に話しておく事はないのか? 俺達が聞いたのは、佐賀県の組織運営に協力してほしいと言う話だけだが……」
「そうだな……。直接知事と話してもらう方が良いだろう。もちろん、案を出したのは私だが、知事の協力が無ければ意味が無い。先入観なしに話しをしてもらった方が良いと思う――例え、私の案と違いが出てきても、きっと両者の間で同意が取れた案が、最も現実的なものになるだろうからね」
「本当に、それでいいのかい、いち兄……。ずいぶん綿密に計画を立てていたんじゃないのかい」
「もちろんだ。しかし、プレイヤーは君たちだ。私は大筋で目的地の方向へ進んでもらえれば十分だ。何も、私が立てた道筋通りに進む必要はない。それに、君たちは、私と同じ方向に考えてくれると信じている。君たちの判断は、きっと正しいだろう」
「ふん、随分と信頼されたものだな。飯盛一郎、あんたは、俺の事をどこまで知っていると言うんだ?」
「理沙のお友達だろう? それで充分じゃないか」
「……」鍋島は、珍しく反論しなかった。
「本筋に関わる事だが、指示通りに動く人間はこの計画には必要無い。もちろん、非同期に動きまわる人間が集まっても意味は無い。従来の組織感覚の外側にいる人間が必要なんだ。宜しく頼むよ、経斎君」
「……」
「鍋島、返事はしなさい」いつもは、鍋島の言動に肝要な英章だったが、ここは、公の場で、理沙の父親と言っても、相手は議員だ。自分の意見があって、主張するのは良い。しかし、礼を失っては、日本人とは――佐賀県民とは、呼べなくなってしまう。『いひゅうもん』であるのはいい。しかし、『ふうけもん』は、相手の懐が深くて初めて生きる場を与えられるのだから。
鍋島はしばらく横を向いてその切れ長な目を細くして、何かを睨みつけていたが、やがて飯盛一郎のほうを見ると、素直に返事をした。
「はい……」その姿に一番驚いたのは理沙だった。鍋島は何事もなかったように、また元の調子で話し出した。
「しかし、とにかく、受けるかどうかは、知事の話を聞いてからだ」
「もっともだね。じゃあ、早速、知事のところへ案内しよう。知事は心の底から、佐賀を――日本を愛している人だ。きっと、有意義な時間になると思う。頑張ってくれ」
一郎の後を英章と理沙、鍋島の順に縦に並んで歩く。
佐賀県庁は自由な空間だ――と言うよりもセキュリティーが、がばがばだ。開かれた県政を目指しているからだと言う事らしいが、その気になれば、誰もが各部屋に、誰にも会わずに侵入する事もできる。これが是正されていない理由は、きっと、佐賀が平和な土地だからだろう。英章達も少し困惑する程、すいすいと庁舎内を進んでいたが、県知事室には、それなりにセキュリティーがある――訳でもなく、大した手続きもしないまま、英章達は知事室の扉をノックした。
「知事、お連れ致しました」
知事室は濃い茶色を基調とした、重厚な造りで、英章達は、初めて訪れたがのだが、テレビや新聞記事で見た事のある部屋だとすぐに気が付いた。
「座ってくれたまえ」大きな机の席に着いたまま、知事は書類に何かを書き込みながら、顔も上げずにそう言った。英章達には知事がどんな仕事をしているのか、想像もつかないが、きっといつも、忙しく過ごしているのだろう。何と言っても、県知事と言うものは、当たり前だが、県に一人しかいない。当番制で、誰かが変わってくれたりはしない。とりあえず、応接用の椅子に座ると、英章達は黙ったまま、知事を待った。
十分ほど経ったころ、理沙がそわそわし始めた。そして、急に立ち上がり、部屋の壁をしげしげと見つめながら、そのまま部屋を一周し、やがて、知事室の窓から見える、佐賀の景色を眺めだした。
鍋島は、一郎と英章が理沙を咎めるだろうと思って様子を見ていたが、二人とも、黙ったまま、ただ、知事を待っているだけだった。
「やあ、やあ、お待たせいたしましたね。あなた達が日和花道のメンバーの方々ですか」そう言うと、知事は、一郎の前の席に着いた。知事の声を聞いて、窓際にいた理沙も、小走りで駆けて来て、英章の隣に座った。
「実は今、例の地域振興券の運用を始めるに際して、大わらわでしてね」
「地域振興券と言うと、十年前ぐらいに発行された、あれですか? 結構、効果は有ったって話ですよね」
「確かに、デフレ景気対策に効果はありましたけどね、構造的な対策では無く、応急処置的なもので終わってしまいましたね――県民一人当たり二万円程の拠出を国が行うんですが、地域振興券の印刷と、運用、宣伝にかかる費用だけで、ほとんど、飛んで行ってしまいそうですよ」
「なるほど、そうなんですね。もったいない話ですね」
「はい……さて、早速ですが、お話を伺いたい。今の県政をあなた達はどう思いますか?」
「偉そうだな」
「え?」
「偉そうな人間と、偉い人間は、必ずしも一致しないと言う認識だったが、そうでもないんだな」鍋島が、早速知事に噛みついた。鍋島は、基本的に権力者が嫌いだ。しかし、知事は余裕を持って笑顔で答えた。
「ははは、確かに……。鍋島君は、偉くないのに、偉そうだしね」
「……」鍋島に反撃して黙らせたのは、英章達が知る限り、知事だけだ。それなりの人物と言う事だろう。
「わかった、ざっくばらんに話をしよう。これから言う事は、知事としての話だとは受け取らないでくれ、佐賀県知事は、佐賀県民の民意を反映させる義務があるが、それから、少し外れる内容も含まれている」英章達はただならない雰囲気を感じて、黙って知事に注目した。
「そもそも、民意とは何だろうか……私は、全ての県民の為になる仕事をする事だと思っていたが、そうではなかった……。私は、一番の得票数を得て、佐賀県知事になった。とは言っても、投票率五〇パーセントのうちの、獲得票数五〇パーセントに過ぎない。その中で一番大きな組織票を持っているのが、私の支持団体だ」
「十分な数だと思いますけど……足りませんか?」理沙は率直にそう思ったので、そう話した。
「ありがとう。そう言って頂けると、救われるよ……。知事になったら、佐賀県の事を考えて仕事をするつもりだった――もちろんそうしている。だが、限界もある。私の個人の能力としての限界ならばしょうがない。どうしたって、人間と言う枠組みからは抜けられないのだからね。それに、能力の限界とは戦う事が出来る。今までの能力を超える努力をする事はできる――」
「限界とは、支持団体の圧力からは逃れられないと言う事か」
「鍋島……言葉が過ぎるぞ」英章は少し低い声でたしなめた。しかし、鍋島は意に介していない。いつもの通りの鍋島のままだ。
「いや、構わない。但し、オフレコでね」そう言うと知事は微笑んだ。「そう、そうの通り、民意と言うものは、県民の総意ではない。選挙権を持っている人の内、選挙に行った人の、私に投票してくれた方達の中の、一番大きな団体の総意にすぎないのさ。しかし、それから逃れる事は出来ない。それは法律上の民意に背く行為になる。私は悩んだ、そして、打ちひしがれた。私では彼らを説得する事が出来なかった。もちろん彼らの言い分は正しい。だが、足元しか見ていない。もう県内で争っている時代ではないのだ。県が一丸となって、国を飛び越えて世界と戦える佐賀県を作る事が急務なんだ。このままでは、ジリ貧を辿っていくだけ……。自分達の身の保身を考えている事が、結局自分達の首を絞める事になると言う事に気が付かない。ちょうど、その頃、飯盛議員の提案を聞いたんだ」
「それは、私から説明した通りだ。佐賀県の組織を一本化し、縦割りの国の組織と一旦切り離す。国との窓口はひとつとし、一つの窓口で受け取った、全ての事案と、全ての予算を、全てバラして、また組み立て直す。そして、最も効果の高い施策と予算を再配分する。県内の組織も全て解体して、ひとつにまとめる。農業も、林業も、漁業も、それぞれ、ひとつの商品として、営業部がまとめて販売する様なイメージだ。売る者、買う者、作る者など、単純な枠組みだけを作り、細かい役割をあえて作らず、総合力で県外と折衝していく。県の組織だけではない、今は無くなってしまったが、昔は、大企業が、周りの中小企業を育てていた。今は、そんな余裕が無くなってしまったんだ。逆に、中小企業から搾取する側に回ってしまった大企業も――しかし、それは政治の責任でもある。だから、その代わりを県が行う。県が、最大の大企業として、県内の中小企業や小売店を育てる。もちろん、県内で競い合うだけじゃなく、世界と戦うための協力者としてね」
「あらかじめ、聞いていたので、考えていたんですけど……これって、法的に問題が多いんじゃないですか? それに、県の運営は税金で賄うわけだし、一部の人間で大きく変えてしまうわけにはいかないでしょう」
何故か、英章の問いに鍋島が答えた。
「大野英章らしい真っ当な考えだが、いつでも真っ当な意見が正しいわけではない。有事には超法規的措置が取られる。そうでなければ対処できないからだ。今、知事は佐賀県が置かれた状況を有事と捉えていると言う事だ。だから、法律を犯さず、有事の対策を取ると言う飛び道具を考え出した……と言うわけだろう」
一郎の表情が和んだ。鍋島の答えはどうやら一郎と一致していたようだ。英章が鍋島に――お前が答えんな! と突っ込みを入れようとしたが、場の雰囲気を読んで引っ込めた。
「経斎君……その通りだ。理沙は面白いお友達を持ったね――知事や我々は、民意を裏切る事は出来ないし、法律を犯す事も出来ない。民意を得る為の方法は、私が準備を行っている。知事はもちろん正真正銘の民意を受けた人だが、団体の影響があるのも確かだ。それに対抗するのにも、民意によってでなければならない。つまり、議会だ」
英章は飯盛一郎が話していたことを思い出した。
(佐賀県議会を無所属で固めたい……この事か…)
「団体の影響と相対するために、県議は、どの団体にも属さない、無所属議員で構成するんだ」
理沙は、話の内容をよく理解できなかった。しかし、大の大人たちが、一生懸命に考えた事を、一生懸命に話している姿は彼女の目に好意的に映った。
(大人って――大人っぽい人を言うのだと思っていた――春日さんの様に……。春日さんは、立ち振る舞いも素敵で、私みたいに大きな声で笑う事もしなくって、いつも冷静で、声を荒げて怒る事もなく……。でも、この人たちは違う――何と言うか……子供だ、子供なんだ。偉そうに、難しい事ばっかり言っているけど……目が、子供っぽいんだ)
「知事、一郎さん、お話は、分りましたよ。そろそろ、僕が、僕達が県政をどう思っているか、お話ししましょう――と言いたいんですが、正直言って、良くわかりません。県の運営は、県の偉い人が、僕達には理解できないような事をしているのだろうと思っていました。でも、違うんですね。そりゃそうですよね。どんなに偉い人でも、同じ人間なんだから、ボルツだって、とんでもなく速く走るけど、僕だって半分ぐらいの早さなら走る事が出来る……。僕たちの仕事は、県の仕事を、県として行えない部分の代わりをやればいいって事ですよね」
「どう言う事? 私わかって無い。全然わかってないよ!」
「分った、引き受けよう。但し、やり方はこちらにすべて任せてもらう。口出しは無用だ」
「ちょっと……鍋島君!」
「もちろんだ。それに、まずは、次回の県議選を勝たなければ……私の仕事が先だ。これから、宜しく頼む」
「ちょっと、お父さん! あ、いや、飯盛議員、私はまだよくわかってないよ。私は何をするの?」
「ははは、理沙さん、お父さんで良いですよ。親子なんですから」
「理沙……大丈夫だよ、理沙。多分、お前はもう良くわかっているはずだ。それに、お前の心の中にはお母さんも一緒にいるだろう? 自分の心の思うように、二人と力を合わせて一生懸命に頑張れば、何も心配はない」
「お父さん……私、私頑張っていないかな? みんなに頑張れって言われるけど、私は頑張っているつもりなの。でもね、いつまでも、私だけこんなに子供で、何にもできなくて……」
英章は、理沙の肩に手を置いてゆっくりと話した。
「理沙、大丈夫。でもね、少し勘違いしているよ。頑張るのは普通の事だ。誰だって、何かしら頑張っている。頑張っているから、頑張ってと言われると辛いんだ。何にもしていないと思われている、ニートと呼ばれている人たちだって、実は頑張っている。一生懸命に生きて行こうとしている。ただ、それを、自分で認める事が出来ないんだ。頑張っているかどうかを決めるのは、人じゃない。自分なんだよ。だから、自信を持って、真っ暗な階段でも、一段一段上がっていけば、絶対に光が差す所に辿り着く。子供で良い。子供なんだから」
「先生……。私、頑張れているかな?」
「知らないよ。僕には理沙の心の中を決めることはできない。でも、これから、一緒に頑張ろう。それで良いんじゃないの?」大野は、理沙の肩に手を置いたまま、左手をポケットに入れると、飴玉を取りだして、理沙に握らせた。理沙は、くすりと笑うと、目頭を手のひらで押さえ付けた後、姿勢を正して知事の方を向き直した。
理沙の笑顔を見て、英章は安心した。そして、決意に満ちた目で改めて知事を見つめ、低くて力強い声で話し始めた。
「知事、もう始めますよ。選挙の結果がどうであろうと関係ないですよ。だって、強い佐賀県を作るって――要は、素敵な佐賀県民を育てるって言う事でしょう? それは、勝厳寺の願いでもあり、日和花道の目的でもあるんです。それに……もう育ってきているみたいですしね」
「ありがとう、確かにそうだね。これからも、宜しく頼みます」
「こちらこそ――そこで、早速、お願いなんですがね、ちょっと会いたい人がいるんです……」
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