願い事

柳佐 凪

第1話 飯盛理沙

 この小道の、静けさが好きだ。父親からは、人通りの少ないこの小道を通らず、少し離れた大通りを歩くようにと、口酸っぱく言われていた。もちろん、薄暗くなったら言われたようにしていたけれど、今日は部活が休みだから、久しぶりに早く帰る事が出来たので、この小道を選んだ。


 少し冷たく、しんとした空気。時折、風が吹いて竹の葉をこする音が、ざわざわと騒ぐ。両脇の民家と竹林から、竹が頭を垂れる稲穂の様に覆いかぶさって、まるで、空から見えない様に、この小道を隠しているようだ。

 敷き詰められたとは言い難い、もうしわけ程度の石畳にコツコツと音をたてながら、理沙りさは姿勢を正して歩き出した。足音に合わせて小気味良く、短いチェックのスカートが跳ねる。

 理沙は、この小道を歩いていると、とても懐かしい気持ちになる。しかし、ぼんやりとした記憶は、あと、もう少しで映像になりそうなのに、途中で掻き消えてしまう。幼い頃の、母との思い出が浮かびそうになり、しかし、消えて行く……。

 リズム良く歩く理沙に向かって、また風が吹いた。小道の奥の方から、また、ざわざわと葉をこする音が、急に加速しながら近付いて来たかと思うと、さっきよりも強い突風が通り過ぎ、後ろで一つに束ねた理沙の髪をなびかせた。思わずスカートを押さえて、その場にしゃがみ込んだ。

 周りには誰もいないはずだが、理沙はしゃがんだまま、改めて周りの様子を伺った。突風が過ぎ去った後には、何事も無かったかのように、さわさわと心地よい風が吹いているだけだった。

(大丈夫だ、誰もいない)

 思った通り、周りには誰もいなかった。ほっとして立ち上がろうとした時、ふっと、近くにあった石の塊に視線を奪われた。

(小さな頃から何度も通った事のある小道に、今まで気が付かなかった物があるなんて――)

 小道の脇に、小さな祠があった。正確には、祠だと気が付くまでには、しばらく時間が必要だったのだが、それほど古ぼけた、石の集まりと言った方が良いものだった。とは言っても、今日の今日まで気が付けなかったのが信じられない程の存在感を放っていた。

 理沙は、風に乱された長い髪を直しながら、恐る恐る祠に近付いた。石で作られた祠は、あちらこちらにヒビが入り、苔で覆われている。まさか今日や昨日に作られたものではなく、よくはわからないが、作られてから百年や二百年は経っているようにも見える。手入れはされておらず、泥や枯葉がこびり付いていて、数年は手付かずと言った佇まいだ。

 理沙は、押さえたスカートから手を離し、祠の泥を右手で払った。

「大願成就――」

 風化しているが、理沙にはそう読めた。

「願い事を聞いてくれるのかな?」

 理沙は、どうして今まで、この祠に気がつかなかったのかと言う事も忘れ、素手で泥や埃を取り除きはじめた。今は亡くしてしまったが、きれい好きだった母の気質を受け継いだ理沙にとっては格好の獲物と言って良いほど、それは掃除魂を刺激した。

 素手では埒があかないと判断し、立ち上がって辺りを見回した。竹林から、おあつらえ向きの竹の枝を集め、竹箒のようにして、祠に積もった枯葉を払い落とし、周りの枯葉と一緒にかき集めた。竹の小枝を竹串のようにして、こびりついた泥を、少しずつ、丁寧に落として行った。まるで、テレビで見た事のある、考古学者の発掘作業の様だなと思い、ニヤニヤしながら作業に没頭していった。

 どれぐらい経っただろうか、日も傾きはじめ、あらかた掃除が終わると、祠の印象も随分変わってきた。古びた石の塊から、神聖な物へと姿を変えた。理沙は大層に満足して、もっとじっくり鑑賞しようと、祠から少し離れて眺めてみた。

 自分の掃除によって、この祠が元来持っていた美しさを引き出す事ができたのだと感じ、自分の手柄に酔いしれた。

 今度は、祠に向かって足をすりながら小走りに駆け寄ると、細部をつぶさに観察した。多少、行き届いていなかったところを、竹串でこすりつつ、作品の完成を楽しんだ。

 改めて見ると、祠の正面の平たい石が、実は扉であった事に気が付いた。そして、その扉は少し開いていて、扉の奥には何か小さな姿をしたものが覗いていた。

「神様――なのかな?」

 体を屈めて中を見てみた。地面から三十センチほどしかない小さな祠なので、かなり頭を低くする必要があった。左手で地面を支えて体を倒す。ひとつにまとめた黒く長い髪が地面に垂れた。窮屈な姿勢でやっと奥の方が見えたかどうかと言う時、背後に気配を感じた。

「お嬢さん、何かお探しですか?」

 理沙は、弾かれたバネのように飛び上がり、勢いよく振り向いた。黒いスーツを着た男が、いつの間にか、すぐ後ろに立っていた。理沙は男の目線を避けるように少し俯き、さっきまで地面を支えていた泥だらけの左手で、つい頭を掻いた。

「あの……いや、おさがし、オサガシ? お探しではありません。えーと、あの……ど、どちら様でしょうか?」

「ああ、失礼致しました。その祠の――関係の者でして、何か御用事かなと……」

 スーツの男は物腰柔らかに訊ねてきた。明るく、さらりとした茶髪をしている。今をときめく人気俳優の顔が思い浮んだ。理沙はどちらかと言うと奥手の方だ。親友のトモカからも恋愛音痴だといわれた事があるが、どう言う訳か、恋愛の相手には向いていなさそうな、チャラい男に弱い。

 理沙は、まだ頭に付いた泥にも気が付かないまま、慌てふためいて素っ頓狂な声で返答した。

「そうなんですね! すみません、つい気になって勝手に掃除なんかしたりして……きっと、貴重な物なんですよね? そうですよね。そうに違いないわ。私ったら、本当に――ごめんなさい……。私、バカだから、何にも考えないで――でも、壊したり傷つけたりとか……あ、ちょっと角が欠けちゃったりしたんですけど、きっと直ると思うんです。ですから、あの……」

「いやいや、手入れが行き届いていないのは、お恥ずかしい事で……。最近は、あなたの様な人はいないものでね。お嬢さん、よろしければ、また、掃除をしに来てくれませんか? 申し遅れましたが、私、神なんです。この祠に祀られているんですが、扉が閉ざされてから、出てこられなくなってしまいましてね。あなたの様な方を探しに行く事も出来ず、困っていたのです。私の願い事を聞いてくれるのなら。私も、お礼に何かひとつぐらい願い事を聞きますよ」

「ああ、そうなんですね……。よかった、てっきり怒られるものだとばかり思って……。私なんかで良ければたまに掃除に来ますよ。私掃除好きなんです!」

 理沙は自分が悪い事をした訳ではないと言う事に安堵しただけで満足してしまい、話の内容については、どうやら全く聞いていない。両手で、ぱぱっとスカートの埃を掃うと、さようならと深くお辞儀をして、自宅の方へ向かって小走りに駆け出した。

 本当に驚く事になるのは、家に着いた後の話だ。 


 すっかり日は暮れてしまった。遠くの空が赤く染まっている。太陽が沈んだ後の、あの赤い空は、『こやけ』と言う事を理沙は知っていた。母親の涼子から、理沙がまだ幼い頃に教えてもらったのだが、教えてもらった事自体は忘れてしまっているらしい。丁度、この小道を二人で歩いていた時の事だったが、もの心が付いたばかりの理沙に、全てを覚えておけと言うのは酷な話だ。息を切らしながら、幼い日に歌った歌を口ずさむ。「夕焼け……小焼けで……日が暮れて……」赤から藍色へと色を変える空の下、早足に帰途を急いだ。程なく家に辿り着くと、玄関の鍵を差し込み、扉を開いた。誰もいない家の照明を灯すのは理沙の役目だった。母親である涼子りょうこが亡くなって、もう七年も経つのだが、この役目にはまだ慣れない。父親の飯盛いさがい一郎いちろうは佐賀県の県会議員をしている。議会が開かれていなくても、家に帰って来るのは早くて午後十一時過ぎだった。

 洗面所で汗のにじんだ制服を脱ぎ、父親の着替えの仕度を済ませると、鏡に写った自分の顔を見ながら、理沙はなんとなくだが、こう思っていた。急がしく東奔西走している父親はきっと理沙との約束を果たそうとしているのだと。母が事故で亡くなったあの日、理沙の父は、母の最期に間に合わなかった。声を荒げる理沙に向かって、彼は言った。必ず総理大臣になってみせると。

 理沙は、自分の父親が総理大臣になる事など毛頭望んではいない。父には、ただ傍にいて欲しいだけだった。母の、そして自分の。しかし、そうとしか出来ない人であると言う事も知っていた。

「お母さんに会いたいな……」自然と、親を亡くした子供ならだれでも願うだろう一番の望みが、口からこぼれ出た。

 洗面台で泥の残った手を洗った。鏡を見て初めて頭に泥が付いている事に気が付いた。何でこんな所に……と思いながら今日会ったスーツの男の事を思い出していた。

(関係者だとか言っていたけど何だかわからない事を言っていたなあ。それにしても、あの祠は何なんだろう。願い事が叶うような事が書いてあったけど本当かな?)

 ――もし、願い事が叶うのならば父を総理大臣にしてあげたい。総理大臣の父親が欲しい訳ではなく、彼の、母と理沙に対する贖罪を果たすために……そう心の中でつぶやいた。

「お父さんを総理大臣に!」思わず拳を高く突き上げた。ノリ易い性格なのだ。

 誰もいない家の洗面所に、理沙の声だけが響いた。下着姿で盛り上がっている自分の姿をうつした鏡が目に入り、虚しく拳を下ろそうとした時、理沙の体が凍りついた。

「願い事を叶えてあげるよ」

 挙を突き上げた理沙の姿を映す鏡に、スーツの男が微笑んでいた。理沙は、またもや、バネのように飛び上がり振り向いた。驚きと恐怖で声も出ない。とにかく落ち着こうとした。しかし、どだい無理な話だ。

「僕の願い事は、取り敢えず落ちついて欲しいって事だけどね」スーツの男はそう言ってクスリと笑った。どうやら冗談は下手らしい。

「な、何なんですか!」そう言うのが斉一杯だ。スーツの男は平然として意に介さない。

「勝手に家の中まで入って来たのは気にしないでね。分かっていると思うけど、さっき話したように僕は神なんだ、願い事を叶えに来たよ」

 理沙は、事の次第を理解するのに時間がかかった。いや、理解したのかも分からない。とにかく、目の前に急に現れた人間がいる以上、それなりの対処が必要だ。いや、人間ではなく、神だ。

「でも、あれだよ。掃除には来てよ。また出られなくなるし――そう、久しぶりだから、お腹空いたなあ。何か食べる物ない? 僕に供えなよ」神様は、左手で壁に手をつき、馴れ馴れしくそう言った。祠で出会った時に比べると随分横柄な態度だ。理沙は、『僕に供えなよ』と言う日本語が存在する事を初めて知った。

「ご飯はこれからですけど……神様ってパスタとか食べます?」

「食べます、食べます、アルデンテでお願いね!」

「アルデンテ……」

「それから、料理をするなら服を着た方が良いよ。そのままエプロンでも、もちろん構わないけどね」

「え? ええっ?」

 やっと、自分が下着姿のままだった事を思い出し、目の前にいる神様らしき男の腕の下をくぐり抜け、階段を駆け上がり、二階の自分の部屋に飛び込んだ。

 

 神様は、いただきますと手を合わせると、フォークを右手に取り、マナー講師のような優雅な振る舞いで、あっと言う間にパスタを食べ終えた。

「ごちそうさま――さて、君の願いは、しかと聞き入れた。じゃ、ま、そう言う事で」

「は?」あっけに取られて開きっぱなしの口から出た声は、思ったより大きくなった。

「願い事って何ですか――と言うか、あなたは一体何者? 何しに来たんですか! そうですよ、なんだか、混乱しちゃって、流れに任せてパスタまで用意しちゃいましたけど、不法侵入ですよ! 警察に電話しますよ!」

「は? ってこっちのセリフだよ。掃除してくれたお礼に願い事をひとつ叶えてあげるって言ったでしょ?」

「そんな事って……じ、じゃあ、お父さんはもう総理大臣になったんですか?」

「なってないよ」自称神は当り前の事を話す――相変わらず平然と「とにかく、頑張ってね」

「がんばるって何をですか?」頑張ってと言う言葉は、最大限の声援に聞こえるが、時に、最も無責任な言葉でもある。

「それは、自分で考えて! あ、言っておくけど今、この瞬間にお父さんを総理大臣にする事もできるよ! 私の実力をもってすれば当然さ! 神なんだから。でもね、面倒くさいんだよ。そうすると、色んなものを書き変えたり、今の総理が初めからいなかった事にしたりとかね。お父さんを総理大臣にしたいのなら、自分でプロセスを踏むしかないでしょう。お父さんが総理大臣になるためのプロセスを」

「プロセス――って何ですか?」

「プロセスは工程とか過程の事だよ。順をおってゴールまでやっていく事。プロセスハムとかプロセスチーズとかのプロセス」

「そんな事はわかっていますよ! そうじゃなくて、その工程とか、過程の中身ですよ」

「ああ、先ずね、例えばヒツジの場合ね」

「執事の場合ですね?」

「うん。搾り立てのミルクを、乾燥させた胃袋に入れて丁寧にもみ続け……」

「それってチーズを作っていませんか?」

「うん、作っていますけど? でも、プロセスチーズは工場で作るから羊の胃袋は使わないのかな……どう思う?」

「はぁ」こんなに深い留め息をついたのは久し振りだ。「お父さんが総理大臣になるためのプロセスを教えて下さい! チーズではなく!」

「――君は間違えているな。私が叶えるのはお父さんの願いじゃない。君の願い事だよ。僕にとっては一石二鳥だし――お父さんを総理大臣にしたいのなら、君がお父さんを総理大臣にするためのプロセスを考えなよ」

「私が……お父さんを――」

「うむ。では、じゃ、ま、そう言う事で」そう言うと、自称神は、消えてしまう――訳ではなく、玄関で革靴を履いてから出て行った。

 



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