第2話 英章
僕は、この景色が好きだ。見渡す限りの田んぼ。伸び始めた苗が、ようやく、風の軌跡を見せてくれるようになった。秋になれば、黄金色の稲穂が勇壮な風のダンスを見せてくれる。ここで育った人は、風を見た事があるかと問われれば、きっと、全員がイエスと答えるだろう。でも、まだまだ、青々とした稲が、じりじりと照り付ける太陽をいっぱいに受けようと、一生懸命に背伸びしている様子で、一面の黄金色の風景を見るには、まだまだ時間がかかりそうだ。
「英章さん、どこのお寺も同じだよ、商売っ気がある和尚さんは少ないんだ」
二つの寺は借金で苦しんでいた。いや、それ以外にも、知り合いのお寺はほとんどが同じような状況だった。英章はお金の事を考えると、自分が
英章は、あまりの暑さに耐えかね、一時の涼を求めて辺りを見回した。太陽が真上にあるので、境内に日陰と呼べるものは、大きく枝を張り出した楠の下ぐらいしか見当たらない。和服の袂から扇子を取りだし、パタパタと仰ぎながら大きな楠の下へ歩いていると、滴り落ちる汗の一滴ごとに、悶々としたお金の問題があふれ始め、ついには独り言となって口から出てきてしまった。
「ぬわぁ、あっついなぁ。汗はどんどん出てくるのに、お金は全然出てこない。何故、みんな、こんなにお金が無いんだろう。お寺って必要だよね? 必要なのに、何故、無くなりそうなお寺がこんなにあるの? なんかおかしいんだよなぁ。何がおかしいんだろう、わっかんないなぁ」
英章は、楠の幹の寄りかかり、そのまま背筋を伸ばして見上げる様に首を伸ばした。大楠の茂った葉の隙間から木漏れ日が差している。湿度が高いので、日陰に逃れても、涼しさを感じる事はない。ずいぶん昔に、修学旅行で行った京都は、盆地だから夏も暑いと聞いていたが、実際は、日陰にいればずいぶん涼しく感じた事を思い出した。夏も暑いと言っているのは、きっと、京都よりも東の人たちなのだろう――と思いつつも、日向よりは、木陰の方が随分ましだった。
大きな楠は佐賀の名前の由来にもなっている。古事記よると、
英章は勝手に大楠の慈愛を感じながら、その枝振りを驚嘆とともに見つめていた。(随分遠くまで枝を張り出しているのに、よくも折れてしまわないものだなぁ)
英章の視線は、枝を辿ってその先端に向かって行った。すると、その先に、大きく立派なお墓が目に入り、その前で、この日照りの中、熱心に手をあわせる着物姿の老人を見つけた。
英章は、この暑いところを大変だなと思いながら、その老人を数分ぐらい眺めていた――しばらくすると、老人はきびすを返し歩き始めた。しかし、数歩進んだところで、躓いて膝をついた。
「大丈夫ですか?」
英章は、扇子をしまいながら、大急ぎで駆け寄って声をかけた。膝を付いたままの老人は、近くで見ると、ずいぶん立派な着物を着ている――きっと、名家の御隠居さんに違いないと思った。
老人は苦笑いを浮かべ「ああ、何とか大丈夫じゃが……。鼻緒が切れたな」と、ばつが悪そうに言った。上等な着物に負けず、厳かな気品を発している。気品とは、目で見て感じる物ではあるが、目には見えない不思議なもので、これが気品だと指差す事はできない。英章が出会った老人は、この気品を漂わせていた。
「鼻緒ですか……大丈夫、私も前に切った事があるので予備を持ち歩いているんですよ」
英章は僧侶であると言う事もあって、和服が好きで、普段も着物で過ごしている事が多い。和服以外ではジャージですごしている。ジャージと着物以外の姿を見たものは少ない。
「ほら、コレで大丈夫。ちょっと見た目は悪いけど、ちゃんと歩けますよ」
「おうこれは、なかなか良い具合じゃよ。若いのに着物姿とはめずらしいのう。うちの息子はいつもスーツじゃよ」
老人は、にっこりと微笑んだ。立派な白い髭に不似合いな、まるで子供のように、かわいらしい笑顔だ。
「僕も、普段はスーツですよ、じゃ、お気をつけて」
英章は、さらりと見栄を張ってしまった事に後悔しつつ、その場を離れた。楠の庇護下に戻り、老人が、お寺を出て行くまで見送った。また、転んでしまわないかと心配しての事だったが、どうやら杞憂に終わって安堵した。さて帰ろうかとした時。あの、気品のあるおじいさんは、どこの良家の方だろうと気になり、振り返って、先ほど老人が手を合わせていた大きなお墓を見上げた。
――空がまぶしい。流れた汗が目に染みて、英章は思わず目をつぶった。
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