第2話 英章

 僕は、この景色が好きだ。見渡す限りの田んぼ。伸び始めた苗が、ようやく、風の軌跡を見せてくれるようになった。秋になれば、黄金色の稲穂が勇壮な風のダンスを見せてくれる。ここで育った人は、風を見た事があるかと問われれば、きっと、全員がイエスと答えるだろう。でも、まだまだ、青々とした稲が、じりじりと照り付ける太陽をいっぱいに受けようと、一生懸命に背伸びしている様子で、一面の黄金色の風景を見るには、まだまだ時間がかかりそうだ。


 英章えいしょうは故郷の美しい景色に心を奪われていた。しかし、それも一瞬の事だった。何故なら、今日は飛び切りの太陽と、昨日まで続いた雨の名残で、この夏一番の気温と湿度が重なったのだ。ティーシャツに短パンであれば、まだ良かったかもしれないが、英章は普段から着物をきている事が多い。しかも、今日は、お知り合いのお寺に用事があってきたので、正装ではないが、少し生地の厚い立派な着物を着ていたのが余計だった。この熱さでは、いくら若稲で紡いだ緑の絨毯が美しかろうと、長く英章を惹きつけておく事は出来なかった。それから、英章を美しい世界から引き戻したのには、もうひとつ理由があった。それは、英章の実家である勝厳寺しょうごんじだけではなく、この天由寺てんゆうじにも共通した、お金というシビア過ぎる現実だった。

「英章さん、どこのお寺も同じだよ、商売っ気がある和尚さんは少ないんだ」

 二つの寺は借金で苦しんでいた。いや、それ以外にも、知り合いのお寺はほとんどが同じような状況だった。英章はお金の事を考えると、自分がけがれて行きそうな感覚を覚えて気が引けた。次男坊とは言え、英章も勝厳寺の僧侶の一人だ。商売と宗教を一緒にはしてはいけない気がする……でも、お金がないと、お寺はなくなってしまう。そんな、ジレンマに頭を抱えていた。

 英章は、あまりの暑さに耐えかね、一時の涼を求めて辺りを見回した。太陽が真上にあるので、境内に日陰と呼べるものは、大きく枝を張り出した楠の下ぐらいしか見当たらない。和服の袂から扇子を取りだし、パタパタと仰ぎながら大きな楠の下へ歩いていると、滴り落ちる汗の一滴ごとに、悶々としたお金の問題があふれ始め、ついには独り言となって口から出てきてしまった。

「ぬわぁ、あっついなぁ。汗はどんどん出てくるのに、お金は全然出てこない。何故、みんな、こんなにお金が無いんだろう。お寺って必要だよね? 必要なのに、何故、無くなりそうなお寺がこんなにあるの? なんかおかしいんだよなぁ。何がおかしいんだろう、わっかんないなぁ」

 英章は、楠の幹の寄りかかり、そのまま背筋を伸ばして見上げる様に首を伸ばした。大楠の茂った葉の隙間から木漏れ日が差している。湿度が高いので、日陰に逃れても、涼しさを感じる事はない。ずいぶん昔に、修学旅行で行った京都は、盆地だから夏も暑いと聞いていたが、実際は、日陰にいればずいぶん涼しく感じた事を思い出した。夏も暑いと言っているのは、きっと、京都よりも東の人たちなのだろう――と思いつつも、日向よりは、木陰の方が随分ましだった。

 大きな楠は佐賀の名前の由来にもなっている。古事記よると、日本武尊やまとたけるが佐賀に来た時に、楠が茂っている様子を見て、さかえくにと名付けたとされている。この立派な大楠も、日本武尊が『栄えてるなあ』と思った内の一本なのかもしれない。英章は、自分の何代前のご先祖様までさかのぼれば、この大樹が幼かった日の姿を見られるのだろうかと、悠久の歴史を感じていた。十人ほどで手を繋いで取り囲まなければならないぐらいの大楠は、周囲に大きく枝を張り出して、今でもその生命力を誇っている。英章は、まるで、自分を激しい日差しから守ってくれていると感じたが、それは都合の良い勘違いだ。日差しを沢山受け取るのが、木の本来の仕事だ。

 英章は勝手に大楠の慈愛を感じながら、その枝振りを驚嘆とともに見つめていた。(随分遠くまで枝を張り出しているのに、よくも折れてしまわないものだなぁ)

 英章の視線は、枝を辿ってその先端に向かって行った。すると、その先に、大きく立派なお墓が目に入り、その前で、この日照りの中、熱心に手をあわせる着物姿の老人を見つけた。

 英章は、この暑いところを大変だなと思いながら、その老人を数分ぐらい眺めていた――しばらくすると、老人はきびすを返し歩き始めた。しかし、数歩進んだところで、躓いて膝をついた。

「大丈夫ですか?」

 英章は、扇子をしまいながら、大急ぎで駆け寄って声をかけた。膝を付いたままの老人は、近くで見ると、ずいぶん立派な着物を着ている――きっと、名家の御隠居さんに違いないと思った。 

 老人は苦笑いを浮かべ「ああ、何とか大丈夫じゃが……。鼻緒が切れたな」と、ばつが悪そうに言った。上等な着物に負けず、厳かな気品を発している。気品とは、目で見て感じる物ではあるが、目には見えない不思議なもので、これが気品だと指差す事はできない。英章が出会った老人は、この気品を漂わせていた。

「鼻緒ですか……大丈夫、私も前に切った事があるので予備を持ち歩いているんですよ」

 英章は僧侶であると言う事もあって、和服が好きで、普段も着物で過ごしている事が多い。和服以外ではジャージですごしている。ジャージと着物以外の姿を見たものは少ない。

「ほら、コレで大丈夫。ちょっと見た目は悪いけど、ちゃんと歩けますよ」

「おうこれは、なかなか良い具合じゃよ。若いのに着物姿とはめずらしいのう。うちの息子はいつもスーツじゃよ」

 老人は、にっこりと微笑んだ。立派な白い髭に不似合いな、まるで子供のように、かわいらしい笑顔だ。

「僕も、普段はスーツですよ、じゃ、お気をつけて」

 英章は、さらりと見栄を張ってしまった事に後悔しつつ、その場を離れた。楠の庇護下に戻り、老人が、お寺を出て行くまで見送った。また、転んでしまわないかと心配しての事だったが、どうやら杞憂に終わって安堵した。さて帰ろうかとした時。あの、気品のあるおじいさんは、どこの良家の方だろうと気になり、振り返って、先ほど老人が手を合わせていた大きなお墓を見上げた。

 

――空がまぶしい。流れた汗が目に染みて、英章は思わず目をつぶった。










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