第3話 鍋島経斎

「――そう言えば、鍋島君のお父さんってどんな人なの」

「父親はいない……」

「亡くなったの? ごめんなさい」

「謝る事は無い。初めからいないんだ」

「初めから……」

「そう、初めから……俺には父と言う存在が初めからないんだ。もう良いだろ」

「ごめん……」

「謝る事は無い――」

 もちろん俺にだって生物学的な父親はいる。人間だから当然だ。しかし、消してしまった。父と言う存在に憧れ、慕っていた、元から記憶にもない存在など消してしまったのだ。そして、ある日から敵と呼ぶ様になっていた。敵を倒す事が、大切なものを守る事であり、生きる糧となった。今では感謝すら感じている。ここまで憎く、強大で、倒しがいのある相手であってくれた事に。


 鍋島なべしま経斎つねなりは、会話を放棄して、幼かった頃の記憶に埋没して行った。


「つぅねなぁり君、遊ぼうよ、土手に土筆が生えてるんだって!」

「今日はお母さんのお手伝いをするからだめ」

「もう、いつもお手伝いじゃない。もう遊んであげないから」

「――またね……お母さん、病気なんだ……だから」


 父親の事は憎んでいるが、母親は大切に思っている。マザコンと呼ばれるのかもしれないが、大切なものを大切にして何か悪いわけでもない、だからあんまり気にならない――経斎はそう思っていたが、気にならないのではなく、気にしない事に決めたと言うのが正解だろう。

 幼い内はまだ迷いもあった。の子供達の様に遊びに行きたかった。でも、何かが引き止めた。母の力になりたいと言う気持ちと、別の何か――まだはっきり分からなかった。


「えー、センセイまたつねなりさんと一緒に作るの? つねなりさん、いつも自分だけで進めちゃうんだよ」

「そうかぁ、でも誰とでも仲良くできるようになってね。経斎さんもお友達と協力して、みんなと同じ様にできないか頑張って見てね」

(みんなと同じ様に……)


 経斎は、変わっている、普通じゃないと言われる事が多かった。そして、本人も自覚していた。しかし、そもそも、同じ人間などこの世には二人と存在しないのは周知の事実で、逆に、飛び抜けて異質な人間も存在しない。所詮人間は、人間と言う枠からは抜け出せない。だから、もっと変わった人間からみれば、経斎は至って普通と呼ばれるだろう。それは、経斎にも良く分かっていた。

 少なくとも、あの転機が訪れるまでは。


「つねなり君、今日も朝早くから大変だね、お母さんは、また悪いのかい? 先週は大変だったろう? あんな大雪の日に配達してあったから驚いたよ」

「配達しないとお金もらえないんだ」

「それはそうだろうけど……でも、あんまり無理しすぎるんじゃないよ」

「配達遅れちゃうから行くね」

「え、ああ、そりゃごめんねぇ、何か困ったことがあったら言うんだよ……っと、もう行っちゃったか、感心だけど、アイソのない子……」


 近所の人には、感心な小学生と思われていた様で、向こうから声をかけてくれて、うちにも健康飲料の配達をしてくれと、契約件数もそれなりに増やした。それでも、一番多い時の収入は、三万円には届かなかった。小学生を雇用する事は許されないが、病気がちで休む事の多かった母親に代わって配達する事は許してくれた。結局、母親が全く働けなくなって、仕事を辞めてしまい、経斎は唯一の収入源を奪われた。

 金を稼げなければ、大切なものを大切にできない。しかし、残念ながら、小学生には働く場所は用意されていない。


 人間の価値を測る物差しがいくつかある中で、経斎が選んだのは金だった。最も公正で平等な基準だと思った。金をいくら持っているか、見せあえば、優劣がその時点で決定する。金を稼ぐには運にも左右されるが、運をつかむにも相応の実力が必要だ。

 経斎が金に固執するきっかけとなったのは、母が急に入院することになった、ある夏の日の事だった。暑さのせいもあって、母親が買い物先で倒れ、肉屋のおばさんが病院まで連れてきたと電話をかけて来た。丁度、小学校から帰った経斎がその電話を受け、保険証とお金を持って病院へ行こうと準備をしていた時、小学生の彼にはまだ見せる必要のないものを開いて見てしまった。

 母親名義の通帳には毎月二十万円前後の振込が記載されていた。振り込み人は――経斎が教えられている父の名前ではなかった。この時、経斎は父の写真が一枚しかないという事を思い出した。生まれたばかりの経斎を抱く笑顔の母と、その隣で微笑む男性――なぜか、この、ただ一枚だけ……。


「あ、見つけた鍋島君、今日も図書館にいたのね。どうして学校ではなくて図書館なのかな? 誰かにいじめられているの? それとも先生の事嫌いなのかな?」

「先生、僕はいじめられていないし、先生の事も嫌いではないですよ……中学の教師って忙しいんでしょう? 僕なんかに構ってくれなくていいですよ」

「そう、心配してくれるのね、ありがとう。でも、先生は、鍋島君に会いたくて図書館へ来ているのよ、だから大丈夫よ」

「そうですか、でもね、忙しいんですよ、分かりますよね? 言っている意味」


 人は自分と違うものを恐れる、そして、自分が他と違う事を恐れる。誰かに共感する事は、自分が人と同じであると安心する事でもある。経斎は、自分がその材料に使われているのだと感じていた。

『普通の人』とはオバケと同じだ。このオバケは、この世の中のどこにも存在しないのに、この世の中のどこにでもいる事になっている。どんな時にこのオバケが出てくるかと言えば、誰かを批評する時だ――

『普通の人は、そんな事考えないよ』

『普通の人は、そんな事しないよ』

『普通の人なら、学校を辞めないと思うよ……』

 いつでもこのお化けは現れて、自分と違うものを排除する為に大活躍する。

(普通の人など、どこにも存在しないのに……)

 初めは、このオバケから逃げようとしたのだが、どうやら逃れられないと知って、今度は無視する事にした。

(俺を邪魔するやつは、全て敵だ、無視するか、戦うかのどちらかだ)

 そうして、母を大切にしない父親とは、必然的に戦う事になった。しかし、あの通帳を見るまでは、ずっと憧れていた。お父さんは素敵な人だった――と話す母の言葉を信じ、父の様になりたい、いつもがんばっていれば、いつかお父さんが迎えに来てくれると信じていた。


 しかし、遂に父親が帰って来る事は無かった。


 父親は消えてしまった――いや、消してしまったのだ。父親だと教えられていただけのその存在など、必要なかった。


(学校になど、行く必要はない。学校では金の稼ぎ方は教えてくれないし、同級生は遊ぶ事しか考えていない。俺は俺の方法で、大切なものを大切にしていく、その方法を模索し続けるだけだ。誰にも文句は言わせない。文句を言わせない程の実力を身に付けて見せる)


 しかし、どれだけ支出を減らしても、収入が無ければプラスにはならない。振り込まれてくる生活費を使う額が減るだけで、あの通帳の金でと言う事実は変わらない。どうあがいても、日本では小学生は働く事は出来ない、さまざまな資格も、金銭がからむようなものは未成年者には発行される事はない。

 なんと、不平等な世の中だろう……俺には敵と戦う武器を持つ事すら許されないのだ――それを改めて実感した時、経斎は絶望の底に辿り着いた。もがき苦しんだ。寒い冬の日、真夜中の布団の中で、声を殺して泣いた。枕を噛んで千切った。乾燥した唇が切れて、シーツを血で汚した。

 しかし、まさにこの時、ありえない転機が訪れた。その瞬間は、耳鳴りとともに訪れた。

 枕を噛んだまま、疲れ果てて眠りに付いた経斎は、耳鳴りがして目を覚ました。しかし、それは、ただの耳鳴りではなかった……声がする。耳元で男が話している。しかし、何と言っているかは分からない。その声は一向にやまず、何時間も格闘した。絶望の底から抜け出す力となったのは恐怖だった。このまま死んでしまうのかもしれないと思った時、絶対に死なないと強く念じた。何をしてでも生き残って見せる、絶対に俺は死なない――と誓った頃、その声は、ふいに遠ざかって行った。


 異変に気が付いたのは、その翌朝の事だった。気分良く目が覚めた経斎は、昨日の事は夢だったのかもしれないと、半信半疑のまま、いつものように学校ではなく図書館へ出かけた。いつものように図書館へ入ると、いつもと同じおじいさんが受付に座っていた。そして、いつもと同じように、訳が分からない経済学の本を開いた。半ば意地になって、理解もできずにただページをめくるだけだったのだが、今日に限ってはどう言う事だろう、昨日までは、辞書を引いても載っていなかった専門用語が、なんとなく分るような気がしてきた。経斎は、いつも一緒に使っていた国語辞典を閉じて、初めのページから読み直し始めた。

(わかる……読める……知らなかった漢字も、発音の仕方さえ知らなかった記号や数式も……)

 経斎が、天才と呼ばれるようになったのは、もう少し後の事だ。

 中学へ行かぬまま卒業し、高校受験もしなかった経斎を心配して、どうにか塾ぐらいには行って欲しいと母に泣かれ、入塾の為、クラス分けのテストを受ける事になった。

 すべての生徒を押しのけて、小卒の経斎がトップに立った。しかし、経斎にとっては何の足しにもならなかった。トップに立ったからと言って、金がもらえるわけではない。金を稼ぐ方法を考えて、実行し、稼ぐ事――唯一、それだけが経斎の物差しだったからだ。

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