第27話 春日のぞみ

「はあ、疲れた」

 理沙が、ドアを開けると、春日が出迎えた。理沙達は県知事との対面の後、日和花道に帰って来た。もう、午後六時を過ぎていたが、春日はオフィスの掃除をしていたらしい。今では、夜の仕事を辞めて、日和花道だけで働いている。

「お帰りなさい……」

 春日は、夜の仕事に就く前――まだ、大阪へ行く前は、佐賀市内の被服縫製会社で事務職をやっていたので、日和花道の仕事に特に問題は無かった――と言うよりも、日和花道においては、唯一の事務経験者であり、英章は、春日に頼り切りの状態だ。

 案件の数に比べて、事務仕事はさほど多くない。鍋島の作ったシステムは良くできていて、ネットを介した顧客サービスや、財務関係についてはすべて自動で処理される。技術面は、市内のソフトウェアベンチャー企業に運営とメンテナンスを依頼し、電話での応対は、先週、コールセンターに移管し終わったので、基本的に日和花道内でやるルーチンワークは無い。そうはいっても、会社組織を運営していれば、突発的な問題や、社長である英章への問い合わせなど、いろいろとやる事は出てくる。春日は、それを一手に引き受け、雑用と社長秘書を合わせたような仕事をしている。オフィスの掃除もその一つだ。

 英章と鍋島は、春日に挨拶をすると、しばらくしてオフィスを二人で出て行った。

 理沙は、二人が仲良く帰っていく姿を見たのは、初めてじゃないかな、と思った。二人を見送った後、理沙は二人の後について行こうかとも考えたが、そう言う気分にはならなかった。とは言え、もやもやしたものを抱えて、一人、真っ暗な自宅へ帰る事もためらわれた。

「春日さん……私、どうやったら、春日さんの様な大人になれるのかな?」

 もやもやした気持ちから開放されない理沙は、春日に、つい頼ってしまった、そんな事を言われても、春日を困らせるだけだと分っていたが、つい、口から零れ出てしまったのだ。

「理沙さん……私は大人じゃないし、無理に大人になる必要もないと思うわ……」

「英章先生にも同じような事を言われたの、子供なんだから、子供のままいればいいって」

「その通りですよ、今のままの理沙さんが、みんな好きなんだと思います」

「ありがとう……でも、私は大人になりたいの、春日さんみたいに素敵な女性になって、男の人にもモテて――」理沙は、春日が、自分の言葉に反応した事に気が付いた。

「あ、あの……そんなつもりじゃなくって、それぐらい素敵な人になりたいって事で……」

「良いのよ。みんなにどんな風に思われているかは、良くわかっているわ」

「……私、春日さんの事、いろいろ聞いたの……。でも、一緒に働いている時の春日さんとは、重ならなくて……」

 それ以上は、言葉にしようとしたが、理沙の口からは何も出てこなかった。確かに、悪い噂を全否定できる根拠を理沙は持ち合わせていない。かといって、短い時間でも一緒に働いた春日からは、邪悪なものなど、微塵も感じない。これをどうやって伝えればいいのか……。

「……最初は話すつもりはなかったんだけれど……もともと、私は、ここで働く事について、気が進まなかったの。住職様に、半ば、説得されて来たんだけれど、どこに行っても、私は厄介者……。自分が嫌な思いをするのはしょうがないけれど、わざわざ、周りの人に嫌な思いを撒き散らして歩くのも嫌だしね」

「そんな事無いわ。春日さんは……良い人よ……」春日は今まで見せた事無い、穏やかな笑顔で、微笑むと、いつもよりも饒舌に話を続けた。

「迷惑を掛けたくない、そう思っていたの、今までは……ね。でも、それじゃ嫌だって思うようになった……好きになっちゃったの。皆をね。もちろん、理沙ちゃんも」

「春日さん……」

「だから聞いてほしいの、私はいったい誰なのか……」


 春日は、とうとうと話を始めた。ワンダーボーイのオーナー鯨間と、わくわくのオーナー紅迫と、春日のぞみの三人は、もともと中学校からの同級生だった事、二人が春日を取り合って、いつも、競り合っていた事、その時の日々が、どれだけ輝いていたのか……。やがて、高校を卒業した頃、二人同時にプロポーズを受け、どちらかを選ぶことができなかった春日は、苦し紛れに早く社長になった方と結婚すると約束してしまった事。二人に会うのが辛くなり、佐賀を離れると決意した事。横浜、東京と転々とした後、大阪で恋に落ちた事、こっぴどく振られてしまって、傷心の内に佐賀へ帰郷した事。鯨間と紅迫が、二人とも同時に、中古ソフト販売会社の社長になっていて驚いた事、先に店舗を増やした方と結婚すると、また、同じ嘘をついてしまった事。

 話を聞きながら、理沙は大粒の涙をいくつも流した。話しをしているのは、春日の方なのに、何度も大丈夫かと、気に掛けられ、恐縮しながら、ハンカチを受け取った。

 春日は、鯨間の遺書の内容についても話した。自分が死んだ後は、店の全てを、友人の紅迫に譲渡する事、それ以外の財産の半分は春日が相続する事、後の半分は、勝厳寺に、永代供養などの費用と、寄付として振り込む事……。

 生前から鯨間は、住職に死後の相談と、残るものの相談――つまり、春日の相談をしていた。鯨間と紅迫は競い合ってはいたが、良いライバル関係で、お互いに尊敬し合っていた。春日の存在は、二人にとって、恋愛対象としてだけではなく、二人を成長させるうえで、かけがえのない存在だった。

 しかし、鯨間は悔やんでもいた。自分達のせいで、春日に余計な負担をかけてしまった。佐賀から追い立てるような事になり、更に、夜の仕事を始めるきっかけを作ってしまったと――だからこそ、住職に頼んだ。自分が死んだ後は、彼女を説得してほしい。準備する期間の生活費ぐらいは残せるから、その間に、昼の仕事に就いて欲しい、その世話を住職にして欲しいと。

 そして、自分から店舗を受け継ぎ、自分より支店を先に出し、結婚の条件をたす事になる、紅迫と結婚してほしい……と。


「でもね……でも、やっぱり選べないの、二人は私にとっても特別で、大切な存在……。どちらか一方を選ぶなんて、今でもできない……。夜の仕事はね、確かに、夜だけの経験しかない人は、昼の仕事にコンプレックスと憧れをもっている人は多いのよ。だけど、昼を経験した私にとっては、夜の仕事が、どれだけ大変で大切な経験を得られる仕事かと言う価値がわかる……私自身は、夜の仕事に誇りは持っていても、否定的な気持ちは無いのよ。でも、鯨間君……死んじゃったからね……もう、それを説明もさせてもらえない……」

 初めて見せる春日の涙は、理沙と同じく、大粒で美しく輝いていた。

「だから、言う事を聞く事にしたの……そして、住職様に、ここに連れて来て頂いた。まるで、拾われた野良猫みたいよね」

 自嘲して笑う春日の瞳には、まだ、涙が残っている。

「ううぇぇぇん、春日さぁん」

 理沙は、もう我慢できずに春日に抱きついて、嗚咽を上げて泣き始めた。

「こう言う所……理沙ちゃんのとっても素敵な所よ。理沙ちゃんが感じるままに、考えて、話して、行動すれば、きっと皆が、あなたを好きになる。大人でも、子供でも、どちらでなくてもいいの。理沙ちゃんは、おばあちゃんになっても、ずっと、理沙ちゃんのままよ、きっとね……」

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