第29話 鍋島経斎の父
「今日は何だか、気分がいいわぁ、経斎、何か良い事があったんじゃない? だから、母さんも具合がいいんじゃないかと思うの」
「そんな事……別にないよ。ただ……」話そうとしたけどやめた。と、言うよりも、話そうとしてもうまく言葉に出来なかった。この夏、大きな変化が訪れた事は間違いない。これまで、人を拒絶し、意図的に壁を作って凌いでいた人間関係をぶち壊す者が――理沙が現れた。初めのうちは、成り行きでしょうがなく付き合っていたのだが、あまりの予想外な行動に、少し興味を持ってしまった。これは、いいことなのか、そうでないのかも良く分からない。
「ただ? どうしたの?」
「ただ、面白い仔犬を見つけてね……たまに遊んであげているんだ」
「そう……その子、可愛い子なの?」
「まあ……そう言っている人も中にはいるよ」
「そっか、いいね、青春してるね」
「何だよそれ、言い回しがおばさん臭いよ。犬と遊ぶ青春ってどんなだよ」
「おばさんなんだから、いいじゃないの。今日はとっても気分がいいんだから、付き合いなさいよ」
「だから、さっきから、付き合って話しているじゃないか」
「でも、話す事が少な過ぎるのよねぇ。はぁ、思春期の男の子って、どの子もそうなのかしら……ねえ、何か話す事ない? 聞きたい事でも良いのよ」
「別に……」
聞きたいこと……頭の中をいくつもの質問が動画のコメントのように流れていった。疑問は沢山あった。疑念と言ってもいいかもしれない。でも、これまでは聞く必要がなかったから聞かなかった。なんだかよくわからないが、今日は聞いてみようかと思えた。ちょっと、雑談に付き合ってあげるだけだ、そんなに深い意味はない。
「あの……さ……父さんってどんな人だった?」
「――久し振りね、その質問……小学二年生ぐらいだったかなぁ、最後にそう聞かれたの……。もう、興味をなくしちゃったのかと思ったわ」
その頃だった、母の通帳に毎月振り込まれる生活費を見つけたのは。そして、振込人の名は……。
「そうね、とっても素敵な人だったわよ。頭が良くて、繊細で、絵が上手で……でも、忙しい人だった。興味が湧いたことにはいつも全力で、まるで自分を滅ぼそうとしているように、命を削って歩いているような、そんな人だった」
「そんな話、初めて聞いたよ」
「そりゃ『命を削っている』なんて、十歳にもならない子供に話したら、びっくりしちゃうでしょう」
「ああ……まあ、確かにそうだけど……で、さ、どう思っているの? 父さんが……いなくなったことを」
思い切って聞いてみた。これまで、聞きたいと思ったことも無かったので聞いたことがなかった。きっと、恨んでいるだろうと思うからだ。母から、父の恨み言をわざわざ聞く必要はない。言いたければ勝手に話すだろうし、言わないのは、聞かせたくないからだと思っていた。でも、最近は少し考えるようになった。母から父親の悪口を聞きたくないのは、母親を美化しておきたいという自分の願望が大きいのではないかとも思うようになった。自分が母親に対して、こうあってほしいという願望を重ね合わせて決め付けているのではないか……違和感を感じることがあっても、それにフタをしてきたような気もする。いつかは越えなければならない壁である、敵としての父親像をうやむやのままにしておくのは、逃げているからかもしれない、戦う覚悟をしたのだから、できるだけ敵の情報は仕入れなければならない、そう思った。
「しょうがない……そう思っているよ……」
「しょうがない? それだけ?」
「そう、それだけ。いなくなってしまったものはしょうがない。きっと、そうでなければならなかっただけ。でも、いなくなる前にお父さんに会えた、それを幸せに思うわ、そして、あなたを授かったのよ、すごくない?」
「すごい? 凄いことなのかい? もう、俺も子供じゃないんだから、愚痴ぐらい言いなよ」
「あら、いっぱしのセリフ言って……愚痴は、確かに沢山あるわよ、でも、お父さんに言っているから大丈夫、お母さんの頭の中では、いつだって相槌をうってくれているんだから、経斎のところまでは回ってこないわよ」
「ふん、そんなもんか」
「そんなもんよ……で、経斎はどう思っているの? お父さんがいなくなった事……きっと、辛かったよね」
辛かった――そんな単純な言葉で片付けるのは嫌だった。もっと、叩きつけるような、引き裂くような、別の強い言葉で吐き捨てたかった。でも、そんな言葉は浮かばない……多分、知らないだけだ、俺の頭の中の辞書に入っていないから出てこない、何かあるはずだ、ぴったりの単語が……。
「なんとも思ってないよ……どうでもいい……」
「そう……」
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