第30話 お金を合法的に作りましょう
理沙は、ウキウキしていたが、鍋島はまだ、納得していなかった。英章は、きっとうまく行くと信じていた。
「英章先生、私、すごく、どきどきしている」
「そうだろうなぁ、高校生が、さあ行きましょうって言って、なかなか会える人じゃないよなぁ」
「やっぱり? そうだよね? すごく楽しみ!」
「そんな事どうでもいい、ところで、大野英章、本当に行くのか? 全くうまく行く気がしないんだが……」
「どうでもいいって……」
「何だか鍋島らしくないなぁ、大丈夫、きっとうまく行くよ、鍋島の計画は凄いよ。うまくいかせなきゃ」
「別の方法でもいいんじゃないか? 何でわざわざ頭を下げに行くような事をしなければならないんだ」
「本当に、いつもの鍋島くんらしくないよね、まあ、いっか、出たとこ勝負だよ」
「英章さん、出たとこ勝負が通用する相手じゃないですよ。でも、まあ、面白いからいいですけどね。そろそろ、送って行きますよ。今日は会社じゃなくって、自宅にいらっしゃるようですので、そちらへお送りします。段取りは、私の元同僚がつけといてくれました」
「そうですか、取立さん、ありがとうございます。じゃ、春日さん、行って来ますね」
春日に見送られて、日和花道を出発した。取立の運転する車で、目的地へと向かう道すがら、理沙と取立が、陽気に話し続けていたが、鍋島の耳には、全く入っていない様だ、英章は、少し心配していたが、気にしていないふりをしていた。今日の相手は、一筋縄では行かない事は十分理解していた。しかし、方法はこれしか無い。いや、この方法を取るべきだと考えていた。これまでの佐賀と、これからの佐賀を、バトンタッチするためには。
車は、佐賀の旧市街の一画で停車した。この辺りは、長崎街道が栄えると共に成長し、明治から昭和初期にかけては、街の名士達がこぞって賑わしていた。早稲田大学の創設者である、大隈重信の生家は目と鼻の先だ。現在は、重要文化財として保存されていたり、観光の名所になっているが、もちろん、そのまま住んでいる人達も多い。今日訪ねて行く相手――戦国時代初期から続く名家、龍造寺家もそのひとつだ。
「じゃ、終わったら連絡して下さいね、仕事しながら待っていますから……」取立は、頑張って、と右手で小さくガッツポーズを作ってから、車を出した。
鯱の門を連想させるような、立派な門構えをくぐり、庭に入ると、決して大きくはないが、手入れの行き届いていそうな日本庭園があった。英章は、勝手に鹿鳴館の様な洋風の建物を想像していたので、少し意外だった。大きな玄関は、勝厳寺のそれと、何だか雰囲気が似ていた。
「ごめんください」大きな声で英章が声を掛けると、暫くして、廊下を歩く足音が聞こえてきた。足音と言うよりも、ぎしぎしと、廊下の軋む音と、言った方が正しいだろう、ともかく、それは、段々と近づいて来て、英章の目の前で止まった。
「なんじゃ、知事の紹介とは、お前さんの事だったのかい」
「これで、会うのは三回目ですね、金太郎さん――いや、龍造寺金持さん」理沙と鍋島は、英章が龍造寺金持と面識が有った事に驚いた。二人で顔を見合わせた後、理沙は金持に対して会釈をした。鍋島は憮然としたままだ。金太朗と金持が同一人物で会った事には、勿論、英章も驚いた――ただ、それは、五日程前の事だ。父親である、住職と同級生だった事にも驚いたが、更に驚く事もあった。まだ、真実かどうかは判らないが、今日これから、明らかになるかもしれない……。
「まあ、入りなさい。玄関で立ち話して済む内容ではないじゃろうからな」英章達は、お邪魔しますと言って、奥の応接間まで導かれて行った。龍造寺の屋敷は、決して贅沢ではないが、歴史深そうな、立派な日本家屋だ。廊下のガラス窓から見える庭が、少し歪んで見える。おそらく、技術が発達する前に入れられた、まだ、ガラスが高価だった頃の古いガラスが、そのまま残っているのだろう。古いままのガラスは、向こう側の世界を、少し歪めて、ちょっとだけ緑色がかって見せてくれる。英章は、昔の思い出をセピア色と例えるが、古き良き日本の色は、この瑠璃色なのかもしれないと思った。歴史的に貴重な建物のひとつである事は間違いなさそうだ。
応接間では、金持が、自らお茶をいれた。この広さなので、お手伝いさんは当然いるだろうが、今はたまたま不在ということらしい。来客の予定が有るのを知らない事はないだろうから、恐らく、何がしかの急用なのだろうと、英章は思った。お茶をいれると言う行為は、相手の事を少なからず考えながらの作業になる。熱過ぎるのは、苦手だろうか、若者は渋いお茶は苦手だろうか、と金持も例外無く考えているだろう――交渉の前に、良いハプニングだ。
「銀太朗――住職も、ここへは来た事がないぞ、一体なんの用かな。まあ、知事の紹介だから、話だけは聞くが、ワシは滅多な事で人に会ったりはせんのだぞ……」
「お時間を頂きまして恐縮です。実は、佐賀県の今後の事について、ご相談がありまして……」
「ほう、面白い、佐賀県の今後とな、そりゃ大層な話を持って来たのう」
「はい、大層な話です――ここにいる、鍋島と理沙と僕の三人で考えました。単刀直入に言いますと……弊社、株式会社日和花道へ八〇〇億円の資金を投資して頂きたいのです」
「八〇〇億……しかも、融資ではなく、投資とは大きく出たな、お前のとこの会社の資本金は一体いくらだ? とても、そんな価値は無いだろうよ。話にならんな、お帰り頂こうか……」金持は、厳しい表情で英章を叱責した。そこには、金太郎おじいさんではなく、魑魅魍魎の渦巻く、ビジネスの世界に身を置いて孤軍奮闘してきた、厳しい龍造寺金持の迫力が滲んでいた。しかし、英章も、顔見知りだからと、甘えの気持ちで訪れた訳では無い。負けずに、しっかりと組み付き直した。
「知事の紹介だから、話だけは聞くと仰いましたよ」
「ふん、小賢しいのう……じゃあ、早く話してしまえ」金持は少しイライラしたようだ、しかし、話を聞く器は持ち合わせている。それは、英章の計算の内だ。そして、聞かざるを得なくなる、そんな話を英章は持って来たつもりだ。
「投資して頂く、八〇〇億円の内、四〇〇億円で佐賀城天守閣を築城します。残りの四〇〇億円で、城内地区を戦国時代から、昭和初期までの古き良き佐賀の時代へ順次改築して行きます」英章は、確信を持っていた。この計画は、金持が金を出すだろうと当て込んで考えた訳では無く、英章がやりたい教育と、金持の思いが重なったものだからだ。英章はそう信じていた。
「佐賀城築城……大それた事を……しかし、城の旧状が分らなければ、再建は許可されんぞ」金持は、相変わらず、苦虫を噛み締めたような顔をしているが、話は聞いてくれている。英章は、この厳しい顔を、金持ちがビジネスマンとして本気で聞いてくれていると解釈した。
理沙は、金持に対して、亡くなって久しいゲンじいの面影を重ねていた。厳しさは、仕事に対する誇りと、愛情の現れだと言う事を、理沙は小さな頃から知っていた――と、今、気が付かされた。
「ご存知でしたか……再建が難しい事……。だから、再建ではなく、築城なんです。新しい城を建てるんですよ。佐賀城と言う名称が使えなければ、それでも良いです。佐賀県庁と言う名前で呼びますので……。佐賀城と城内地区の再開発は、公共事業として行います。過去の箱物と揶揄された、維持費だけで、その後の予算を食い潰してしまうような建造物では無く、ちゃんとお金を稼いでくれる投資にします。スペインのサグラダファミリアの様に、作り続ける事によって、永遠に雇用を創出し続け、観光客には、佐賀を訪れる度に街の何処かが新しく――時代的には古くなっていると言う興味を引く事ができます。佐賀市内の新築木造建築群は、九州内の林業の需要を生み出します。そして何より、天守閣築城の目的は別の所にあるんです」金持ちは、目を瞑って、黙って聞いている。英章はこの辺りまで話したところで、それなりのリアクションがあると予測していたが、外したようだ。しかし、黙っていると言う事は、まだ話しても良いと言う事でもある。英章が一番やりたい事――教育についての考え方をぶつけて見るしかない。
「富士山をご覧になった事ありますよね。きっと、始めて見た時には、誰でも同じ事を感じると思うんです。すげえとか、でけえとか、霊峰と呼ばれるのが分かったとか、凄まじい感動を覚えると思うんです。僕もそうでした。初めて見た僕はこう感じたけど、ここで育った人はどう感じるんだろうかって思ったんです。武田信玄は、富士山に登った事があるんだろうか、更に大きな海を目指した気持ちはどんなものだったんだろうかってね。佐賀にも富士山が欲しい――憧れの力を佐賀の人達にもわかりやすく伝えたい、そう思ったんです。その為に考えたのが、天守閣の築城です。子供達は、始めて見た時に、感じると思うんです。すげえとか、でけえとか……。そして、僕のお父さんは、あの、大きなお城を作っている大工さんなんだとか、あのお城で、みんなの為に仕事をしているんだとか――だから、県庁を天守閣内に移動するつもりなんです。ただの、史跡ではなく、生きた憧れの象徴にしたいんです。僕はこの憧れを、天守閣を作る事で生み出したいと、そう思っていたんです」
英章は思いの丈を伝えた。理沙がアイドルデビューを果たした頃、英章にも目標が出来た。それが築城による、憧れの創出だ。話したい事は幾らでもある。しかし、伝えたい事はすべて伝えきれた、そう感じた。
「城を建てたい気持ちは分かった。しかし、八〇〇億で、建築はできるかもしれんが、観光収入だけでは運営しては行けんぞ。その辺りを、どう考えているんじゃ?」
英章は心の中で小さくガッツポーズした。励ましてくれた取立さんに、今すぐ伝えたいぐらいだ、金持は英章の計画に賛同したと……。まだ、協力してくれるかどうかは判らないが、実現可能であると判断されれば、きっと良い方向へ進められる。第一段階はクリアした、後は鍋島に託す事になる。
鍋島は、しぶしぶ話し始めた。まだ、一度も龍造寺金持の目を見ていない。
「運営資金は、佐賀県が稼いだ金で支払う。佐賀県は、住民の税金と地方交付金を財源とするのではなく、商売で稼いだ金で、県民を養って行く――積極的な利益追求集団を目指す。主な商品は農産物の輸出で、それを実現するための財源には、地域振興券を利用する」
「地域振興券を利用すると言うのはどう言う事じゃ? 利用するも何も、地域振興券が使えるのは、その地域内だけの話で、財源とできるようなものではないじゃろが」
英章がすかさず、フォローの解説をいれる。
「投資を頂いた八〇〇億の資金を、もうすぐ発布される、地域振興券の追加発行資金として使いたいのです。佐賀城は地域振興券――仮にSエスと言う名前をつけていますが、日和花道は八〇〇億円の追加資本金で発行した株で佐賀銀行から、八〇〇億円の融資を受けます。更に、八〇〇億円の資本金と借用した八〇〇億円を合わせて、一六〇〇億を佐賀県に貸付します。佐賀県は一六〇〇億を地域振興券の追加発行資金として使用し、三二〇〇億相当のSを発券します。実は今回の地域振興券は、国民一人当たり二万円の拠出のほかに自治体が財源の変わりに使用する事が認められています。自治体が用意した補填金の倍の地域振興券の発券が認められているため、一六〇〇億用意すれば、三二〇〇億の発券が可能なんです。これは、多くの財源を用意できなかった国の苦肉の策で、かつ、財政難の自治体では、これほど多くの財源を用意するとは想定されてないためこんなルールができたのだと思いますが」
「馬鹿な事を言うな、佐賀銀行は総資産でも二〇〇〇億円強で、売上高は四二五億円程度じゃぞ? 無理にきまっとる。それに、三二〇〇億円のうち、一六〇〇億は無から生まれた金じゃろが、どうやって保障するんだ」
「佐賀銀行がお金を集められるかはわかりません。でも、やると言っている男がいます。全額は無理でも、相当額を融資してくれるはずです。佐賀銀行からしてみれば、日和花道は一六〇〇億を県に貸付し、その利息で収益を上げます。佐賀県が払う一六〇〇億円の貸付利息を得て、佐賀銀行へ八〇〇億円の貸付利息を支払う事は簡単にできますよ。しかも相手は行政ですからね。堅いでしょう? 行政って。破綻しても必ず国が助けてくれますよ。ちょっと乱暴ですが。それに、一応、無から生まれた一六〇〇億円は国が補填すると言う事になっていますので、法律上は銀行にリスクはありません」
「つまり、地域振興券の法律を逆手に取って、国にペテンをかけようと言う事か? 何と、大それた事を……それによって、国家財政に穴をあけて、金融不安の種になる可能性すらあるではないか、そんな事許される筈がない」
「でも、保障なんて必要ありません。この一六〇〇億は換金されないんです」
「換金されない? どう言う事だ? 国に続いて、今度は県民を騙すのか?」
「ええと、騙す騙さないの話で言うと……ちょっとだけ騙すと言うか……」
「県民をペテンかける事だけには、断じて協力はできん」
「ペテンだなんてとんでもない……でも、ちょっとペテンに近いかも……」英章も、実は少し不安がある、鍋島の立てた計画を理解しているつもりだが、金持を相手に説得をするには、少々、自信が足りなかった様子だ。
「ここから先の事は俺が話そう」今度は鍋島がフォローのフォローを行う。
「大切なのはルールだ。俺たちは何も犯罪を犯そうというわけではない。決められたルールの中で、最大限の効果を上げようとしているだけだ。まず、地域振興券のルールを教えよう。主要な決まりは7つだ」
地域振興券のルール
一、財源を国が全額補助する。ただし、各地域が補填する資金を用意した場合、その倍の地域振興券を増発する事ができる。増発分の半額は原則国が負担する。ただし、年払いの分割負担とする。
二、自治体の用意した補填金によって発行された地域振興券は、自治体の財源として使用する権限が認められている。
三、地域振興券を使った買い物には、おつりを出してはいけない。
四、日本全国の県単位、もしくは国が定める制限区域内で発行し、同内で使用する事が義務図けられている。佐賀県は佐賀県内だけ。
五、一定の条件を満たした国民一人につき二万円分(額面は自治体に任せる。推奨は千円の地域振興券を一人につき二十枚ずつ)を発行する。
六、地域振興券は、発行日から6ヶ月間有効
七、地域が進言するルールを国に申請して認められれば、地域の特色を生かした地域振興券として認められる。
「以上、七項目だが、何か質問はあるか?」
「君は、鍋島経斎君じゃったかな? このルールはもちろん、わしも知っておる。知事と、まさに協議中の事案じゃからな、今回の地域振興券は、前回の教訓を活かして、自治体の自由度を上げてある。しかし、それが、逆に仇となって、どの様に財源を用意して、どこに配布するのか、関係団体の間で引っ張りあいになっておって、全く拉致があかんからのう」
「金持さん……あの……」英章は少し気になった事があった。もしかすると、予測していた事は本当かもしれない――そう思ったのだ。
「何かな? 地域振興券の配布先は県の重要事項じゃ、ワシの意向も勿論大きく含まれておる。それが不満かの?」
「いえ、そう言うわけでは……」英章は、今はこのプレゼンから話を反らす事は得策ではないと思い直し、ここでは質問を引っ込める事にした。
「説明を続けるぞ、佐賀県の地域振興券Sの総額と内訳だが、八〇〇億円は龍造寺の投資額、佐賀銀行の融資額八〇〇億円、あわせて一六〇〇億円。この額から補填金の倍が発券できると言うルールを適用して、発行額は三二〇〇億円だ。ここは既に説明したな」
「勿論理解しておる。さっき言った通りじゃ」
「それから国からの地域振興券財源一六八億円――国民一人当たりに国から発行されるものだ、県の人口掛ける二万円の地域振興券の総額だ」鍋島は、説明をしながらまわりの人間を見渡した。内容を理解できていないものがいないかどうか、確認しているのだろう。むずかしい説明だが、理沙もうなずきながら聞いている。作戦会議の時に、散々質問して納得した内容だった。
「合計して三三六八億円――これは、県の経済対策予算の一〇四億円の実に三二倍を上回る。あわせて、三四七二億円の経済対策が、佐賀県だけで打ていると言う事だ。普通に使えば、それでも景気回復には焼け石に水だろうが……県の予算総額の四二〇〇億円に迫る事を考えれば、まあまあな額と言って良い。そして、重要な事は、前回の地域振興券はなぜ失敗したのかだ。これが分かっていなければ、いくら額を増やしても、次回も失敗する」
「鍋島君、前回もそれなりの成果はあったんでしょ? 失敗と決めつけるのはどうかな?」
何故か、理沙が鍋島の敵に回る。疑問があれば、ついつい聞いてしまうのは、理沙の良いところではあるのだが……鍋島も理沙に対して、随分理解が進んだようで、親切に説明を続けた。金持は、理沙と鍋島のやり取りに、つい、笑みを零してしまった。説得の対象である、自分を差し置いて、理沙に解説を始めたのだから、無理も無い。
「なぜ、失敗したと言っているかを説明しよう、国は百円をあげれば、いつもより多く百円使うだろうと考えたが、実際にはいつもより三十円多く使って、七十円は貯蓄に回ったからだ。地域振興券は消費の呼び水として使ったつもりだったが、思惑通りには行かなかったと言うわけだな。わかるか?」
「沢山お金を使って、経済を良くしようと思ったのに、お金をあげても、みんなあんまり使わなかったから、予定した効果より少なかった、それを、鍋島君は失敗と言っているのね」
「その通り、だから、俺達は、前回を教訓として、独自のルールでコレを回避する事を考えた」
「ほう、独自のルールとな? どれほどのものか聞いてやろう」
「いや、たいした事じゃない。できの悪い心理ゲームをちょっと良くしてやっただけだ。今回、発行額面――つまり、一番金額の低い新興券の単位だが……自治体に任されている。俺達は発行額面を一円とする。国の推奨は千円単位だが、これは、おつりが出ないから使い切ってしまおうと言う心理を突いたものだろうが、逆効果だな。地域振興券を使うと、結局無駄遣いが多くなってしまうのではと、心にブレーキをかけてしまう。無駄遣いさせるためのルールが、逆に消費を抑えてしまったんだと、俺は考える」
「確かに。お金を使いたくない人にとっては、地域振興券だろうが、円だろうが関係ない。お金を使う事自体が悪なのだからな」
「――そうだ。そこで、国が決めた、おつりを払っていはいけないと言うルールを打ち消す為に、額面を国の推奨の千円から、一円にする。しかし、額面一円では発券数が膨大になり、Sの発行だけで多くの財源が失われる。だから電子マネーを使う。電子マネーは今、思ったよりたくさんのところで使えるんだ。無いところには日和花道がカードリーダーを県に販売して県から無償で配布する」
「そうやって、わしの金をむしりとろうって事か。そう言うやからは虫唾が走る」
「まあ、そう言うな。俺達だってボランティアでやっているわけではない。それに、どこで買うより確実に安く売ってやるんだ。文句はないだろう。実は日和花道には大量のカードリーダーの不良在庫がある。墓守コンシェルジュでの唯一の失敗かな? 誰かさんが発注量を間違えたんだ」
「すまん!」英章の失敗も、ついでに取り返す事ができれば一石二鳥だ。ひとつの事をやる時には、同時にもうひとつ出来ないかを考える事が大切――鍋島のノウハウだ。
「あんたに金を払うのは、県ではなく、日和花道だって事を忘れるなよ、日和花道はあんたに配当金を払うつもりだ。もちろん最終的には八〇〇億円以上を回収させる。それに、Sは紙ではダメなんだ。絶対に電子マネーで無ければならない理由がある」
「誰が金を出すと言った……まぁいい、電子マネーにしなければならない理由とは何じゃ?」
「あせるな。その説明は最後だ。その前に、地域振興券の失敗要因の説明が終わっていない。地域振興券はその換金性の悪さが消費の流れを妨げていたと俺は考えている。ある自治体ではこうだ」
地域振興券の換金は、各金融機関窓口で手続きします。
月に二回の指定日に市から口座振り込みをします
「地域振興券による売り上げは、銀行にいかなければ、円にする事はできない。つまり、稼いだその日に使ってしまうと言う事ができない。人がお金を使いたいと思うのは、お金を手に入れたその瞬間が最高潮だと俺は思う。しかし、最長で二週間も待たされる。これでは、消費の流れのボトルネックとなってしまう。消費する最大のチャンスを失ってしまうんだ。ボトルネックと言うのは、ワインのボトルの注ぎ口の事――ひっくり返しても、細い注ぎ口からはワインは少しずつしか出てこない。ワインは注ぎやすくて良いが、消費は一気に行われたほうが効果が高い。だから、日和花道は――正確には佐賀銀行がコレを自動で行う。Sの有効期限が切れたら、口座内で自動的にSが円に換金される」
「それでは、地域振興券の意味がないじゃろう。はじめから金を配れば良い」
「そのとおり、地域振興券なんて、本当はどうでも良いんだ。目的は景気を上げるために、消費をあげる事、使われるのはSでも円でもどちらでもかまわないんだが、Sのうまみは一六〇〇億あれば三二〇〇億の発券ができるところだ」
「しかし、全てが換金されたら、無から生まれた一六〇〇億は誰が支払うのか、いや、実のある資金はワシが出す八〇〇億円だけじゃ。三二〇〇億の元手は八〇〇億しかないなんて話があるか? どう考えたって破綻するじゃろう。しかも、有効期限が切れた地域振興券が銀行口座内で円に換金されるのならば、余計に貯蓄にまわってしまう」
「大野英章が言った筈だ、全ては換金されないと。貯蓄は――させてあげるさ、なんせ貯蓄の好きな民族だからな、貯蓄をしたら逮捕するといっても隠れて貯蓄するだろう。だから、ちょっとしたトリックを使う」
「トリックだと、やはりペテンか」
「何とでも言うが良い。だが、これはSをもらう側に立って考えた消費者に優しいペテンだ。釈迦も方便って言うだろ?」
「嘘も方便だ」これだけは、流石に英章は黙っていられなかった。
「……それは、悪かった……。言いたいのは、目的の達成のためなら、お釈迦様だって嘘をつくって事だ。みんなの幸せのためにな……。最後のルール、地域の独自性を出すために申請するルールだ。Sは三種類を発行する。それぞれ、有効期限と換金ルールが異なる。わかりやすいように色分けした。まあ、実際には電子マネーだから色は見えないんだがな」
鍋島は用意して来た図を金持に手渡した。理系男子は、箇条書きと図表が大好きだ。
「ひとつ目はレッド、略称RS 有効期限は一週間――一週間経つと消滅してしまう。だから、必ず一週間以内に使わなければならない。その代わり発券数は最も少ない。子供の小遣いに丁度良いぐらいを発行する。なら文句はないだろ?」
「ふたつ目はイエロー、略称YS、有効期限は三週間。三週間後にはRSに自動的に変更される。つまり、YSの期限が切れたらRSとなり有効期限が切れるまで四週間と言う事だ。早く使ってしまわないとなくなると言う心理効果を期待している。いきなり消えてしまってはかわいそうだからな。RSに変更して教えてあげるんだ、優しいだろ?」
「三つ目はブルー、略称BSだ。このSは、ほぼ円と変わらない。有効期限は発行から六ヶ月。六ヵ月後には自動的に円に換わり、銀行口座に貯蓄される。この、自動換金される事が、Sが紙ではなく、電子マネーでなければならない理由だ」
金持と理沙は、食い入る様に図を見詰めている。説明自体は簡単だ、三種類あると言っても、大きく分ければ、『有効期限が来ると無くなってしまうもの』と、『自動的に円に換金されるもの』があるだけだ。
「三つのSの発行割合は、RS一〇% YS六〇% BS三〇%とする。一見、使うときに面倒そうだが、そうでもない。便利だぜ、Sカードは……自動的に期限の切れそうなものから選んで払ってくれるんだ」
どうやら、金持も理沙も、図の説明には納得が行ったようだ。英章はそれを確認して、話しだした。
「佐賀銀行は日和花道のメインバンクなんですが、今回の話にとても協力的です。S口座は地域密着の佐賀銀行でしか作れない事にしようかと思うんだと言ったら、物凄く喜んでました。Sカードも自前で発行してくれるそうです。銀行カード、クレジット、Sカードがひとつになった統合カードになります」
「談合か……発行割合には何の意味があるんだ」
「実はあまり大きな意味はない。消費をスピードアップさせるために、早く使って欲しいんだが、全て一ヶ月で使えといわれたら、不満が大きいだろ? だから、BSを六ヶ月とする事でバランスをとっている。本当は一年でも二年でも良いんだがな。国が決めたルールだから、これ以上にはできない。BSを三〇%としたのは、家計に対する貯蓄の割合だ。現在の日本人の家計に対する貯蓄率は7%程度、スウェーデン、ドイツについで第三位だ。本当はもっと貯蓄したいだろうが不景気でできないんだな、かわいそうに。ちなみに、景気の良かった二十年前の貯蓄の割合は一五%程度だ」
何の説明をしているのか分からない――金持はそんな顔をしている。しかし、鍋島は構わず、話し続けた。
「BSの役割は貯蓄して下さいと言うメッセージを送る事だ。全部使えといわれたら、使いたくなくなるのが人間の性分。だから、はじめから貯蓄して下さいとお願いするのさ。それから、普通は家計に占める貯蓄率は七%ですよ、と教えてやる。BSの三〇%は、日本人の貯蓄の欲求を満たす数字だと考える。三〇%貯蓄したら満足し、安心して残りの七〇%を使うんだ。消費する時の安心感は大事だ。つまり財布の紐が緩くなると言う意味なのさ」
「三〇%も貯蓄させて良いのか?」
「前にも言ったが、前回の地域振興券のうち、貯蓄に回ったのは七〇%弱だ、推定で六五%から七〇%が貯蓄に回ったと言われている。これでは効果が無くて当然だ。しかしSは、はじめから貯蓄の適正な割合を教えてあげているのさ。本来の家計では七%しか貯蓄できないところ、Sをもらえば三〇%も貯蓄できるんだ、とな。本当は七〇%が貯蓄に回るところを、三〇%に抑えられているとも知らずに……。しかし、満足度は高いんだ。方便ってこう言う事だろ。使えば景気は上がるんだ。結局騙されたほうが本人達のためなのさ」
「県民はそんなに馬鹿じゃない――自重したまえ」
「もちろん、県民は馬鹿じゃない。だからこそ、Sを使うさ、使わないと損なんだからな。賢い県民は使ったほうが景気の下支えになるとわかっている……。それと、もう一つ、Sを使いたい理由をもうひとつプレゼントだ」
「なんだ」
「Sを使うと、県内で生産される農作物が格安で買えるんだ。県民は食べる事に困らなくなり、さらに財布の紐が緩くなる。県内の農作物の需要が上がり、農業は潤い、生産者数も生産効率も上がる。品質も生産量も向上を続ける」
「そんな事六ヶ月の短期間では期待できない。それに農作物を安く売った分の補填はどうするんだ? 結局生産者に跳ね返るんじゃないのか?」
「おっと、まだ言ってなかったな。補填分として、BSを払う。BSは円と変わらないから安心して農家は生産するだろう。更に、日和花道の新事業で、派遣会社を始める。県の嘱託職員を斡旋する専門会社だ。しかし、蓋を開ければ、県の運営を一手に引き受ける。戦略的な利益追求会社なんだ。県民サービスに関わる以外の公務員は最低限まで削減して、嘱託職員に切り替える。実は、公務員より給与を上げる。もちろん、能力によるがな、公務員の中でも、自分の実力をもっと発揮したいと言う意識の高い人材が日和花道に集まってくる。給与は国が定める最低雇用金額で雇用するが、それとは別にSで支払い、総額は公務員よりも高くなる。県の人材と仕事をどんどん日和花道が奪っていくのさ」
「県の仕事の中身だけを、全て英章の会社が乗っ取ってしまうと言う事か……それでは腐敗が蔓延する――いや、今とて腐敗が無いわけではない。むしろ、減るかも知れんな、社長が英章君ならばな」
英章は、金持ちに評価された事が嬉しかった。まだ、評価されるほど、自分を見てもらったつもりは無いが、龍造寺金持ほどの人物が、根拠もなしに、こんな事を言うわけがない。
「それから大事な事だが、Sは六ヶ月限定の地域振興券ではない。国は六ヶ月限定のつもりで発行するつもりだろうが、佐賀県だけは永遠に続くのさ」
「どう言う事じゃ、発行から六ヶ月で期限が切れるはず……」金持は、そうかと膝を打った。鍋島のペースにはまったのかもしれない。「つまり、六ヵ月後に再発行すると言う事か。再発行されれば、Sの寿命はまた六ヶ月伸びるというわけじゃな、しかしそのときに財源はあるのか?」
「おしいな、Sを電子マネーにしたもうひとつの理由――使った後のSの行方だ。前回の地域振興券は、ほとんどが一回限りでその寿命を終えた。消費者が小売店で使い、小売店はすぐに円に換金すると言うのがほとんどだった。しかし、Sは違う。消費者が使ったSは、小売店の口座、つまり法人Sカードに移動される――正確には移動ではなく、再発行されるんだ。Sは使って持ち主が変わると、再発行され、受け取ったときには寿命が延びる。つまり使われる限りなくならない――そう、無から生まれた八〇〇億円どころか、ほとんどのSは円に換金されないのさ、再発行にもルールがある。YSはそのままYSに、RSはYSに再発行され期限が延びる。ただし、BSは最初に説明した割合、RS一〇%、YS六〇%、BS三〇%となる」
「なるほど、Sの特性はわかった。消費のスピードが上がれば、経済効果も上がる。しかし、地域振興券のもっとも大事な目的を果たせていないな。その役割は消費の呼び水となって、消費者の貯蓄を切り出すところにあるのではないか? これでは、BSによる貯蓄が増えていくだけで、現在までに貯蓄された県民の預金が消費には回る事はない」
「その通り、だが、はじめに言った筈だ。消費が増えれば、使われるのは円でもSでもかまわないとな! 俺達は、はじめから円などには期待していない。もっと言えば、俺達の目標は、いつまでもデフレから抜け出せない無能な円からの脱却! 佐賀自国通貨Sを作る事なんだよ! 談合といったな龍造寺金持よ。ああ、そう呼んでも良いだろう。ただし、佐賀県全体での談合だ。しかし、それは民意と何の違いがあるのだ? 佐賀はSを基本通貨とし、最終的には円との為替レートを設定し、貿易黒字を作る。貯蓄が増える? かまわないさ。佐賀は日本で唯一デフレを脱却して佐賀県民は金持ちになるんだ! 貯蓄は増えて当然だ!」
「そんな事……第一地域振興券が使えるのは佐賀のみだ。為替レートなど無意味だ」
「ああそうだな。使えるのは佐賀だけだ。しかし、日本人全員がSを手にしたとしたらどうなる? 使えるのは佐賀だけだ。どうなるんだ?」英章も理沙も、こんなに興奮した鍋島を見るのは初めてだった。しかし、その理由に、二人とも、うっすら気が付きつつあった。
「金持さん。私達は、佐賀の特産品をインターネットで、全国、世界に売りたいと思っています。そのときにポイントとしてSを配るんです。Sポイントをもらった人は、Sは佐賀でしか使えないのですから、また佐賀で買い物をします。もちろん品質が良くないとリピーターも増えませんが、真摯にその努力を続けます。葉隠れ魂をもって……。佐賀城築城のために必要な資金は、全てBSで支払います。賃金としてSを手にするのは、はじめは公共事業に携わるものだけですが、やがて、佐賀県民のほとんどがSで給与をもらうようになります。貯蓄は怖いので、円でするでしょうが、消費するときには、Sのほうが有利なんです。食料が安く買えますからね。円でSを買う人は大勢いるでしょう。そして、Sが信用を手に入れたとき、立派に独自通貨として通用します。発行数は、用意した財源の二倍です。やがて佐賀県は県の予算のほとんどをSに変換するでしょう。だって、県予算が二倍になりますからね。佐賀しか売ってないものを手に入れたいとき、円よりも、Sで買ったほうが、たくさん物が買えるとしたらどうでしょう。佐賀以外の人も円でSを買い始めるのではないでしょうか。これって立派な自国通貨ですよね?」
「しかし、佐賀は国家ではない。国が法律を変えたら、全てのSが円に換金される事になるぞ」
「おじいさん、佐賀県は国になるのよ。独立して、佐賀国になるの」
「おじいさん? 佐賀国?」
理沙は臆面もなく金持の事をおじいさんと呼んだ。それは少しだけ、ゲンじいとイメージを重ねていたからだった。
「もちろん――佐賀が必ずしも独立する必要はありません。これは国への問題提起です。その時は国も気が付いてくれるのではないでしょうか。Sの価値に……日本国がしなければならない事を佐賀が成功させたとしたら――佐賀発の革命を国は受け入れざるを得ないでしょう。もし、国がSを、佐賀を潰しに来るとしたら、そのとき日本はもう、滅亡してしまうべきなんです。だから、そうならないようにS革命の申し子達を、全国、世界に発信するんです。佐賀独自の教育によって、葉隠れ魂を受け継いだ若者達が日本や世界を変えるんです。美徳と誇りを持って他者を尊重する考えが世界に広まれば、きっと戦争もなくなります。戦争を無くす方法は、唯ひとつ、心の教育であると思うんです」
――沈黙が四人を包んだ。
金持は天を仰ぐように、顔を上に向け、目を瞑った。それが何を意味するのか、英章達には分からなかった。英章は、金持が目を開けるまで、ゆっくりと待って話し始めた。
「佐賀の発展を一番願っている人って誰かなって考えたんです――失礼ながら、龍造寺グループの営業内容を確認させていただきました。あなたは佐賀の景気を上げる事を考えて経営されていたのではないですか? 他人を信頼できず、いえ、あなた程の能力のある人間はいなかっただけなのかもしれません。だから、貴方は全ての事を自分でやった。そして結果的に出来上がったのは龍造寺グループ……。でも、そろそろ託してみませんか? 信じてください。佐賀の次の世代を」
「次の世代か……経斎君。お前も佐賀を支えていくのか?」
「ああ、あんたの為じゃないがな……」
(やっぱり……鍋島は金持さんにフルネームを名乗っていない……金持さんは、鍋島の事を、初めから知っていたんだ)
「わかった。出そう八〇〇億円を、しかし、お前達を信じたからではない。ご先祖様に手を合わせて約束したからじゃ。天守閣の再建をいたしますと……」
「ありがとうございます。きっと、金太郎さんの思いを引き継いで見せます」
「そんなに簡単な話ではないぞ。個人としてそんなに大きな額を動かすわけにはいかん。反対する者も多いじゃろう……」
英章は、金持が具体的な誰かを思い浮かべて話しているのだと感じ取った。自分たちの思いをぶつけに来たのだが、受け取ってもらった後に初めて、受け取る側の覚悟の大きさに気が付いた。そこまで考えがいたらなかった自分を恥じ、改めて襟を正す思いだった。
「いや……今思えば、そんな大した物ではない……。もっと、こう、単純な……そうじゃな、有名なあの言葉の意味がようやく分かった気がする『そこに、山があるから』ただ登りたくなっただけなんじゃよ。しかし、山に登れば、いつかは下山しなくてはならん。例え、山頂に届かなくても、下りる事を考えずに山に登ってはならんのじゃ。今がその時だと言う事かもしれんのう……」
金持は、ここにはいない誰かに語り掛けるようにつぶやいた。
「金持さん、大変失礼ですが、鍋島を――鍋島経斎を、なぜご存知なんですか? 誰も、彼のフルネームをお伝えしておりません――実は、弊社、日和花道に日本人総家系図と言うサービスがありまして……鍋島はユーザー登録していないんですが、もし良かったら、金持さんも登録して見ませんか? 結構面白いですよ」
「英章先生……それって……」
理沙が驚いた顔で質問しようとしたが、それを鍋島が遮った。
「それは、俺から話そう、龍造寺金持。俺は、ずっと、あんたを敵だと思い、あんたを超える為に自分を磨いて来た……。しかし、この仕事で俺はあんたを超える――超えて見せる。そして、返すつもりだ、あんたが振り込んだ、俺と母の生活費を……」
「鍋島君……」
「そうか、色々と、悩ませてしまっていたのじゃな……申し訳ない事をした。確かに、経斎には龍造寺家の血が流れている……しかし、少し、勘違いがあるようじゃな、経斎の父親は、ワシの腹違いの弟―つまり、経斎はワシの甥に当たる」
「なっ……甥?」
鍋島は絶句したまま、体を硬直させている。母親の銀行口座に、毎月振り込まれる名義人が、龍造寺金持である事を見つけた時から、金持を父親だと勘違いし、そして、敵と決め付けてきた。鍋島にとっては、報われない母の思いと、満たされない父への感情を、父親を越える事で昇華させる――それが、目標であり、生きる糧でもあった。しかし、実はそれが、全くの勘違いであると知った時、彼は何を感じ、何を思えば良いのだろうか。
「ワシの義理の弟――経斎の父親は、それは、心のきれいな男じゃった……。わしは奴が好きじゃった、雑なわしと比べて、何をなすにも、優雅で繊細で……憧れに近かったかもしれん、五歳も年下の義弟に、わしは憧れておった。公には龍造寺家の一員とは認められなかった義弟とその母親は、先代の屋敷を離れて、二人でひっそりと暮らし始めた。しかし、わしは家の者に内緒で会いに行っていた、心から、本当の弟だと思って接していたんじゃ。やがて二人とも成長し、会う事も少なくなった、ずいぶん経ってから、嬉しい報告を聞いた――大切な人が出来た、お腹には子供も……とな。しかし、弟はその後、すぐに行方不明になってしまった。わしは手の尽くせる限り探し回ったが……見つからなかった……」
金持が話し終わった後、長い時間が過ぎた。時間にすれば数分、いや数十秒だったかもしれない。しかし、その場にいた全員が何時間も黙っていたように感じていた。その静寂を打ち破ったのは理沙だった。
「良かったね……鍋島君」鍋島は感情の無い人形のような目で、ゆっくりと理沙の方を向いた。やはり言葉は出ない。
「だって……おじさんがいるってわかったんだよ。最大の敵が最強の味方になったのよ」
鍋島の表情は変わらないままだ。何年も思い続けたその心は簡単には変えようが無い。しかし、その長い時間のおかげで強い精神力を養う事が出来たのも事実だ。それから、鍋島は理沙と出会ってから、意味不明な他人の思いを考えると言う事を学んだ――理沙を気遣う優しさを持つまでになった。
「理沙……そう考える事にするよ……。でも、今はもう少し待ってくれ、時間が……必要だ……」
「鍋島君……あなたが成すべき事は何? 敵に打ち勝つ事でしょう? その敵が今、変わったのよ。昨日の喧嘩に引き摺られていたら、今日の戦争に負けるわよ」
「……」
「私たちの敵は、私たち佐賀県民を不幸にする良くわからない何か。そう言う事でしょう」
「理沙……言ってくれるな」
鍋島はそう言うと、顔を上げた。見上げれば、そこには日照紋――龍造寺家の家紋があった。目にするたびに奥歯を噛み締めていたのだが、それは幻想だった事を知り、心が空っぽになった様な虚無を感じた。しかし、だんだんと、その虚無を暖かいものが満たしていくような感覚も訪れた。鍋島は、今まで自分が何を望んでいたのか知らなかった。敵を倒す事を望んでいると思い込んでいた。しかし、本当に欲しかったものは何だっただろうか、敵を倒すと決める前に望んでいた物とはなんだっただろうか。
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