第8話 悪い予感
鍋島は言いたい事を全て言い終えて、理沙の反応を待った。理沙は黙ったまま俯いて、立ちすくしている。しかし、暫くすると、一旦は離した鍋島の手首をもう一度掴み、さっきよりも速いスピードで歩き出した。
思わず、全力で理沙に説明をした鍋島だったが、今更になって、なぜ、自分がこんな事をしたのかが分からなかった。理沙に説明したところで理解されるとも限らない。それに、初めからだんまりを決め込んでいれば、今頃、こんなところまで引っ張ってこられることもなかったろう。これまで、自分の周りに壁を作り、頑なに人を遠ざけていた鍋島にとって、一瞬で壁を突き破った理沙は不可解の塊だった。何故か理沙の手をふりほどけないまま、なすすべも無く引っ張り続けられた鍋島だったが、ふいに理沙の手の力が緩んだ。鍋島は、さっと手を引き、一言ってやろうと顔を上げた。こんな時には何と言えば効果的だろうか、そんな事を考えてしまうような男だ。何を言うか決定し、その言葉を発しようとした時、理沙の後姿がドアの向こうへ消えて行った。理沙を閉じ込めたその扉には『ワンダーボーイ』と書いてある。
結局到着してしまったのだ。しかし、これで鍋島の手にかかった呪縛は解けて自由を得た。このまま帰る事もできる――が、彼の背後に、いくつかの黒い影が現れ、それを妨げた。
「君も関係者のようだね。一緒にきたまえ」彼の手は、また不自由になった。
今度は、魔法ではなく、抗えないほどの強い腕力で腕を引っ張られる。鍋島は無理に引き剥がす事はしなかった。多分、痛いだろうと思ったのがその理由だ。
黒い影達に掴まれたまま、鍋島が店に入ると、目の間に、理沙と大野が抱き合っている姿があった。その隣には制服の警官――そして、三人の向う側にはワンダーボーイのオーナーが頭から血を流して仰向けに倒れている。その顔は苦虫を噛み殺したまま息を引き取ったような――そう、そこにはありありと死の影があった。
あまりの急展開に、鍋島は言葉を失った。勿論、英章と理沙も同じ心境だろう。それに相対するように、制服警官と、鍋島を連れて店に入ってきた男達は、冷静に、淡々と対処を行っていく。
「救急車は――必要なさそうだな。とにかく状況を説明してもらえますかな、大野さん……でしたよね。通報されたのは」
(床には沢山のゲームソフトと一万円札が散らばっている。これはどう見ても……。やってしまったのか大野英章。それとも、やったのは、あいつらの方か? しかし、凶器は……。死因はなんだ?)
「あの……失礼いたします」制服を着た警察官が話し始めた「まず、一一〇番通報へ、男性の声で、『早く来てほしい』と連絡があり、最寄りの交番にいた私の所へ、現場へ行くように、との連絡がありました――で、その後、所轄へ連絡が入ったのだと思うのですが――」
「ああ、到着が早かったでしょう? たまたま別件で、丁度、このすぐ裏におりましてね。人が死んでいると連絡があったと言うので、駆り出されたのですよ」
「あ……あの……。私は塾の講師をしています。大野英章です。うちの生徒がこの店にいると聞いて、探しに来たんです。しかし、生徒達はおらず、オーナーさん――だと思うのですが、この様に倒れていて……」
もう一人の私服刑事らしき男に、腕を掴まれたままの鍋島が口を挟んだ。「オーナーとは面識がある。鯨間(くじらま)オーナー本人で間違いないな」
「君は誰かな?」恰幅の良い、経験豊かそうに見えるダンディーな男が、鍋島に質問した。謎の黒い影達は、現場近くを通りがかった警察官だった。蓮池警部補は、鍋島がこの店に来た事のある客だと言う事を聞き、大きく頷いてから、特徴的な低い声で英章に話しかけた。
「ふむ……。後で、裏は取りますが、被害者は店のオーナーの鯨間さんと言う事で、話を進めましょう。探しに来たと言う三人の生徒さん達の名前を聞かせていただけますか? それから、そちらの、お嬢さんのお名前も良いですか?」
「は、はい。この子は同じく塾の生徒で飯盛理沙。今到着したばかりです。そちらにいる、鍋島経斎と一緒に……」
「あと、詳しい事は署のほうで伺いましょう。ご同行いただけますか? 一応、任意と言う事になりますが、お断りはされないでしょうな? そこのお二人さんは、店に入るところを私も目撃しているので、関係はないかと思いますが、念のためご同行願いますよ」
鍋島は、やっと、緩んだ警官の腕力から解放され、英章と理沙を追い越して、死体に近づいた。
(大野英章には殺人を犯す動機が無いな。状況もよく把握できていないようだし、あいつらを追って店に到着した時にはオーナーは亡くなっていた――少なくとも、大野英章は、人が死んでいると通報している。そうすると、殺害したのは不良たち……。しかし、あいつらにも、そんな度胸があるようには思えない。しかも、大事な金づるだ。殺して得もないし、殺さなくてはならないほどの弱みを握られたとも思えない。衝動的に、と言う事も考えられるが、あいつらは、ここに、交渉に来たはずだ、しかも、オーナーにとっても悪い話ではないはず……口論になって衝動的にと言うのは、少々無理がある)
「鍋島君……」理沙は、相変わらず、動揺したままだ。その声はか細く、鍋島の耳まで届かないほどだ。
(大野英章が、いきなり店に飛び込んできて、興奮したまま喚き散らした事に、オーナーが腹を立てて、そのままもみあいになり、何かの弾みで……あそこに落ちている血のついた小さな金庫で後頭部を殴ってしまい、オーナーは仰向けに倒れこんだ……。しかし、後頭部を殴られて、倒れるなら、うつ伏せだろう。でも、即死ではないなら、自分で寝返りを打ったと考えれば……つじつまは合う。しかし、大野英章はそんなに足が速いのだろうか……でなければ……)鍋島は、はっとしてあたりを見回した。この事件に興味津津に食いついている自分に気がついたのだ。そして、改めて自覚する。自分は人格破綻者なのだと。
感情と言う物の処理方法が、どうやら人と違うらしい――そんな風に、鍋島が初めて思ったのは、小学四年生の時だった。教室のガラスが割れて、クラスメイトの一人が、ひどい怪我をした事があった。周りにいた生徒たちは、驚きの声を上げ、女の子の中には、泣いてしまう子もいた。ほとんどが、これほどの血の量を目の前で見たのは初めてだろう。しかし、鍋島は初めてではなかった。慣れているわけではないが、もっと沢山の量の血を見た事があったので、それほどの大事件には感じなかった。担任の大矢加奈子が、生徒に呼ばれて教室に入ってくると、血相を変えて、慌てふためいた。鍋島は、自分の体育ジャージを取りだして、怪我をしたクラスメイトの傷口を圧迫した。それを見た大矢加奈子は、大きな声で鍋島を叱責した、勝手な事をするんじゃありません――と。
何をどう考えても、出血を少なくする事が第一優先だ。圧迫して、更に傷が大きくなるほど大きな破片が刺さっている様には見受けられない。別に、おう吐物を拭いた雑巾で押さえているわけではない。幼い鍋島が、自分のジャージは清潔ですよと、冷静に反論したのが行けなかった、彼女は逆上し、鍋島の頬を叩いた。
パチンと言う大きな音が教室に響いた後の一瞬の静寂の内に、鍋島は、圧迫した傷口から手を離し、血で汚れた手を洗う為に教室から出た。入れ違いに保健師の先生と何人かの男性教員が入って来た。廊下にあった水道で血で汚れた手を洗っていると、鍋島の後ろを、怪我人が抱きかかえられてバタバタと通り過ぎて行った。保健師は、鍋島のジャージを使って同じように傷口を圧迫していた。
(ほうら見ろ、俺の処置は正しかったろ? そう、保健師は判断したようだぞ)と思いながら、教室の中を覗き見ると、大矢加奈子は、まだ、放心したまま青い顔をして立ちつくしていた。鍋島はその姿を見て、立ち向かうべき、理解の無い教育者と言う風には見る事が出来なくなってしまった――哀れな一女性に見えた。
彼女は教員としては失格だったかもしれない……。でも、正常な人間の反応と言うものは、こう言うものではないか――大矢加奈子の方が正しいのだろう、鍋島はそう思い、自分の方がおかしいのだと決定付けた。
遺体をまじまじと観察しながら、鍋島は自嘲気味にニヤリと笑った。
(はなから普通だとは思っていない。周りの人間が異端視する事にも慣れてきたが、具体的に自分で実感するのは、あまり良いものではないな……)
そのとき背中に誰かが寄りかかってきた。
かすかに声が聞こえる。
理沙だ。
鍋島の両肩に、後ろから置かれた理沙の両手が、震えていた。
(これが普通の人間の反応だな。さっきまで、凄い勢いだった理沙が、今では、怯えたシマリスのようだ)
鍋島は理沙の方へ振り返り、その両肩を、戸惑い気味に支えながら、警官に促されるまま、パトカーへ向かった。
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