第9話 鍋島、振り回される
「鯨間さんかわいそう……。なんで、あんな事に……」
理沙が泣いている。大粒の涙をいくつも流し、声を上げてないている。なんだろう、この違和感は……。窮屈な空間を、やっと抜け出し廊下に出ると、先に事情聴取を終えた理沙が、警察署らしい素っ気ないベンチに座り、人目もはばからず泣いている。理沙にとっては初対面――と言って良いのだろうか、知らない人間の死体に対して声を上げて泣くと言うのは、彼女の中でどんな化学反応が起こった結果なのだろうか、わからない。
「ねぇ、鍋島君……大野先生どうなると思う?」
嗚咽を上げながら、今度は、もう大野英章の話をしている。理沙の頭の中はどう言う構造になっているのだろうか、まったく謎の生物としか例えようがない。
「俺の予想でかまわなければ話すが……。文句を言うなよ」
文句を言うなと前置きしたが、恐らく非難を浴びるだろう事は容易に想像できる。こう言う時、人は自分の希望通りの答えを欲するものだ。
「かまわないわ」
理沙は急に真剣な面持ちで、こちらへ真っ直ぐに向き直った。
「――これまで警察と話した内容からすると、どうやら、殺人の疑いありと言う捜査がされているようだ。大野英章は容疑者の一人と目されているらしい。検視結果が出ないと断定できないが、どうやら後頭部への打撃が死因であると目されているようだ。そうとは話さないが、さっきの警察官の口ぶりではそのように感じた」
思いのほか、冷静に、そして真剣に、理沙は黙って話を聞いている。こんなに真っ直ぐに見られていては話しづらい。
「――つまり、悪いほうに取れば、現在のところ、これは殺人事件としても捉えられているわけだ。容疑者は大野英章、それから、あいつら――警察には俺が話したが、東川、南田、北本の四人が重要参考人と言うところだろう。お金がそのままになっていた事から、窃盗目的ではなく、顔見知りの反抗で、怨恨か突発的な喧嘩の結果と言うところが妥当な線だろうな」
しかし、不可解な点は残る。大野英章が鯨間を殴ったとして、そんなに早く絶命できるものだろうか。大野英章が店に到着してから、俺と理沙が追いつくまで、数分の差のはずだ。それに、制服の警官は交番に連絡があったと言っていた。交番は塾と同じ通りにあって、塾よりも店から離れている……。先に店に到着するには、どこかで、俺達を追い抜かなければならない。緊急事態にわざわざ遠回りすると言うのは不自然すぎる……。
「ねえ、私は……。私は何をしたら良い? 教えて鍋島君!」
これからどうなるのか、予測のつく範囲では答えられるが、理沙がする事は、正直言って何もない。刑事事件であれ、事故であれ、素人の出番など、およそあろうはずがない。
「え? ま、まあ、がんばれよ」
とっさに出た言葉は、これだった。改めて考えても、これがベストアンサーだろう。
「がんばれって何をよ!」
泣いていたかと思うと、今度は怒った……。「なにをって、何もする事は無い。これは警察の領分だ。大野英章が殺人を犯していようがいまいが、警察が十分な証拠を揃えれば起訴されるんだ。それに……」
「それに?」
「それに、お前には大野英章のために何かする理由が無いだろう」
「理由? 大野先生は私達の先生よ?」
全く持って理解不能だ。まさかの返答に、用意していた答えが使えなくなってしまった。更に、この真っ直ぐな目はどうだろう。理沙に長い事見つめられ過ぎて息が詰まり、思わず理沙の目から視線を逸らすと、そこには窓があった。朝から続く曇り空だったが、今は、夕暮れに景色が赤く染まっている。しかし、小雨も降っているようだ。もしかすると、西の空は雲が薄いのだろうか、もうすぐ雨は上がるかもしれない……。理沙の心の中と、空の天気には何かリンクが貼られているのかと、ふと、思い浮かんだ。これまで見た記憶がない、鮮やかな夕日色の小雨が、理解できない理沙の思考回路と、何となく重なって感じた。どうも理沙と話していると調子が狂う。中古ソフトの販売に協力させたあいつらは、簡単に丸め込む事ができたのに、理沙に対しては上手くいかない。少し恐ろしくさえ思えてきた。太古の昔から、人は正体のわからないものに対して恐怖感を持つようにプログラムされているのだ。
「先生だから? それが理由になるのか? じゃあ、塾の理事長が罪を犯したらどうする? 県知事が、総理大臣が罪を犯しても、お前はそのために何かをすると言うのか?」
理沙のような人間を、お節介の典型と言うのだろう、いや、典型ではなく、ひどいお節介だ、その及ぶ範囲が広すぎる。少々意地悪ではあるが、常識的なお節介のエリアラインを自問自答してもらう必要がある。
「――わからないわ。でも、しなければいけないと思うの。何故だかは――説明できない。だから、行動して、あなたにやって見せて……それだったら、説明はいらないでしょう? だからついて来なさい! 私に」
どうやら、期待通りに自問自答してはくれなさそうだ、しかし、興味も出てきた。自分の実力の外側にある問題に対して、どうアプローチするつもりだろう。そして、どう抗っても何も出来ないと解って打ちひしがれた時に、どう折り合いを付けるのだろうか。
「――気は進まないが……。で、どこへ行くんだ?」
「えぇっと……。どこに行けば良いと思う?」
全く持ってあきれ返る。偉そうに命令したかと思った途端に指示を得ようなんて、本当に何も考えていないのだろうか。ああ、きっとそうだ、理沙は脳ではなく、脊椎によって行動しているのだ。思考の結果による行動ではなく、脊椎の反射による行動をしているのだろう。
「昆虫に近いな……まあ、そうだな、以外と――彼女の所かな」
「コンチュー? 彼女?」
「そう、彼女、鯨間の彼女、たしか名前は春日だったかな――その女の所だ。鯨間は、中古ショップの二号店を出したら、俺たち結婚するんだ――と話していたのを聞いた事がある。警察が事情聴取しているのは、今のところ俺とおまえ、それから大野英章と、同じく容疑者のあいつらだけだ、被害者の身辺調査は、まだ、始まったばかりだろうから……」
「そうか! 婚約中の彼女さんには、早く知らせてあげなきゃいけないね! 可哀想に……。いったいなんと伝えたら良いんだろう……」
お節介の範囲が広い。婚約中かどうかは知らないが、近いものではあるだろうから、否定はせずにしておこう。それを訂正すれば、コンヤクチューではなく、昆虫と言ったのだと言う事と、なぜ昆虫と言ったのかを説明する必要が出てくる。昆虫は、はしご状神経によって、ほとんどの動作は反射神経的に行動をしていると言う所から……。
「彼女に知らせるのも大事だろうけど、それよりも……。いや、まあ良い、行くのかい?」
言葉を発した時には、 理沙は既に警察署の出口に向かって歩き出していた。
大げさに肩をすくませるそぶりをして見た。ハリウッドの俳優気取りで、始めてこんな仕草をして見たが、以外と、呆れてものも言えない理不尽な気持ちを解消してくれた。これは新たな発見だ。
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