第6話 悪い事



「俵先生すみません、大野先生いますか?」 

「おお、理沙か。中間テストの報告か? 大野先生なら鍋島と教室で話しているぞ。進路の相談なら、私でもかまわないが?」

「いえ、あの、社会の問題で質問が……。鍋島君……と言うと、あの、理数系では常にトップクラスの鍋島経斎(なべしま つねなり)君ですよね」

「ああそうだ。僕が数学を受け持っているがありゃ天才だな。しかし、天才ってのは問題も――今回は、不良グループを使って、塾の生徒達に、ゲームを貸している――らしいんだ」

 理沙は、俵先生が言い淀んでいる事が気になった。

「それで、私から、大野先生にお願いして、鍋島に話をしてもらっている、と言うわけだ」

「無理やり貸し付けて、お金を取っているんですか?」

「それが違うんだ、貸しているのは無理やりに近いところはあるんだが、全てタダらしいんだ」

 理沙は英章がいなかった事を残念に思いつつも、鍋島の不可解な話に、少し興味を持ち始めていた。無料で友人たちにゲームを貸し与えている……それは一体、先生に怒られなければならないほど、悪い事なのだろうかと疑問に思ったが、信頼する数学の塾講師である俵が言っている事なので、何かしら問題があるのだろうと、ぼんやり思った。

「無料でゲームのレンタル屋さんをやっているんですね? ボランティアですか?」

「それがそうとも……天才の考える事は、良くわからん。それもあって、大野先生に助っ人をお願いしたんだ。大野先生は、学歴もあるし、人柄も良い。実家はお寺で、お坊さんで――そうか、理沙の家は、大野先生のお寺の檀家さんだったな。その辺りは、理沙の方が詳しいかな」

「大野先生には、小さいころからお世話になっていますよ。お寺に行くと、いつも飴をくれるんです。今でもね」そう言うと理沙は笑った。「先生からみれば、まだまだ、飴をあげたくなるような、子供にしか見えないのだろうけど……」悔しい気もするが、嬉しくも思っていた。理沙は早くに母を亡くしたせいもあって、しっかりとしていると言われる事が多かった。実際に、しっかりしている方だ。家の事はトイレ掃除意外は、ほとんど自分でやっているし、どれも、上手にこなしている。涼子が願っていた、ゆっくりと大人になってほしいと言う願いとは逆になってしまったが――英章だけが、今でも、理沙を子供扱いしてくれるのだ。小さな頃はえいしょうちゃんと呼んでいたが、今では人目をはばかって、大野先生と呼んでいる。

「中古ゲームソフト店にも出入りをしているらしい――まあ良い。そろそろ終る頃だろうから、教室へ行ってみると良い」

「はい……行ってみます。ありがとうございました」

「うん、お父さんによろしくな」

 塾講師の待機場――職員室と言った方が通り良いだろうか、そこから教室へ行くには、長くて急な階段を上る必要がある。理沙はこの階段が嫌いだった。短いスカートでは下から男子に覗かれて、からかわれるのだ。あのこは何点だの、理沙は色気が足りないから減点だのと……。男子はいつの時代にも、女の子に点数を付けたがる。彼らは、自分は何点だろうか、などとは考えた事もないだろう。それが健全な男子と言うものなのだが……いつの時代にも、女子には全く理解できない。

 一郎から、総理大臣になる方法なら教科書に載っている、と言われ、社会科の先生に聞いた方が早いと、話しやすい、英章を当てにして来たのだが、どうやら先約があったようだ。理沙は鍋島と言う生徒と話しをした事はないので、二人の様子を伺ってみて、込み入っているようなら、今日は諦めて帰ろうかと考えながら、人の少ない、日曜日の塾の廊下を歩いていた。理沙はこの静けさが好きだった。何だか特別な時間を過ごしている様に感じるからだ。いつもは沢山の生徒たちであふれている教室や廊下を、独り占めしている様で、なんだか楽しくなる。

 教室へ近づくと、だんだんと、二人の会話が聞こえてて来た。どうやら、穏やかにはいっていないようだ。

「鍋島! おまえはそんな方法で三百万円稼いだと言うのか! そんな事をしたら『ワンダーボーイ』のオーナーが黙っていないだろう!」

「そんな事はないさ。オーナーは、一店舗、支店を増やすらしいぜ。感謝されるとしても、恨まれる事はない。そんな事より、あいつらどうするかな? 俺と、あいつらの契約は終了した。これから先の事は、俺に関係ない。でも、こんな儲け話から、あいつらは、簡単に手をひけるかな?」

「何て事を……。お前との話は後回しだ! 改めて、話をするからここで待っていろ、これから僕はワンダーボーイへ行って来る。逃げるなよ!」

 英章は慌てて教室から飛び出して来た。今日は着物では無くジャージ姿だ。理沙に危うくぶつかる所だった。

「わっ! 大野先生」

「理沙か、スマン急ぐんだ。こんな事はやめさせなければ……」言い終る前に大野の姿は見えなくなった。理沙には状況が全く分からないが、いつもは、優しく、落ち着いた英章が、こんなに取り乱しているのを初めて見た。胸騒ぎを感じずにはいられない。

「いったい何事? 大野先生、凄い顔をしていたわ! 追いかけなきゃ、早く! 早く立って!」

「おい何だよいきなり、何で俺が行かなくちゃならないんだ? と、言うか……お前は、誰なんだ?」

「誰って何よ! クラスメイトでしょ? 名前ぐらい覚えなさいよ!」

「名前どころか、顔も知らん」

「ひどい……私は理沙! 飯盛理沙(いさがい りさ)よ! それより、大野先生は何処へ行ったの?」

「ああ――でも、お前には関係ないだろう」

 鍋島は、飄々として理沙の質問に答えた。感情的になっている相手にとって、最もまずい態度だ。相手の感情を逆なでし、感情をむき出しにして争うよりも、事態は悪い方向へ向かっていく事が多い。

「さっきから、よく、初対面で、お前なんて呼べるわね」

「だって、クラスメイトなんだろ?」顔色を変えず話す鍋島に、理沙は思わず舌打ちしそうになってしまった(チッ、小賢しい……)

「私は飯盛理沙よ。とにかく追いかけるの」理沙は、鍋島の腕を掴んで、引っ張り始めた。

「おい、危ないだろ、何をするんだ」

「走らなきゃ見失うわ」

「もう、見失っているだろ? 分かった、教えるよ、『ワンダーボーイ』のオーナーの所さ。だから一人で行ってきな」

「なるほど、で、『ワンダーランド』ってどこにあるの?」

 理沙の聞き違いぶりに、鍋島は、深い溜息をついた。

「お前はアリスじゃないし、俺は、チョッキを着た白ウサギじゃないぞ、『ワンダーランド』じゃなくて、『ワンダーボーイ』だ」

「ふふ、不思議の国のアリスね……鍋島君でもそんな冗談言うんだ」

 理沙は、これまで、怖い顔をして鍋島を睨んでいるばかりだった。しかし、たった今、急に豹変して笑みを浮かべた彼女を見て、鍋島は言い知れない不安を感じた。理沙は全く気がついていないが、鍋島は、少し動揺している。天才とは呼ばれていても、所詮は思春期の男の子だ。そして、これも、理沙は気が付いていない事だが、彼女は塾でも有名な美少女だ――母親である、涼子の面影を強く映している。

「とにかく、説明するから良く聞けよ。大野英章には、良い情報を教えてやったんだ。不良三人組がオーナーと組んで、悪い事するかもしれないぞってね」

「悪い事って主犯は鍋島君でしょ? さっき、三百万円稼いだって……」

「人聞き悪いな。俺はちゃんとルールの中でやっている。それに、あいつらが新作ゲームを欲しいと言うから手伝ってやっただけだ。しかし、あいつらはルールから外れようとしている。俺の立てた作戦を悪用してな」

「どう言う事?」

「オーナー、不良ども、そして俺。全員が儲けたんだ。でも潮時だ。これから先はダメなのさ。今までは、オーナー自身は、俺達が何をしているか知らなかった。つまり、『正常な取引』が行なわれていたんだ。でも、あいつらは、計画をオーナーに伝えようとしている。それはもう談合だ」

 理沙には、鍋島の言っている意味が全く理解できなかった。自分で質問していながら、途中から聞いていないのが主な理由なのだが……。

「よくわからないなぁ」

「解らないのに、行ってどうするんだ?」

 理沙は一瞬ひるんだ。自分の言っている事は根底から間違っているのではないか、子供がわがままを言って泣きじゃくる様な、そんな事を鍋島に対してしているのではないか……そんな迷いが生まれた。でも、それを知るためには、とにかく立ち止まっていては、らちが明かない。それだけは確信していた。

「とにかく、そのワンダーなんちゃらへ行くわよ」

「『ワンダーボーイ』だ」

「なんでも良いわ。とにかく急ぐの。良い事が起こる気がしないわ! さあ早く!」

「この通りをまっすぐ行けば、すぐに分かる。説明は終わったんだから、もう良いだろう?」

 理沙は、鍋島の言う事に耳を貸さず、その手首を掴み、そのまま走り出した。





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