第5話 母の遺した物



 理沙は、今日もいつもと同じように、テニス部が終わった後、学校の帰りに大通りのスーパーに寄って、家に帰ってから食事の支度をする。部活はいつも、ボールが見えなくなるまで打ち合いをしてから、後片付けをして帰るので、家に着く頃にはすっかり日が暮れている。あれから、祠を見つけた小道は通っていない。冷蔵庫の中に食材をためておくのが嫌いな理沙は、毎日のように買い物をするのだが、祠は、大通りにあるスーパーのちょうど裏手の方にあるので、どちらか片方に目的を定めないと、遠まわりになってしまう。それから、どうも、あの祠には、まだ行けないと言う気がしたのも、理由のひとつだった。

(がんばれって、何をがんばれば良いのだろう……。私、そんなにがんばってないのかな?)

 理沙は、ぼんやりと考えながら、醤油と砂糖を取りだし、茶碗に入れてかき混ぜる。この茶碗は、昔、家族で有田の陶器市に行ったときに五十円で買ったものだ。白磁に、藍色が鮮やかなコントラストで、葉っぱをモチーフにしたと思われる模様が描かれている。この茶碗をみると、小さな頃にテレビで見た、時代劇のお奉行様を思い出す。肩がバリっと尖った着物を着ていて、お奉行様と呼ばれる人が、こんな模様の入った襖を、すうっと開けて、長い、長い裾を蹴るようにして歩く姿が脳内再生される。涼子は時代劇が好きだったので、必然的に理沙も見る事が多かった。理沙には、お奉行様の裾が、何故そんなに長いのか、全くもって見当がつかない。しかし、同時に、どうでも良いので、それ以上考える事はなかった。だから、毎回思い出しては、不思議に思い、そして、どうでもよくなって、茶碗の中で照り焼きのタレをかき混ぜる作業に没頭するうちに忘れてしまう。しかし、今回は、全く見当もつかないが、忘れられない悩みが出来てしまった。理沙は、父親を総理大臣にするために、何かをがんばり始めないと、祠に足が向きそうに無い。

 既に、どうでもよくなってしまった模様のタレの入った茶碗をシンク台に起き、フライパンに火をかける。

 神様の存在に対しては、あまり深く考えた事はない――無宗教と言うのだと思っている。もっとも、いても良いのではないかとも思うが、あの、茶髪でスーツの男がそうだとは、とても思えない。しかし、いつの間にか、家の中に入ってきた事は事実だ。実は理沙のあとをつけてきていて、更に、理沙が玄関のドアの鍵を掛け忘れていたとしても、あんな冗談を言うのが目的で家に侵入する若い男など、いて良いはずが無い。そう、あの時、理沙は下着姿でいたのに、何にもしない変質者なんて――失礼極まりない。何かして欲しかったわけではなく、何もされなかったのは、とにかく良かったのだが、その行為を目的に侵入してきたとして、理沙の下着姿を見て、その行為に及ぶのを止めたと言うのであれば、大きな問題だ。

(あの時、上半身は下着姿だったけど、スカートは履いていたから無事だったのかも)

 理沙は、他人には良くわからない理由で、自分を納得させる事ができる。特技と言っても良いかもしれない。学校、塾、買い物、部活と、忙しい毎日を送る理沙の生活の知恵かもしれない。

 そんな事より、フライパンはすでに十分熱々になっている。早く、ブリの切り身を乗せなければ――ブリの照り焼きは、一郎の大好物だ。

 火加減を調節した後は、焼きあがる時間を使って、これまでの調理中に使った茶碗などを洗う。シンクのプラスチック製の白い洗い桶に浸けてあるので、汚れも簡単に落ちる。汚れは、汚れたそばから落としていくのが一番だ。次々に洗い終わり、乾燥機にきれいに並べて行く。そして、最後の洗い物となった、例の茶碗に取り掛かる。ブリ照りのタレを作るのに使った、あの模様の茶碗だ。

(やっぱり、気になるなぁ。お奉行様の模様――何模様と言うのかな? 幾何学模様? 家紋? 陶器市で安かったから買ったんだよね。お母さんに、自分のお小遣いで買うって言って、私が買ったんだった。お母さんは、自分用の小物入れにって、陶器の砂糖菓子入れを買って、私は茶碗を買ったんだ……。百円しかもっていなかったから、五十円で買える茶碗を見つけた時は嬉しかったな。なんだか、大人の買い物をしているような気がして……。でも、お母さんからは、歪んでいるから安いのよ、別のを買ってあげるから――と、言われて、とても悔しくって、絶対に譲らなかったんだよね)

『理沙ったら、茶碗を離さなくて、泣いて、泣いて大変だったわ』

(ないてなんかいないよ!ぜぇったいに理沙が、かうんだって、がんばったただけだもん)

『あら、まあ、自分の都合の良いように覚えているものね、最後は、買っても良いからと言っているのに、嫌だ、嫌だって泣いてね……。自分でも、なんで泣いているのか、わからなくなっちゃったんでしょうね』

(そんな事ないもーん)

「もう、人を馬鹿みたいに言わないでよ、私もお母さんの様に、宝物を茶碗に入れる為に買ったんだからね――宝物を……そう言えば、お母さんも宝物を入れるって言っていたよね。あのとき買った、お花模様の砂糖菓子入れに……」香ばしい良い香りがしてきた。理沙は、焼いているブリをひっくり返した。良い色合いだ。

 理沙は洗い物をしながら、母親と会話する事が度々あった。母の霊が語りかけてくるわけではなく、小学生の頃まで、毎日一緒にシンクに並んで、洗い物をしていた時の二人の会話が、何かの拍子に思い出される事がある。その当時の母と、その当時の理沙の会話が思い出されるのだが、だんだん、小さかった頃の理沙の代わりに、高校生になった理沙が母の問いに答えるようになった。それを理沙は、母と会話していると感じていた。

「お母さん、あの宝物入れ、何を入れてあるの?」

『ふふ、内緒よ。でも、大きくなったら理沙にあげるわね。お母さん、とっても気に入っているの。だから、とっても大事なものを入れてあるのよ』

(へぇー、そうなんだ、はやく、ちょーだいよー)

『だめよー、まだ早すぎるわ。大きくなったら見つけられるところに隠してあるのよ、理沙が大人になったら――そうね、高校生ぐらいになったら、上げても良いかな』

(やったー! 理沙、いそいで、こうこうせいになるね)

『そんなに急がないで理沙……。ゆっくり、ゆっくり大人になってね、そうじゃなくても、子供はすぐに大きくなって、お母さんの手の届かないところに行ってしまうんだから……』

(そんな事ないよー。理沙は大人になっても、おとうさんとおかあさんとケッコンして、ずっとこの家にいるんだからね)

『だめよー。お父さんはお母さんと結婚しているんだから――理沙にはきっと素敵な人が現れるわよ。そして、この家を出て行かなくては駄目よ』

「先にいなくなったのは、お母さんの方じゃない……。ひどいよ……」

 涼子は、この問いに答えなかった。

 焼きあがったブリ照りを皿に移し、今度はサラダを作り始める。レタスと人参スティックと胡瓜のスライス――理沙は簡単に出来上がるサラダが好きだ。スープは冷蔵庫に一週間分のストックがある。煮込んだ後、野菜を取り除いてスープだけにして冷蔵庫に保存しておけば、随分長持ちするのだ。それ以外にも、ジップロックに入れて冷凍保存してあるスープが二種類ぐらいある。

「いただきます」一郎の帰りを待たずに、いつも、理沙は一人で食事をする。今日のブリ照りは、なかなか美味しく、理沙はブリに感謝した。

『ブリのお命、美味しくいただきました』と、涼子がよく言っていた事を思い出した。理沙も、真似して、(ブリのお命、頂戴いたす!)と、アニメの真似をして言っていた。

『ふふ、ちょっと違うんだよねぇ。お命だけをいただく訳じゃないのよ。お命と元気をいただくの。元気良く泳いでいた、ブリの元気をもらって、私たちは生きて行けるの』

(元気良く泳いでたお魚さんを食べちゃうの? 可哀想だよ、理沙、もう、お魚食べない)

『お魚さん、可哀想だよね……でも、豚さんや、牛さんや、野菜や、果物だって、みぃんな、元気に生きているんだよ。そしたら、理沙は何を食べるの?』

(お菓子……ニッ!)ニッと言いながら、歯をむき出しにして笑うのが、当時、流行っていた。

『お菓子ねぇ、お菓子だけ食べて、元気な大人になれるかしら……』

(なれない……気がする)戯けて見せたが、当時の幼い理沙にも分かっていた。元気な食材の方が美味しい事、病気の食材を食べれば、きっと自分も病気になってしまう事、食材になる生き物達を殺してしまわなければ、自分は生きていけない事。しかし、可哀想と言う気持ちは、どうしても消せない。理沙にとっては、始めて直面した、正義と正義がぶつかる葛藤だったのかもしれない。

『だから、手を合わせて、いただきます、と言うのよ。私が元気に生きて行けるために、命を終わらせてしまったみんなに、ごめんなさい、ありがとう、やすらかに、みんなから貰った元気を無駄にしないように、今日、精一杯頑張って生きて行きます――と言う気持ちを一言に集めて、いただきます、と言うのよ』

 理沙は、この話を聞いてから、いただきます、と言わないと、ご飯が食べられなくなった。しかし、友人と一緒にご飯を食べる際に、たまに冷やかされる事がある。例えば、トモカは――いただきますって言われても……奢ってあげないよ、と言って笑った。理沙には、トモカが言っている意味が、すぐにはわからず、しばらく、本気で、その意味を考えた。トモカは、理沙の場合は、お行儀が良すぎるだけなんだよね、とフォローらしき事を言ってきた。理沙が、気を悪くして、黙ってしまったと勘違したのだろうが、そうではない。理沙は、本当に意味が分からなかったのでまじめに考えていただけだった。中途半端にはしてはいけない気がして、しっかりと、トモカに質問した。曖昧では終わらせられない、大切な事だと感じたのだ。

「いただきますって、私が言うと、なぜ、トモカは奢らないといけなくなるの?」

 トモカも、理沙の言っている事が本当に分からないらしく、「いただきますと言うのは、作ってくれた人や、ご馳走してくれた人に言うでしょう?」と、真面目な顔をして言った。更に、こんな話をしてくれた。給食費を払うのは生徒の親なので、本当は生徒が先生に、いただきますと言う必要はないのよと……。

 これを聞いて、理沙は、なるほど一理あるなと思ったので、その後は、家族以外の誰かと食事をする時には、小さく手を合わせ、小声で、いただきます、と言う事にした。これならどこにも角が立たないと、理沙は、我ながら良いアイディアだと思ったのだが、今度は、あまり、仲の良くない女子から、かわい子ぶっていると言われているのが、遠くから聞こえてきた。世の中には、なかなか、八方うまく収まるような事はないんだな、と、理沙は思うようになった。

(こうやって、みんな、周りと協調性をとって、ちょうど良いバランスを保つ事を覚えながら、角が取れて丸くなって行くんだろうな……これが、大人になると言う事かなぁ)

 理沙のブリ照りの腕前は、随分と安定して来た。自信の程が口元に現れている。理沙は、早く一郎に食べさせたいと、時計を見た。丁度、八時を回ったところだ。一郎の帰宅迄にはまだ、ずいぶん時間がある。一郎の分のブリ照りは、程よく冷めていたので、ラップをかけて冷蔵庫に仕舞い込まれた。理沙は上機嫌のまま、また、洗い物を始めた。

 洗い桶に水を張って、食器を水に浸す。先に乾燥機にかけてあった食器を片づけて――その時、忘れていた記憶が、ぼわんと浮かび上がった。

「そうだった。お奉行様の茶碗と一緒のお店で買った、お母さんのお花の砂糖菓子入れ――高校生になったら私にくれるって言っていたんだった。そして、大きくなったら見つけられる場所に隠してあるんだって……」気になったら、居ても立っても居られない。理沙は早く食器を洗ってしまいたいのを我慢して、洗いかけの食器を、洗い桶の水に浸し、急いで手を拭いて、エプロンを食卓の椅子に向かって放り投げた。ふわりと高く舞ったエプロンは、見事に理沙の席の背もたれに着陸したが、それを確認する事もなく、その頃には、理沙の右足は、二階へ向かう階段の三段目まで到達していた。そのまま大きな足音をたて、階段を駆け上がると、涼子の部屋に飛び込んだ。涼子の部屋とは言っても、今は理沙の部屋でもある。探しには来たものの、自分の部屋に、何年も気がつかないまま、宝物が隠されていると思っている訳ではなかった。

(でも、もしかしたら……思い出して! あの時、お母さんは、何と言っていた? 小さい私には渡せないけど、高校生になったら……大きくなったら見つけられる場所……)

 理沙は、自然と視線を上げた。そこには、押し入れの上に、開けた事はあるが、奥まで覗いた事が無い小さな押し入れ――天袋があった。冬物の布団を圧縮袋で薄くしてから、押し込んであるが、背伸びすれば手は届くから、中まで覗いた事はない。早速、足がつりそうになりながら、背伸びをして、圧縮袋に入った冬物布団を天袋から引きだした。次に、初めからそうすれば良かったのだが、椅子を用意して中を覗いた。暗くてよく見えないが、奥の方に段ボール箱がある。布団を押しこんだときに、箱があるなんて思わないから、押されて奥の方へ行ってしまったのだろう。

「うーん、手が届かないな。何か、長いもの……」椅子の上から部屋を見回すと、部屋の隅に置いてある、ハンディ掃除機が目に入った。掃除機の柄を、長いものに付け替えれば、十分に奥まで届く長さになる。

(丁度良いから、掃除もしよう)

 掃除機と懐中電灯を持って、また椅子に上がるが、今度はバランスが難しい。まず、懐中電灯を天袋の中に入れて、掃除機を持って椅子に立ち上がった。中を照らすと、意外と埃はたまっていなかった。冬物の布団を引出してみた後には、段ボール一個だけが、ポツンと残っている――片手で持ているぐらいの小さなやつだ。せっかくなので、掃除機のスイッチを入れて、天袋の中を掃除し、最後に段ボール箱を引きよせる事にした。うまい具合に掃除機の吸引力で段ボールを捕らえる事が出来た。掃除機が甲高い声で悲鳴を上げ始めたが、もうちょっと待ってねと、言いながら、そのまま引きだして、部屋の床に起き、掃除機のスイッチを切った。布団を、もう一度天袋にしまい、部屋に散らばったほこりを掃除機で吸い取り、元の様に部屋の隅に片付けた。やっと、おさまりがついた所だったが、ここへ来て、理沙は、急に洗い終わっていない食器の事が気になり始め、段ボールを持ってキッチンへ戻った。

 一郎の食事の支度を終え、後はお風呂に入って寝るだけ、と言うところまでやり終えて、一郎の向かい側の自分の食卓の席に座り、改めて段ボールを目の前にした。

(ちょっとドキドキするな。箱には何も書いていないから、お母さんのものとは限らないけど、何か懐かしいものは出てくるんじゃないかな)

 久しぶりに涼子の思い出の品に触れると思うと、理沙は嬉しくなった。相変わらず、誰もいない家に帰ってくる事には慣れないが、涼子がいない事にはずいぶん慣れた。理沙は、だんだん大人になっているのだ。嬉しいような、悲しいような――似たような複雑な心理状態を、この年の頃、誰もが経験する。

 ゆっくりと箱を開けて中をのぞくと、そこには、あっけないほど期待した通り、例の小箱があった。それと、封筒が一通……。

「あった……。本当にあった、見つけられて良かった。たまたま思い出したけど、そうでなければ、私が死ぬまで押し入れの奥に入れっぱなしだったわね」

 記憶の中の通りの可愛い小箱が、透明なプラスチックのケースの中に納まっている。小箱もケースも、やけに綺麗で、どうやら買った時のままのようだ、理沙は、結局使わなかったのかもしれないと思いながら、ケースごと手に取った。ケースに貼られているシールには『有田焼・慶びの小箱 赤絵花唐草ボンボニエール 』と書いてある。

「ボンボニエール……。可愛い名前だね。今日から君はボンちゃんだ」

 ボンちゃんは朱色の花を持つ、つる草を描いた、つるんと丸っこい、可愛いやつだった。

 ボンちゃんをテーブルに置くと、続いて封筒を手に取った。封筒よりも、ゴミと化した、段ボールの方が気になった。もう空っぽになってしまった段ボールは、謎の箱から、ゴミに格下げされたのだ。段ボールを折りたたみながら、資源物ゴミ置き場――にしている、納戸へ向かった。帰りに、カッターを持ってきて、また、元の自分の席に座った。

(理沙へ)

 机の上に置いた封筒にはそう書いてある。理沙は胸がずきんとした。間違いなく涼子の字だった。可愛らしい花模様をあしらった封筒の縁から、注意深くカッターの刃を差し込むと、白くて分厚い封筒が、少し抵抗しているように感じられた。それとも、理沙自身が開ける事をためらっているのかもしれない。それでも、きれいに口を切り終えると、中から数枚の便箋を取りだした。

 深呼吸をして、便箋を開く。便箋も、間違いなく涼子の字が書かれていた。これは、どうやら、思い出の品ではないと言う事に、はっと、理沙は気が付いた。出だしには、『大きくなった理沙へ』と書いてある。この便箋は、昔の想い出の品ではなく、今日この日から想い出となる、今日初めて出会った涼子がここにはいるのだ。


――大きくなった理沙へ


 理沙、この手紙を呼んでいるあなたは、いったい何歳になったのかな? 理沙とは沢山手紙のやり取りをしたけど、きっと、高校生ぐらいになっているだろうから、漢字を沢山使って書くね。なんだか、緊張してしまいます。


 実は、有田の陶器市で買った、小箱なんだけど、お父さんに聞いたら、贈り物に使うものなんだってね。贈り物用の小箱を、自分の為に使うのもどうかなと思って、理沙にあげる事にしたの。でも、理沙にはお気に入りの茶碗があるから、どうせなら、大きくなった理沙にあげたらどうかな、と思って、この手紙を書いています。


 小箱だけじゃ、なんだかさみしいから、お母さんが若いころに使っていた、ピアスを入れておきます。デザインがかわいくて、自分で買ったんだけど、もう、おばさんになっちゃったからね……(笑) だから、理沙にあげちゃいます。


 それと、大きくなったら、教えてあげるねと言っていた、幸せになるための秘密の言葉を入れておきます。


 では、またね。大きく、きれいになった理沙へ――涼子


 PS.魔法の言葉は暗号になっているぜ! ギブアップしたら、教えてあげるね(笑)


 手紙は、涼子が予想してボールペンで描いた、高校生になった理沙の似顔絵で終わっている。似ている様な、似ていないような。ともかく、涼子は絵があまり上手くない、と言う事を初めて知る事が出来た。

「お母さんたら、思っていたより、おちゃめさんだったのね」

 理沙は、小箱をケースから出して、ふたを開けてみた。中には、赤く輝く石を、金色の釣針で引っかけたようなピアスが、一揃い入っていた。二つに折られた小さな紙片とともに。

「ちょっと私には、まだ、大人っぽ過ぎるかな。お母さん、でも、ありがとう。大切にするよ。もう少し大人になるまで、ボンちゃんの中に入れておくね」と、言いつつも、片方だけピアスをつまんで、耳にあてがい、鏡の前に立って見た。左手で髪をかきあげて耳を出し、右耳に美しいピアスをあてがった。理沙は、まるで、鏡の中に別人がいるように感じた。勇気や自信が溢れ出てくるような感覚が、もしかしたら、魔法の宝石を手に入れたのかもしれないとさえ思わせた。涼子も理沙も七月生まれなので、二人の誕生石は同じルビーだ。赤く魅惑的に輝くルビーは宝石の女王と呼ぶに相応しい石だろう。身に付けた女性の、ありとあらゆる魅力を引き上げ、一歩一歩足を踏み出す度に、理沙に勇気や自信を与えてくれるに違いない。だが、理沙が、このピアスが本物のルビーである事を知るのは、まだ、随分先の話だ。

 長い間、ピアスと、鏡に映った自分の姿を堪能したところで、ボンちゃんに入っていた、もうひとつの贈り物の事を思い出した。コピー用紙を切り取ったような、何の変哲もない、白い紙片を開いてみると、そこには数字で『8』とだけ、大きく一文字書かれている。他には何も見当たらない。暗号と呼ぶにはシンプルすぎた。理沙は途方に暮れて、早々に根を上げた。

「お母さん……なにこれ? もうギブアップ。教えてよ、暗号の意味を……それよりも、答えを……」

 もちろん、涼子は何も答えなかった。





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