第13話 第一の暗号


 一郎は、今日は珍しく早く家に帰った。早くといっても、もう、九時を回っているが、二人にとっては、久しぶりにゆっくり話す時間だった。最近は、朝食と夕食の時だけが、家族の時間になってしまっていた。

 理沙は、警察で事情聴取を受けた事はもちろん、久しぶりに、学校での事や、塾での事――英章や、鍋島の事などを一郎に話した。二人とも、こう言う時間も必要だなと、暗黙のうちに確認しあった。

 一通り話し終わったところで、理沙は暗合の事を思い出した。

「はあ……」理沙は最近溜息が多くなった。この年齢の女の子が思い煩う事といえば、恋だろうが、理沙の悩みは、『人の心とは』と言う事と、母の残した暗合だった。

「暗号とか、好きな人だったのかしら? そんな記憶、ないけどなぁ。ねえ、お父さんどう思う?」

 暗号が出てくるような、推理小説の類など、手にした事もない。基本的に、分からない事は人に聞くたちだ。

「暗号ねぇ……嫌いじゃないと思うよ」一郎は、何故だか、にやにやしながら答えた

「確かに、お母さんは、推理ものは好きだったよ、本を読むのも好きだったなぁ」

「え? お母さんが本を読んでいたところなんて、見た覚えが無いよ」

「そりゃ、理沙と一緒の時には、落ち着いて本なんか読めなかっただけだろ? 目の離せない子だったからな、親の考えも付かない事を始めるからね。一体、俺と涼子の遺伝子から生まれたのに、二人の想像を超えた事を考え出すと言うのが、不思議だったよ。やっぱり、子供は親の所有物ではなく、独立した個体なんだなって思ったね」

「わが子を天然記念物みたいな呼び方しないでくれるかな。でも、本は読む人だったんだね。でも、本棚にいっぱい本が詰まっているけど、あれは、お父さんの本なんでしょう?」

「いや、ほとんど、お母さんの本だよ。お父さんの本は三割ぐらいかな――ブリ照り美味いよ。ウマシウマシ」

 理沙は、一郎にとっては、涼子の話より、目の前の食事に興味があるのかと不満だったが、料理を褒められるのは、悪い気はせず、怒るに怒れない。それに、英章達と別れた後に寄ったスーパーに、珍しく綺麗なブリが入っているのを見つけて、間を開けずに同じ献立を立ててしまった罪悪感も手伝った。

「そうんなんだ……。暗号と言っても、『8』と書いてあるだけなんだよね、お母さんの誕生日は、七月十一日だし、これを書いた年齢は三十三歳だと思うのよね、どこにも『8』なんて出てこない。ねえ、お父さん、『8』で連想するものってなあに?」

「そうだなあ、一週間は七日だし、一月は三十一日、二月は二十八日か!」

「あんまり……関係なさそうだけど」

「確かに」

「もう、真剣味が足りないなあ、誰の為だと思っているのやら……。『8』かぁ、『8』……」母親の事を、もっと理解したいと思っているのが、一番の動機だが、父を総理大臣にする為だと言う事も、大切な目的だ。なにせ、神様に願い事をしたくらいなのだから。

「自分で考えてみたらどうだ?」関心の薄い一郎に、理沙は少し腹を立てた「何でよ! 一番お母さんの事を知っているのは、お父さんでしょ!」

「それはそうだと思うが、その暗号は、理沙の為に書かれたものだろ だったら、理沙が考えて上げなよ、それに……」

「それに?」

「それに、終わった時の事を、お父さんなら考えるよ。例え、お母さんがすごい暗号を作れたとして、理沙がギブアップしたとする。そこで、お母さんがこれ見よがしに、理沙に知識をひけらかして、解説したりするかな? 父さんなら、理沙に――あ、そうか、そうだったんだ、全然気が付かなかったって、言わせて、一緒に笑い合える様な答えにしておくと思うね」

「確かに」

「だろ? だから、自分で考えて見な――ごちそう様。ブリ照り……母さんの味に近づいたぞ。これなら、毎日ブリ照りでも文句は無いね」

 一郎は、もう一度、ご馳走様と手を合わせると、風呂に入った。着替えの準備は、理沙が準備する。今日も、いつものように、理沙が部屋着に着替えるときに、新しいパジャマとタオルを洗濯機の上に畳んで置いた。パジャマを用意しておかないと、一郎はパンツいっちょで、平気で部屋の中をうろつき回る。一郎は、一人では生活もままならない、家事弱者だ。但し、トイレ掃除だけには、こだわりがあるらしく、一郎の仕事になっている。それ以外の家事は全て理沙の仕事だと思って間違いない。

 これで、一郎に対する、理沙の一日の仕事は終わりだ、後は勝手に寝てくれるだろう。料理を褒められるのは本当にうれしい。ブリ照りは、理沙のレパートリーの中でも、得意な方に入る。そんなに難しくないのだが、ブリ照りが得意だと言うと、とても料理上手に聞こえるらしく、特に、学校や塾の先生には、良い印象を与えるのに効果絶大だ。一郎に対しても、同じ効果があるらしい。

「おじさんウケが、良いと言う事かな?」食器をシンクに運びながら、理沙は、ふふふ――と笑った。洗い物をしながら、暗号について考える。涼子に、また、質問してみなければ……。

 評判の良かったブリ照りを盛った皿を、シンクの洗い桶に浸す。理沙の友人は、毎日毎日家事を続けるなんて大変ね、と言う。しかし、その言葉は、自分の母親に言ってあげれば良いのに――と、理沙は思う。あまり、近くにあり過ぎると、見えにくくなってしまうのだろう。本当の幸せとは、遠ざかれば自分が不幸だと感じ、近付けば見えなくなってしまう……手に入れたと実感する事が出来ないものなのだろうか。理沙は、ふと、こう思った――幸せとは、サンタクロースに似ている。いると思えばいる、いないと思えばいない……。

 そんな事を考えながらも、食器洗いは着々と進んでいく。理沙にとって、家事はそれほど苦痛ではなかった。それは、仕事と言うより、習慣に近かったし、何より、涼子に一番近づく事の出来る時間だった。いつものように、いつの間にか涼子に話しかけている。

「『8』……なんだろうなぁ。お母さん、もう、ギブアップだって言っているのに……」

『宿題、もうやめちゃったの? 理沙は、賢いから、あんまり自分で考える事をしないのよね』

「バカだから考えられないのよ」

『理沙は決して馬鹿じゃないわよ。だって、お父さんとお母さんの子供なんだから』

「賢かったら、暗号も簡単に解けるんじゃない?」

『賢いせいで、大事なものを見落としてしまう事もあるのよ。洗い物と同じ……最初は、ゆっくり時間をかけて丁寧に洗うのよ』

「暗号と、洗い物は違うと思うよ……」

『宿題は難しいよね……解らない問題があったら、人に聞いて教えてもらうのが、正解なの。それは、大人になっても同じ。でもね、まだ、理沙は小さいから、ちゃんと訓練しないといけないわ。自分で考える力を身につけておかないと――もし、無人島に一人で流されたら、質問する相手もいないじゃない?』

「無人島に流された時点で、あきらめます」

『賢いから、一番効率のよい方法を解っているんだと思うの。高い塔を建ているには、ブロックを真っ直ぐ上に積んでいくのが一番早いじゃない?』

「覚えているよ。だけど、高く、ひょろ長く積んだブロックは、ちょっとの力で倒れてしまうんでしょ?」

『ピラミッドみたいに、しっかり、一段一段積んでいけば、絶対に倒れない本当の実力が手に入るの』

「それじゃ、時間がかかりすぎるよ」

『うん、理沙には、もっとぴったりの方法があるけどね。もう少し大きくなったら、教えてあげるね』

「私、もう大きくなったよ……だから、教えてお母さん……」

『よーし、おわりー。理沙は、本当に洗い物が上手だね! きっと良いお嫁さんになるわよ!」

「お母さん……」

 涼子は、これ以上答えてくれない。聞こえてくるのは、小さな頃に交わした事のある言葉だけだ。





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