第20話 理沙、決意する


 相変わらず暑い日が続く中、理沙が、チェックのスカートを跳ねて小気味良く歩く。夏休みだが、塾へ行く時には制服に着替える、その方が勉強に身が入りやすい。形から入るのは大切だという事を、理沙はなんとなく知っていた。田んぼを横切る国道沿いの、長く真っ直ぐに続く歩道は、成績が芳しくない時は、地獄へ続く針の道のように感じる事もあるが、今日は、明日へ続く希望の道のように感じていた。緑色の若い稲が、風のざわめきに揺れている。理沙が空を見上げると、入道雲が、遠くで真っ白に光っている。『馬鹿だから出来ない』という言葉を封印し、代わりに、『馬鹿だからできる』という言葉を心に刻んだ――それは、涼子も歩んだ道でもある。若かりし頃の涼子の気持ちが、すうっと心の中に入ってきた。涼子の事を、自分を包んでくれる母性の塊としてしか見ていなかった子供時代から、一人の人間として見つめなおし、しかし、理解できずあきらめてしまいそうにもなったが、それを乗り越えて、今では、まるで友人の様に感じる様になった。かつては、涼子も、一人の悩める女の子だったのだ。理沙は生まれ変わったような気持ちで、塾への道を歩き続けた。

 かと言って、全ての迷いが掻き消えたと言う事ではない。生まれ変わったばかりでは、自信も実績も何もないのだ。これからやろうとしている、一郎を総理大臣にするための方法など、理沙には、まだ何一つ思い浮かばない。

「よし、進むぞ!」と、早めに出かけた塾への道を、更に加速しようと思ったその時、意外な人を見つけた。大盛りカツカレーで有名な国道沿いのドライブインに、ある男が入って行くのが見えたのだ。

(まさか、他人のそら似……)初めはそう思った、しかし、確認せずにはいられない。理沙は、一郎に買ってもらったピンク色の腕時計を見て、塾が始まる時間には、まだまだ余裕がある事を確認し、ドライブインへと入った。

「カツカレー大盛りね!」聞き覚えのある声と、茶髪に黒いスーツ……やはり間違いないと確信し、理沙は声を掛けてみた。

「神様……ここの大盛りの量って半端じゃないの知っています?」理沙は、そう言いながら、四人がけのテーブルに腰を下ろした。家族以外の男性と、二人きりで外食をした事はないので、なんだか落ち着かない。英章とも二人きりと言うのは記憶に無かった。テーブルが小さいので、神様の顔が近くて、居心地の悪さを感じていた。

「おお、理沙ちゃん久しぶり、まあ、座んなさいよ。ところで、あれから掃除に来てくれないね……願い事叶えないよ」やはり、神様本人だった。どうやら、普通に街を出歩いているらしい。と、言うより、本当は神様では無いという疑いの方が深まった。しかし、今の理沙には、神様であろうが無かろうが、どちらでも良くなっていた。

「実は、あれから悩んでしまいまして……そんな気持ちのままじゃ、神様の前に行くのもなって……」

「そんな事はどうでもいいから、とにかく掃除に来てよ。僕は綺麗好きなんだ。この前の風の強い日に、葉っぱがたくさん落ちて来てさ……よろしくね」理沙は、自分の悩みなど、どうでもいいと言われた事に腹を立てた。しかし、そんな物なのかもしれない、他人は、自分の事など、思っているよりも気にかけていないのかもしれない――そう思うと、心の痞えがとれるような……楽になる事もできた。

「カツカレー大盛り、お待ち!」

「お、ありがとう。いただきます」

名物のカツカレーは、いやがらせかと思う程の量だ、五人前ぐらいあるかもしれない。理沙があっけにとられている内に、神様は、みるみるその量を減らしていく。細身の体の、どこにこんな量のカレーが流し込まれていくのか、理沙には全く理解が出来なかった。

「神様って……沢山食べるんですね」

「ああ、食べるよ。このカレー、久しぶりに食べたかったんだよね」前にも来た事があるという事だ――理沙は、神様と言うものはどう言う物か分らなくなってきた。もしかしたら、こんな風に、沢山の神様が、その辺をうろうろしているのかもしれない。理沙は、思わず、周りをきょろきょろと見回した。何故だか、少し、周りから注目を集めている様な気がした。ここのカレーは普通の量でも三人分ぐらいの量なので、大盛りを頼む人はまずいない。注目を集めてもしょうがないが、理沙は神様と一緒にいるところを、あまり人に見られたくなかった。軽薄そうな茶髪の男と二人でいるのを見られたら、誰になんと言われるか……少し嬉しい気もするが、やっぱり嫌だった。まだ、この男を神様だと心から信じたわけでもない。

「いただきますって……神様が言う必要あるんですか?」

「は?」

「いえ、 感謝される側だから、誰に感謝するんだろうって……」

「はあ……」自称神は、全く意味がわからない様子で、キョトンとしている。理沙は、この前お葬式であった、お経を不思議そうに聞いていた、小さな男の子の表情を思い出した。

「ああ、なるほどね、高校生は、近頃の神事情にも疎いだろうね」

「最近の神事情って、そんな、芸能ニュースみたいな話でもあるんですか?」

「ああ、あるさ、神と言ってもいろいろいるからね。神も得意、不得意があるから、協力し合う事もあるし、感謝し合うこともあるさ。仲も良かったり、悪かったりするから、パワーバランスだって変わっていくよ。僕なんかは、今では端っこの端っこぐらいの神だよ。昔は僕のおじさん達ぐらいしか、この辺にはいなかったんだけどねぇ」

「おじさん達? そのおじさん達も神様なんですか?」

「うーん……まあ、近いかな。とにかく、神だからって、感謝の念を持たないわけではないさ、カレー屋の大将にだって、感謝もするよ。おいしいし……って、そんな事より、君は願い事叶える気あるの?」

「神様、願い事って本当に叶うんですか?」

「叶うさ、僕の得意分野は大願成就だぜぇ。もっと言えば、既に叶っているんだよ、後は段取りを踏んで行くだけだ」

「でも、私、いつも神社にお参りに行ったとき、願い事しているけど、叶った事ないですよ」

「それは、あれだろ? 声に出して無いんじゃないの? よくいるんだよねえ、そんな人……声に出さないと聞こえないから、叶えようが無いよ」

「え? 神様って、人の心を読む力ぐらいあるんじゃないですか?」

「ハッ! 勝手に神の能力を決めないでくれるかな。困ったもんだよね、人間って自己中心的って言うかさ! まあ、ちょっと頑張れば読めるけど……。例えば、家でテレビを見ているときに、放送受信料の徴集員が来たとするじゃない?」

 いきなり何の話だろう。この神様は、随分人間化されすぎているなと、理沙は思った。もし、本当に神であるとすればだが。

「で、インターホンを鳴らすんだけど、テレビの音が大きくて聞こえない。鳴った気がするけど、どうだったかな? なんてとき、丁度、面白いシーなのにも関わらず、玄関まで行ったりするかい? しないよね。神だって、カランカラン鳴らされて、ちょっと聞いてあげようかなって心持ちになったのに、声も出さないんじゃ、わ、うっぜ、こいつ、心の中を読む事を強要してやがる、願い事なんて聞いてやるものかって、普通の神ならなるじゃない?」

 同意を求められても、理沙には同意のしようが無かった。普通の神がどう言う神達なのはわからないし、例え話しが人間味に溢れ過ぎていて、ぴんと来ない。

「それにさ、神社のご神体に鏡が祀られているって話、聞いた事がない? 人間ってのは粋だねぇ、願い事は鏡の中の自分に向かって言うって事なんじゃないの? だったら、なおさら声に出して言い聞かそうよ」

「そうなんですか? じゃあ、もしかして、かみ様の語源は、かがみ様から来ているとか……」

「そうなんじゃないのぉ、知らないけど。『かがみ』から、我を抜いて、『かみ』なんて駄洒落程度の話なんじゃない? 神って呼び出したのは神じゃなくて、人間だからねぇ。便宜上、神と名のってはいるけど」

「なるほど、そう言えば、ドラゴンボールのシェンロンも、願い事を『言え』って言ってましたよね」始めて理沙は神様の話に納得がいった。

「おお、神龍が出てきたね。いいとこついてるよ……でさ、願い事なんだけど、いつ頃叶い終える感じだい?」

「え、いつ頃って……」一郎を総理大臣にする方法など、まだ思いついてもいない。いつ頃と言われても何の見当もつかない理沙は、適当にはぐらかした。

「……秋ぐらい?」と、とんでもなく適当な返事をしてしまった。夏には現職県会議員の人間が、秋には総理大臣になっているなど、聞いた事が無い。理沙は、咄嗟と言えど、無茶な回答をしてしまったと後悔した。

「りょ」神様はフランクに返事をした――了解と言う意味だろう。「秋ならまだ時間があるなぁ、早く掃除に来てほしいから、少しサービスしてあげようか」そう言うと、神様はスプーンを置き、左手で紙ナフキンを取り、両手を合わせて、ごちそうさまと言うと、口を拭きながら、右手で天を指差した。そして、ゆっくりと、指した指を前に下ろすと、理沙の額の前で、ぴたりと手を止めた。理沙は、目をぱちくりさせ、思わず硬直してしまい、じっと指先を見続けるしかなかった。額を指差されていると、触られてもいないのに、なんだか指されているところが痒くなる。

 神様の右手の向こう側では、神様が目を閉じて、なんだか、ごにょごにょと呪文らしきものを唱えている。理沙は、相手が目をつぶっているのを良い事に、神様の顔を見つめてみた。まじまじと眺めてみると、やはり、良い顔をしている。人気の俳優そっくりと言うよりも、本人そのものだ。もしかしたら、これは、壮大に仕組まれた、ドッキリ番組なのかもしれない――いち女子高校生を騙す為の。

「ほい、できた」と、神様が言うが早いか、後ろから英章の声が聞こえてきた。

「理沙! よかった見つかって、それにしても、女の子一人で、良くこんなドライブインに入ったり出来るもんだね」理沙が振り向くと、英章が汗を拭きながら立っていた……それと、見知らぬ顔がもう一人……誰だろうと思いつつ、理沙は神様の方を向き直り、不思議そうに質問した。

「神様、私達、今、『一人で』って言われましたよね?」

「ああ、そうさ、僕は神様だから、君以外の人には見えないよ」

「……本当に不思議な力がある見たい――でも、どうやって、カツカレー大盛りを自分で注文したんですか?」

「ある見たいって、あるんだよ。それから、細かい事は気にしないでよ、神様なんだから、自分の都合でどうとでもなるんだよ――さて、ご馳走様、僕はこれで失敬するよ」カツカレー大盛りの皿はきれいに真っ白だった。よく、こんな短時間で食べ終えられるものだと、理沙は感心していたが、肝心な事を聞いていない事を思い出した。

「神様、今、何したんですか?」

「すぐに分る……」それだけ言うと、神様は、すうっと消えてしまう――訳ではなく、すっくと立ち上がって、英章の横をすり抜け、店の外へ歩いて行った……カツカレー大盛りの代金も支払わずに。

「理沙、座って良いかい? 何を、一人でぶつぶつ言っているんだ?」

「あ、すみません、どうぞ、どうぞ……」(英章先生には見えていない? どうやら、本当に、本当に神様なんだ。じゃあ、願い事も……)

 英章と、その連れは、理沙の向かい側に座りながら、話を続けた。理沙は、熱過ぎる視線を送ってくる英章の連れの方を、恐ろしくて良く見る事が出来なかった。

「実はさ、この人に、理沙に会わせて欲しいと言われてね――菅野さん、でしたよね? 東京の芸能プロダクションの方らしいよ」その男は、一目で地元の人間ではないと分るような、アバンギャルドな姿をしていた。緑のニット帽に、同じく緑色で、丈が膝まである、ガチャガチャした蔦模様のニット、ピンクのレギンスに黄色いブーツ。理沙はこの男をどこかで見たような気がした。

(あ、そうだ、タロットカードに出てきた愚か者だわ――ふふふ、仔犬の代わりに英章先生を連れているのかしら)

「東京から来ました菅野です。理沙さん、会いたかった! やっと会えて、すっごく嬉しい! 探しましたよ! はじめに見たのは、転載された動画だったもので――テラカワ動画見たの! ほんっと、かわいかったわぁ、いっぱい検索して、やっと元動画の投稿者を突き止めて、日和花道様に連絡したんですけど、なんだか話中ばかりでつながらなくて……とりあえず、飛行機に飛び乗って、やってきたんです――あ、これ、お土産の東京バナナ」

(この人も、愚か者なのかしら……。確かに、周りが見えていない事は間違いなさそうね……でも、だからこそ、自分の好きな、こんな格好をして――こんな格好でもさえも、する事が出来るんだわ、きっと)

「おい、理沙、聞いているか? スカウトしたいんだってよ、理沙をアイドルデビューさせたいんだって」

「はあ、そうですか……。そのニット、どこで買ったんですか?」

「あら! お目が高いね! このニットは帽子とセットなんだけど、北千住の古着屋で買ったのー。ほら、実は、ここのところがポッケになっていてね、カバンの紐をこうしてこうすると、ほら、こんな事になるのよー」

「わあ、すごい! こんなの見た事無いわぁ」(いらないけど)理沙は菅野に興味津々だ。なんとも個性の強い男だから、と言うだけでは無く、何か、憧れのような物を感じていた。自分もこんな風に、人の目を気にせずに自由に生きれたら、どんなに楽しいだろう……そう思っていた。そして、例によって、英章の話は全く聞いていなかった。

「じゃ、早速だけど、これから一緒に東京へ言ってくれないかしら。社長に会って欲しいんだけど、理沙ちゃんなら絶対に間違いないわ」

「社長さんに? 私は、そんなニットとか、似合わないと思うから……」どうやら、北千住の古着屋の社長に会わせようと思っていると勘違いしているらしい。しかし、菅野は、大乗り気で、そんな事はお構いなしだ。

「もう、飛行機のチケットは取ってあるから……さあ、これから忙しくなるわよ。大野さん、構わないわよね?」

「いや、未成年だから、父親の許可は取ってくださいよ。さっき電話したら、理沙が良いなら良いとは言っていましたけど、僕は、菅野さんが直接会って話した方が良いと思うなあ。ところで、理沙はうちの所属なんですよ。移籍するなら、移籍金とか……冗談ですけど」

「そのあたりは、出来るだけ配慮いたしますよ。とにかく、理沙ちゃんは、千年に一度――いいえ、不世出のアイドルになりますよ!」

「私が……アイドルに……? どう言う事ですが?」


 二人に任せておいたら、話が全く進まないので、英章が状況を整理して、二人に話をした。理沙は、信じられないと思いつつも、神様が言っていた話を思い出し、だんだん話を受け入れ始めた。

(神様は、みんなには見えなかったみたい……やっぱり、不思議な力を持っているのかしら、それにしても、いつから姿が見えなくなったのかしら、少なくとも、英章先生は、この、大盛りカツカレーを綺麗にたいらげたのは、私だと思っているわよね……だって、このテーブルには私しか座ってないように見えたはずだし、お皿は一人前しかテーブルに載っていない……もしかしたら、周りのお客さんが、私達に注目しているように感じていたけど、私達に、ではなく、私に……という事だったの? このお店にいる人は、みんな私が大盛りカツカレーを頼んだと思っているんだわ……。そんなの……嫌!)理沙は、考えを纏めようとする内に脱線してしまった――いつもの事だ。神様は人に見えない、人間ではない、人間には無い力がある、願い事もかなえる力があるのかもしれない、少しサービスしてあげようか――と言って、呪文のような物を唱えた。何をしたのかと質問すると、すぐに分かると答えた途端に、菅野と英章が現れた。ここまで思考が辿り着くのに、十分は掛かった。

(もしかしたら、アイドルになる事が、神様のサービス――お父さんを総理大臣にするための近道って言う事かも……)「私……やります。アイドルになります! でも……夏休み限定という事で良いですか?」

 理沙はアイドルにはなりたくないが、このままの生活を続けていても、埒が明かないという事も感じていた。何か、非日常を起こさなければ、毎日の生活は変わらない。しかし、ずっとアイドルを続ける自信は無いので、夏休み限定という条件をつけた。なぜなら、秋ぐらいには、神様が一郎を総理大臣にしてくれるという段取りになっているかもしれないからだ。

「いいわ、夏休み限定ね。それで手を打ちましょう。だから、直ぐに東京へ飛び立ちましょう!」菅野はだんだん女言葉になってきている事に自分では気がついていなかった。これでも気を使って、ちゃんとした(?)社会人に見える様に話していたのだ。夏休み限定という話は、デビューさえしてしまえば、後はどうとでもなると思っての事だった。

「菅野さん、直ぐってわけには行かないですよ、理沙はこれから、塾の授業が……って、おい、理沙、塾の授業が始まる時間だぞ! 車に乗せて行くから、早く店を出よう! 菅野さんは――とにかく、一緒に来てください」



 


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