四話:記憶の相違
目覚まし時計が工事現場のような音を鳴らす前に、目が覚めた。ベッドから降りると寒くて身震いをする。徒野が面白半分で買ってきた着る毛布のルームウェアを羽織ると暖かい。
薄暗い室内の電気は付けず、カーテンを勢いよく開けると雲一つない清々しい晴天が広がっていた。室内も自然と灯で満たされる。
「布団日和ですね、これは!」
朝からやる気が漲ってきた。
冬場でこれだけ清々しい日は珍しい。
布団カバーとシーツを剥いで、マットレスを手すりに並べて干す。シーツ類はまとめて洗濯をして物干しざおへ。
今日寝るときはふかふかの暖かいベッドで眠れると思うと、幸せな気持ちだ。この幸せはおすそ分けせねばならない。
徒野の部屋を訪れるとまだぐーぐーと気持ちよさそうに眠っていたので、ベッドから蹴落とす。
「いでっ……!? な、なんで、私はお前にベッドから落とされなければならないのだ!? 夜這いならともかく!」
「夜這いのどこがともかくなんですか。徒野って名前の置物が邪魔だったんですよ。ほら、見てくださいいい天気です」
「カーテンを閉め切っているから外の気候など知らん」
カーテンを盛大に開けた。眩しい光が薄暗い室内を暖かく照らす。
「やめろ、眩しい。目が潰れるだろ」
「どこの吸血鬼ですか」
腕で目を覆っている徒野を無視してせっせとシーツと布団カバーを剥いでいく。
「あぁ――! お前何をしているんだ、私の快眠道具を奪うつもりか!」
「天気がいいので布団を干しますよ」
「まだ寝て居たかったのに」
「天気がいいんですから、ほら。さっさと起きてください」
「お前はどこの日が昇ったら起きて、日が沈んだら寝る民だ……ぐすん。私の快眠が。あと二時間は惰眠を貪ろうと思ったのに予定が狂った。どうしてくれる」
「仕事してください。仕事。年中定休日にするつもりか」
「それもいいな。桜どこに行きたい? ここはやっぱり絶海の孤島だろ」
「何その殺人事件が起きそうな場所。絶対ゴメンです」
「ちぇ」
「ほらさっさと着替えなさい」
しつこく繰り返すと徒野は渋々とその場で着替え始めたので、俺はさっさと手に入れた洗濯素材を両手に徒野の部屋を後にする。
徒野は何度言ったってマイペースにその場で着替え始めるので、此方が避難した方が手っ取り早い。普通男じゃなくて女が避難しろよ、とは思うのだが徒野にそんな感情は通じない。
洗濯ものが一通り終わったあとのベランダは気持ちがいい。風がゆっくり吹くたびに、濡れたシーツが動くのは清々しい。
室内に戻って掃除をかけてから、エプロンを付けて朝食の準備をする。
今日はフレンチトーストにしよう。食パンを厚切りに切って、卵液に浸す。味をしみこませるには時間を置いた方がいいのだが、流石にそこまではしない。三十分程度浸してから、たっぷりバターを載せたプライパンでこんがりと焼く。
皿によそって、生クリームをトッピングしトレーにはお好みでメープルシロップもつける。
テーブルに並べて、フォークとナイフを置いたら、香ばしさにつられて徒野がやってきた。
着替えは既に澄ましてあり、足元まである長い髪は今日はポニーテールスタイルになっていた。
「今日はフレンチトーストか、いいな。食べよう」
「えぇ。頂きます」
徒野と一緒にフレンチトーストを食べる。今度は数時間卵液に浸して作ってみるのもいいかもしれない。
食べ終わって少し休憩をしてから、食器を片付ける。流しは常に綺麗であっておきたい。
タオルで手をふきながら夕飯のメニューを考える。卵が続いてしまうがカルボナーラが無性に食べたくなったので、作ろう。
冷蔵庫の中身を思い浮かべると、材料が少し足りないので午後にでも買い出しに行くか。
一通り片付けが終わったのでリビングでくつろぐ。本日も事務所に依頼人が来る気配はない。暇な一日を過ごせそうだ。
軽く昼食をとってから、徒野も買い物に行くかと誘ったが、読みかけの雑誌があるからと断られた。
車を使うか迷ったが、天気がいいので、歩いて買いだしに行くことにした。ぽかぽかの陽気は気持ちがいい。
季節が冬だからこそ、晴れの日は普段以上に気持ちがよくなってしまうものだ。
とはいえ、冬なので寒いといえば寒いのだけれども。チェック柄のマフラーと黒のロングコートは暖かい。
駅近くのスーパーで買い物をしようと、角を曲がる。
正面から歩いて此方へ向かってきた女性がふと顔を上げると、俺を見て驚いた。
女性は立ち止まり、俺の顔をまじまじと眺めてくる。
俺の顔に何かついているだろうか。例えば朝の生クリームとか。だったら恥ずかしい。鏡で身だしなみはチェックしたはずだがとか考えていると、会釈された。
え? あれ? この女性と顔見知りだっけ。
記憶がない。
女性は柔らかい茶髪を肩より少ししたまで伸ばし、ハーフアップにしており、白の柔らかなコートを着ていた。清楚な印象だ。
「えっと、すみません。私のこと覚えていませんよね……いきなりで、ごめんなさい。お久しぶりです」
俺の困惑した表情を読み取ったのだろう、女性が恥ずかしそうに手入れがされた指先で頬をかいた。白い吐息と、やや恥ずかし気に微笑んだ顔が妙に色っぽい。
「すみません……どちら様でしょうか……」
「百合子です。名原百合子です。以前、徒野さんに依頼をしましたものです」
「――! あ、百合子さん。すみません……忘れてしまって!」
俺は慌てて謝る。
百合子といえば耳にしたことがある。
つい最近、珍しく徒野へ依頼してきた女性だ。徒野から事の顛末は聞いているが、実際にあったのは俺ではないので、顔を見ただけじゃ全くわからなかった。
「いえ……私の方にとっては、探偵とその助手さんという覚えやすい関係でも、葛桜さんにとっては依頼人の一人ですもんね、いきなり話しかけてしまってすみません」
「謝らないでください。悪いのは俺なんですから……すみません。ちょっと人の顔を覚えるのが苦手でして……ホント、ごめんなさい」
つい最近過ぎる依頼人を忘れているとかは流石に失礼だ。
今度からあいつが依頼を受けたときの依頼人の顔も教えてもらうべきかと思ったが、写真でこいつは丸々、丸子。とか言われても全然覚えられる気がしなかった。無理だ。うん時間の無駄だからやめよう。
俺と徒野では脳の記憶容量に違いがありすぎる。
「その節はありがとうございました」
「お礼なら徒野にいってください。俺は何もしていませんから」
実際何もしていない。俺じゃないし。
「あの……もしよければこれからお茶などはどうでしょうか。私に奢らせてください」
「いえ、それは悪いですよ」
せめてあいつに奢ってやってくれ。ほんと俺は何もしていない。
「そうですよね……失礼なことを言って申し訳ありません」
今のは奢ってもらうのが悪いという意味だったのだが、もしかしなくても、行きたくないという風にとられたのだろうか――落ち込んでいる姿を見るとこちらが悪いことをした気分になる。道の真ん中で会話を続けても他の通行人の妨げにもなる。
「いえ、そんなことはありませんよ。では折角ですしお茶行きましょうか」
申し訳ない気持ちが宿ってしまったので、ここは奢られることにした。
「はい!」
百合子が浮かべる可憐な笑顔は、向日葵のように美しかった。
大人の清楚で上品な女性なのに、何処か愛らしい笑顔を浮かべる姿は、アンバランスなのに百合子にはとてもよく似合っている。
百合子オススメだという喫茶店まで案内してもらった。
駅のすぐそばにあるところだった――俺の目的地も眼と鼻の先にある。今まで通り過ぎてばかりでこんなところに喫茶店があるとは気づかなかった。徒野がいれば、桜は観察力が足りていないなと貶されるところである。
昼時を丁度すぎているためか、混雑しておらず百合子と向かい合わせに座る。
メニューを眺めると、美味しそうなケーキが一面存在を主張していていた。瑞々しいイチゴは見るからに美味しそうなのでショートケーキと紅茶のセットを頼んだ。
ふと、百合子と再会したのだから、徒野も呼ぶべきかと思ったが、殺人事件の依頼でもないのに彼女が飛んでやってくるわけもないと結論付ける。
自分の興味がある事件には飛びつくが、基本的に徒野は人間関係に興味がない。
――まぁ。麻雀仲間も酒飲み仲間もいるのだけれど。それは別口だろう。大体がおじさんだし。
程なくしてウエイトレスさんが紅茶とショートケーキを持ってきてくれた。写真の期待通りの瑞々しいイチゴがたっぷりのっていて嬉しい。
「徒野さんはお元気ですか?」
両手で紅茶のティーカップを一口飲んでから、百合子は当たり障りのない話題を持ち出した。
「えぇ元気ですよ。買い物に誘ったのですが、読みかけの雑誌があるからと断られてしまいましたね」
「探偵のお仕事は今日はお休みで?」
「えぇ。まぁそんなところです」
単に依頼人が来ないだけだが、格好がつかないので曖昧に濁しておく。
徒野は猫探しも浮気調査もしない探偵で、事件を選り好みばかりするので閑古鳥が鳴いている日の方がおおい。
刑事で、事件解決が面倒になると手っ取り早くポケットマネーで解決を図る相馬が死んで以降は特に事件の依頼が減っている。そう考えると徒野は相馬に養われていたのではないかとか思い始めてきてしまって少々不快だ。
「葛桜さんは趣味とかあるのですか?」
掃除、と即答しそうになって思いとどまる。あれは別に趣味ではなかった。大体掃除が趣味って答えるのは中々変人っぽいし、俺たちの場合は汚い状況が怖い――汚れていたらそれを理由に殴られるから綺麗にしなければならないという強迫観念が根底にあるだけだ。
ふむ。俺の趣味は何だろう。
人を殺すのは美しいからであって趣味ではない。美しい姿を恍惚と眺めて満たされたい。仮に趣味だったとしても殺人を公言するほど常識外れではない。
警察のご厄介にはなりたくない。
徒野の世話をするのも嫌いではないが、それが趣味とは思えない。
麻雀や酒を飲むのが趣味なわけでも車を運転するのが好きなわけでもない。
料理も一通りできるが趣味とは思えない。
もしかして俺って趣味がないのだろうか。無趣味ってなんか寂しいな。
「えっと……本を読むのとか結構好きですよ。たくさん読むわけではないのですけど」
浮かばないと答えるのも愛想がないし、答えたくないという意味にとられるわけにもいかないので、ありきたりな答えにしてみた。
徒野が購入してきて面白いぞと勧められた本はごくたまに読んだりするから、全く読まないわけではないし、掃除と答えるよりはましだろうと、思って選んだのがいけないようだった。
百合子の瞳が爛爛と輝き、ティーカップをコースターの上においてから両手を合わせた。
まずい――と、趣味を変更しようとしたが時すでに遅し。
「本当ですか! 私も読書が趣味なんですよ。一体どのような本を読むのですか?」
「み、ミステリーとかが多いですかね」
「いいですね! 私も好きですよ。密室物が好きですか? それとも探偵ものですか?」
うわーん。墓穴を掘った。
ちょっと徒野、出てきてくれ。
この間徒野が買ってきた本で読んだのがミステリーだったからそういったら墓穴を掘った。
此処は無難に青春小説とかにしておくべきだったか、とか思ったが青春小説とかミステリー以上に読まないから何が何だか全く分からない。
ドラマ化された感動の青春映画! とか銘打たれても全く心が響かないのだから仕方ないじゃないか。
「とはいっても……そこまで詳しいわけじゃないですよ。アガサ・クリスティだって全作読んでいるとかじゃ、全然ないんで」
「ミステリーが好きだからといって、ミステリーの女王を読まないといけない決まりはありませんし、全員がシャーロキアンである必要もないですよ。ふふ、でも葛桜さんも読書が好きだとは思わなかったので嬉しいです」
「なら良かったです。良ければ百合子さんのオススメ教えていただけますか?」
俺に好みを根掘り葉掘り聞かれても墓穴を掘るだけなので、こうなったら百合子の好きなことを語ってもらうことにした。
結果としてわかったのは、百合子は俺の想像以上に乱読派だったということだった。上げられたタイトルの九割くらいは知らないものばっかだったのは、マイナー作品だったのか俺が知らなさすぎるだけのかの判断すらつかない――多分両方だろう。
「あら、私ばかりが沢山話してしまってすみません」
百合子が腕時計を見て慌てた。俺も時計を確認すると一時間経過していた。
紅茶もケーキもすっかり空だ。美味しかった。今度は徒野を連れてきたいところだ。
「いえ、色々お話が聞けて楽しかったですよ」
「良ければまたご一緒しませんか?」
「えぇ、機会がありましたら是非」
「今度、オススメの本をお貸ししますから、良ければ読んでください」
「有難うございます」
ニッコリと笑顔を浮かべる。
また今度会いましょうという口約束をして店の外に出る。
この人は美しい。俺よりも年上で、知的で、きっとその首には赤いリボンが似合うのだろうな、と思った。
百合子と別れてから俺は目的のスーパーへ向かう。予定より遅くなってしまったが、別に問題はない。今日の目的に卵安売りは入っていないのだから。
両手にスーパーの袋を持ちながら、徒野探偵事務所に戻ると、テーブルに上にはなぜか酒が置かれていた。未開封の新品である。
「どういうことですか、徒野」
「ん? これから飲むからに決まっているだろ。この間麻雀を撒けた詫びに酒を持ってきてくれたんだ」
「流石に休刊日を設けたほうがよくないですか? この間も飲み比べしたばかりじゃないですか。一週間もたっていないんですよ、俺の肝臓が死にます」
「若いから大丈夫だ」
「なんですかその暴論。大丈夫じゃないですよ。今日は俺は飲みませんからね」
「それだと翌朝、テーブルに酒が転がっていることを葛の方が不思議に思うぞ」
「そのためだけに人の記憶を酒で抹消しようとするな!」
「ほら、一口だけ」
徒野は日本酒を開けておちょこに注いだ。
「新人に上司が無理やり酒を飲ませる宴会ですか、これは」
「仕方ないだろ。一人で酒を飲むよりも、一緒に飲んだ方が楽しいのだから」
「徒野は俺を酔わせるのが好きなだけでしょう」
「なんだ? 嬉しくないのか?」
ニッコリとおちょこを口にしながら言われてしまうと、うっと言葉に詰まってしまったが、いやよくよく考えなくても酔わされて嬉しいわけがない。
「一口だけですよ。酔うまでは絶対に飲みませんからね。あと、瓶は飲んだから瓶入れに捨ててください。それが約束ですよ? テーブルの上に置きっぱなしは絶対駄目ですからね」
「ハイハイ」
「瓶の捨てる日は明後日ですからね」
「わかったよ。今回は飲んだらちゃんと捨てる。だから、ほら、さっさと飲め飲め」
珍しく徒野がわってくれたので、満足して飲む。
飲みすぎない程度のお酒は美味しいとは思うが、油断していると空のおちょこに徒野が酒を注ごうとするので全く持って人を酔わせようとするのが好きな人だ。
でも、ゆっくりと酒を飲むゆったりとした日常は、とても悪くなかった。
翌朝。ベッドで目を覚ました僕は着替えを済ませてリビングに出ると、テーブルがやや汚れていた。
何か夜中に食べたのだろうかと思って台所でふきんを取りにいくとゴミ箱の横に瓶がおいてあった。
「相変わらずお前は早いな」
徒野が瞼をこすりながら、台所にやってきた。食器棚からコップを取って冷蔵庫からペットボトルに入った水を取り出してコップに注ぎ飲む。
「えっと徒野。この瓶は?」
「……お前が、瓶をテーブルの上に出しっぱなしにするな、せめて捨てろと口を酸っぱくしていうから捨てようとしたら、ゴミ箱の中がいっぱいだったんだ。だから横に置いた」
「えぇ……瓶の日は明日なので、いっぱいですけど……」
「ゴミ箱を壊してもあれだろ。床で我慢しろ。お前が気になるなら鈍器で殴って明日まで気絶させてやるのも手だが」
「確かにとても気になりますけど、だからといって一日を失いたくはないですね。臨時のゴミ箱を作ってそこに捨てたことにしましょうか」
「よし、私がゴミ箱とペンで段ボールに書いてやる!」
「ゴミに見えるので駄目です」
「酷いな」
明日までこのままだと思うと、身体が痒い気持ちになるが、ゴミ箱を増やしたと思えば大丈夫なはずだ。
まったく徒野は酒が好きなのだから。ゴミ箱がいっぱいになったらもう酒を飲まないでほしい――徒野は瓶のゴミ箱がいっぱいだと知らなかったから仕方ないにしても。
「というか葛。私に対して偉いの言葉はないのか? ちゃんとゴミ箱に捨てたぞ」
「偉いですね」
「滅茶苦茶感情がこもっていないな」
「そりゃ、今まで捨ててくれなかったのが不思議なくらいですので、こういざ捨てられると何と言っていいのかわからないのですよ……」
「なんだそれは、素直に私を褒めればいいだけだろ」
「そうですね。ではこれからもゴミはゴミ箱にお願いします」
「努力はしてやろう」
上から目線はやめて欲しい。そもそもゴミは普段から捨ててほしいものだ。だが、これで一歩前に進んでくれてゴミを分別してくれると――それはそれでとても嬉しいことだ。
徒野は満足な顔をしてリビングのソファーでふんぞり返った。
でも、どうして――僕は徒野に瓶を捨てろなんて言ったのだろうか。
ゴミ箱は一杯だと僕は知っているのに。
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