第7話:50%の問題
◆
暑くて嫌になる季節もなりを潜め初めて、長袖でも過ごしやすくなってきた九月中旬秋の季節、太陽の光を浴びて目を覚ます。
まだ暑いことは暑いが、九月中旬にでもなってくれれば、平和だ。
何よりもうすぐ秋になると思えば心が躍って多少の暑さには目を瞑れる。
秋は長袖長ズボンでも不自然じゃないから好きだ。夏だと奇異の目で見られるから嫌いだ。
閑散とした自室は徒野に寂しいといわれるが、徒野が物を買いすぎなんだよと思いながらベッドから起き上がる。
寝ているときは外している赤いリボンを手に取り、鏡を見る。
鴉羽の髪は鳥の羽だと比喩される跳ねた髪質に、不気味だといわれる赤い瞳。
そして、普段は赤いリボンで隠れている首にくっきりと残る傷跡が映る。
早く忘れられない傷跡を隠してしまいたくて、赤いリボンを首に巻き付ける。鏡は嫌いだ。
けれど、赤いリボンを丁寧に巻くためには鏡を見たほうが確実なのがジレンマを誘う。
服ならば、着替えてから鏡を見るのでもいいのに、首に巻くリボンだけはやり直しのことを考えると最初から見ていたほうが早い。
部屋を出てリビングに行くと、昨日整理整頓して就寝したとは思えないほど汚れていた。
「ちっ……」
思わず舌打ちしてしまう。
何をしたら一晩で汚してしまえるのか理解ができない。
床には乱雑に雑誌が散らばっている。
その状態は気持ち悪い。気持ち悪くてたまらない。
物が――整理整頓、違う。綺麗に収まっていないと不安になるのだ。
珍しくソファーで寝ている徒野の顔には窓から入る日差しが眩しかったのか、雑誌がアイマスク代わりに乗っている。
雑誌を退けると、徒野は身じろぎをした。
「起きてください。朝ですよ、徒野」
肩を許すと、手で振り払われてから、徒野はゆっくり瞼を開けた。
「……おはよう」
「おはようございます。珍しいですね、徒野がこの部屋で寝るなんて」
「徹夜したもんでな」
「事件があれば貫徹しても元気な癖に生意気な台詞ですね」
「煩い……」
「それに、徹夜は構いませんが、雑誌を片づけて部屋を綺麗にしてから寝てください」
「本当、お前は綺麗じゃないとダメなやつだよな」
「えぇ、まぁ。綺麗じゃないと気持ち悪いので」
左手首を右手で抑えながら返答する。
「少しは、掃除しなくても大丈夫なように慣れたほうがいいぞ」
「……それができたら嬉しいのですけどね……」
徒野の心遣いは有り難いが、どうしても部屋が汚いのは怖いと身体が恐怖するのだ。
「まぁ昔ほど綺麗に脅迫されていないから安心しろ」
「本当ですか?」
「あぁ。だって片づけをしないで私と会話出来ているじゃないか」
はっとする。そういえばそうだ。徒野に拾われた約五年前ならば、少しでも汚れていると会話よりも先に掃除をした。
今は掃除するのは決定事項ながら、徒野を先に起こしてこうして会話をしている。
「そうですね」
「何年も、片づけが苦手な私と暮らしているのだ。少しずつそれに適応して慣れていくよ」
「だからといって部屋を汚しっぱなしにするのは違いますからね」
「ちっばれたか」
「ばれるに決まっているだろが」
片づけない気満々じゃないか。
雑誌を拾って綺麗にしまってから、他に徒野が汚した場所はないか確認する。お菓子の食べかすとかがないか、地面に顔をくっつける気分で隅々まで調べるが、食事はとっていないようだ。
雑誌以外は綺麗だったので台所へ移動して、朝食の準備を始めることにした。
食パンを半分に切って、卵と砂糖に浸して、フライパンを用意して食パンを焼く。
程よく焦げ目がついたところでチューリップの柄がついた白の皿へのせて、手作りの甘さ控えめ苺ジャムを横に盛る。徒野が西洋から取り寄せたティーカップに入れて、ミルクと砂糖を用意してからテーブルへ持っていき、手を合わせて頂きますをしてから徒野と一緒に朝食を食べる。
食後の休憩だと、ソファーでゴロゴロしている徒野を無視して食器を片づける。
片づけが終わったところで横になっている徒野を無理やり起こして、隣のソファーに座って休憩していたところに事務所の扉が開いて来客を告げる鈴がなった。
「お邪魔するね」
凛とした声は女性のものだ。
もう少し食後の休憩をしてから依頼人が来てほしかったなと思いながら暖簾の元まで行くと、西洋と日本人形を足して割ったかのような整った顔立ちに和服にフリルを合わせた服装の少女が立っていた。
思わず息をのむほど、可憐な美しさが漂っている。
「初めまして、僕は漆原あやめ」
闇をも飲み込む髪はおかっぱで切り揃えられており、少女の年齢を曖昧にしている。少女と表現しながらも、彼女は十代後半から二十代前半と幅広い年齢の印象を与えてくれるのだ。
それはさながら、もう一人の徒野が現れたかのようである。
黒の和服には彼岸花の模様が描かれており、フリルがふんだんにあしらわれたデザインは和ゴスと呼ぶべきだろう。
手には黒のセンスを握っており、優美さも兼ね揃えている。
「ここが、徒野探偵事務所で間違いないかな?」
「えぇ。そうですよ。此方へどうぞ」
依頼人が醸し出す不思議な雰囲気を感じながら、徒野の元まで案内する。
「僕は
「問題だと?」
「そう。つまらない問題じゃないよ、面白い――殺人事件の問題だ」
面白い殺人事件と表現する当たりに漂う徒野同類臭。
顔立ちは似ていないが、徒野の血縁じゃないのかと疑いたくなる。
「ほう、それはいいな。やってみろ」
相変わらず依頼人に対しても上から目線を崩さず、挑発的な態度で応じる。
徒野は敬語が使えないわけではなく、必要となれば敬語も使うし、必要もあれば空気を読むのだが、その必要な場面に出会わなければ誰に対しても空気を読まず敬語を使わない。
必要な場面は通常、結構多いと思うのだけれど、一般的な感覚で必要な場面は徒野にとって必要な場面ではないため、滅多に敬語はお目にかかれない。
必要と場面を繰り返しすぎてゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。
「あぁ。自己紹介はまだだったな、私は徒野こっちが」
「葛桜です」
先手を打って自己紹介をしたら、ちっと舌打ちされた。
「徒野に葛桜ね。宜しく。では、始めるよ」
では始めるよ、という表現が独特で、だからこそ僕っ子彼女は独特な雰囲気を醸し出しているのだろうなと思った。
彼女は物語を語る。
登場人物は、A、山田、マリーの三人だ。
被害者はA。
死因は毒殺。
容疑者はマリー。
被害者Aと容疑者マリーは揉めていたのを度々目撃されている。
場所は会議室。
会議が始まる十分前にマリーはおしぼりとクッキー、コーヒーを三人分用意した。
会議が始まる前に軽食をとるのが恒例であったため、不自然な行為ではない。
トレーにクッキー、おしぼり、コーヒーを入れたままテーブルの真ん中に置き、先に食べていてと言い残して、マリーは手洗いへ移動する。
五分ほどしてから、マリーが手洗いから戻ってくると、Aは死んでいた。
毒を混入する機会があったのはマリーのみで、無差別殺人の可能性はない。
Aが死亡したのは、毒が付着したおしぼりで手を拭きクッキーを食べたのが原因である。
コーヒーに毒は入っていない。
おしぼりは被害者本人が選んだもので、トレーを放置したままマリーは手洗いへ行ったため、毒を手にした瞬間を見ていない。
果たしてマリーはどのような手法を用いて、Aを狙って殺害できたのか。
おしぼりの位置は関係ないこととする。
それが問題だった。
「うわっなんですかこれ……?」
普通に考えれば、Aの近くに毒がついたおしぼりを置いて殺害したかが正解のような気がするが、おしぼりの位置が関係ないのならば、この考えは成立していない。
また、仮におしぼりをAの目の前に置いたからと言って、百パーセントAがおしぼりをとるとは限らない。
トレーを放置したまま出たということは、万が一奥の方においてあるおしぼりをてにする可能性だってあるし、山田がおしぼりを先にとってそれをAに渡すことだってあり得る。
確実性がないのに、その場から離れて被害者が死ぬのを待っていたなんて――三分の一にかけた殺人を犯すというのか?
いや、手洗いから戻ってきて誰も死んでいなければ、自分のおしぼりに毒が入っていると気づけるから、確率自体は二分の一にはなるけれど。
だが百パーセントではないのに、殺人という犯罪に手を染める馬鹿はいるのか。
「ふむ、確かにこれは面白いな」
一方徒野は流石探偵というべきか理解したようで、口元を歪めていた。
「どういうことなんですか? さっぱりです」
「ふふふ、私に解けない問題はない」
胸を張って徒野は宣言したが、いくら何でも解けない問題はないというのは、荒唐無稽で現実性が皆無である。
漆原が扇子を開いて口元を隠しながら微笑んでいる。
「では、僕に答えを教えてもらえるかな?」
「この問題にはあからさまな個所がある」
「ほう」
「あからさま? 一体何があからさまなんですか?」
あからさまな場面など、あの文章にはなかったように思える。
いつも思うが、徒野の思考回路は一体どうなっているのだろうか。
こっちが馬鹿なわけではなく、徒野が飛びぬけて優秀なのだ。
天才と常人は思考回路が違うと、つくづく実感させられるが、比較対象にならないほどに秀逸ならば、競争相手にもなれず劣等感すらわかない。
「あからさまだろ。登場人物は三人なのに、山田だけは存在しないかのように文章には登場しない。明らかに山田だけは言及することを避けている」
「確かに山田は登場しないですけど、でもそれは殺害されなかったからでしょう? 視点が被害者や容疑者にいくのは普通です。もしかして、山田さんが犯人だったんですか?」
それだと問題文に問題が出てきてしまう気がするが、裏をかいたという可能性もなくはない。
「いや、違う。山田は犯人じゃない。犯人はマリーだ」
「ならやっぱり山田さんが登場しないのは別段不思議なことでも……」
「ある。何故ならばこの文章では、容疑者が被害者と揉めていた――すなわち、殺意を抱いていたのはAということになっているが、山田に対して殺意を抱いていないとは書いていない」
「あっ――いや、でも」
そんなのはこじつけじゃないかと、思ったが言葉を視線で遮られた。
黙っていろということだろう。
「山田に対して殺害動機がないとは一言も書いていないということは、殺害動機があるかもしれないということだ。そして――この問題の答えは、五十×五十=百ということだ」
単純に掛け算をしろってわけじゃないよな。だったら二百五十だし。
「簡単に言えばな、どちらが死んでも構わなかったのだよ。どちらが死んでもマリーは得をしたんだ。そして百パーセントAを殺害するトリックがわからない以上、警察が手をこまねくとマリーは判断したのだ」
「山田が、オレが殺されていたかもしれない! と叫んだら?」
「間違えてAを殺害したと? Aを殺害する動機がある以上、間違えたとは警察も思えない。マリーは黙秘を続ける。困惑する、それが狙いだったんじゃないのか?」
「なるほど。まぁこれは問題ですからそこまでツッコミは入れるべきじゃないのですね」
「下手にケチをつけるな。問題は楽しむものだろう」
殺人事件を楽しんでいる徒野に言われたくはないが、それもそうだ。
この文章内で見つければいいのだから細かい話はおいておいて構わない。
「どちらも死んでいなかった場合、手洗いから戻って手は綺麗なのだからおしぼりは使わずにクッキーを食べ、最後に捨てれば誰も怪しまないだろ。今回は殺害に失敗したが――次があるしな」
漆原が扇子をしまい拍手をしている。表情が恍惚しているので歓喜しているのだろう。
「正解だよ。マリーは、Aと山田どちらが死んでも自分が得するように仕組んでいた。だから、半分の確率ではなく百パーセントだったんだ」
「ほらな」
自信満々の顔を徒野にさせてしまった。可愛いのだが、なぜか殴りたくなる。
「流石、噂に違わずの名探偵のようだ」
「これは結構面白い問題だったよ。本来ならばこのような場面に遭遇していたかったな」
「それは済まないね。代わりに、面白い――君ならば喜んでくれるに違いないものを近々用意するつもりだ。それに君たちは来てほしい」
君たちってことは徒野だけじゃないのか。
徒野だけにして貰いたかったよ。
「わかった」
そして二つ返事で返事するな。
詳細、何も言われていないぞと、もの凄く口を挟みたかったが、余計なことは言うなよとばかりに徒野が足を踏んできたので何も言えない。代わりに後ろに手を回して無駄に長い髪を引っ張った。
黒の髪が揺れ、方向転換して帰ろうとした漆原あやめは、ふと歩みを止めて扇子で口元を隠しながら此方を振り返った。
「そういえば、花札もやるのかな?」
「花札? やりますけど、それが何か?」
視線が徒野じゃなくこっちを見ていた気がしたので答えるが、話に脈略がなくて戸惑う。
「そこの本棚に、麻雀必勝法とか、負けない麻雀のための教本とか、麻雀関連の本が数冊並んでいたから、花札とか丁半、手本引きなどそういった賭博も好きなのかなって思っただけだよ」
扇子がしなやかな動作で動き本棚の方を差す。
「なるほど、そうでいたか」
徒野が徹夜をして読んでいた麻雀関連の雑誌が先にはあった。
「それじゃあ、その時は僕の名前漆原あやめで招待状を送るから、忘れないでくれよ」
此方の返答を待たず、何が目的だったのかイマイチわからないまま漆原あやめは去っていった。
徒野は漆原の招待状が楽しみなようで、ソファーに座りながら鼻歌を奏でていた。
漆原あやめが扇子で差した先、本棚に並べられた麻雀雑誌を見ながら思う。
事務所兼リビングとはいえ、事務所も兼ねているのに本棚に麻雀雑誌があるのは――自分で片づけてそこへ配置したとはいえ――漆原の指摘されたことで良くないなと思い直し、移動しようとしと数冊手に取ったところで徒野が抗議の声を上げた。
「マテ! 何故それを移動しようとする!」
「他の依頼人が来た時に麻雀雑誌があったら、大丈夫か此処? って不安になるかもしれないでしょう。だから、見えない場所に移動することにしました」
「まだ何回から繰り返し読みたいから駄目だ、手の届く場所に欲しい!」
「我ら覇者だった徒野が、一昨日、臨時で来た常勝の人物に敗北したことがそんなに悔しいのですか」
普段は優れた頭脳と記憶力、推理力を用いて麻雀ではほとんど負けなしの腕前を誇っていた徒野だったが、一昨日いつものおじさんが体調不良で来られなくなり、臨時で現れた人物が驚くことに、徒野を遥かに上回る麻雀の腕前で、完膚なきまでに徒野を叩き潰した。
牌の運が絡むゲームでよくぞそこまで、できるものだと感心すると同時に、いいぞもっとやれ! と内心常勝の彼を応援したものだ。
負けた徒野は悔しくて、麻雀雑誌を買いあさり、昨日は臨時休業をしてまで――しなくても依頼人は来なかっただろうが――読み漁っていた。
「当たり前だ! 私を負かせる人間など存在してはならない!」
「それは大げさすぎですよ。そもそも、料理勝負とかなら徒野は負けっぱなしですよ?」
「そ、それは私が得意なことではないからいいのだ!」
「よくありません。全く、麻雀で負けたのが悔しくて麻雀雑誌を読み漁って、徹夜してだらしなく散らかしたまま寝るとか言語道断です」
「普段ソファーで寝ている奴に文句を言われた……」
しょぼんと表情を曇らせて頭を下げる徒野が可愛くて、思わず頭を撫でようと手を伸ばしたら、猫がひっかくような動作で素早く手を払いのけられてしまった。残念。
「私はふて寝する! いいか、私が起きたらとびっきりのビーフシチューを用意するのだ! これは業務命令だ!」
徒野は猫がまるまるように身体を丸めてソファーに埋もれてしまった。
「はいはい、わかりましたよ」
苦笑しながら、徒野ご注文のビーフシチューを用意するため、買い物へ出かけることにした。
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