五話:満月
何故、僕はそんなことを言った?
いや――ゴミ箱が一杯だと知っているのに、徒野にゴミを捨てろといった矛盾は、単に酔っぱらっていたからだろう。
徒野のように僕は酒豪ではない。二日酔いもよくあるし。これ、そのうち急性アルコール中毒とか大丈夫か? と不安がいっそよぎった。酔うと記憶をなくすので、言動が支離滅裂でも不思議ではない。
だから大丈夫だ。なんの不思議もない。
「はぁ」
ため息をつく。瓶のゴミ箱がいっぱいなのを忘却するくらい酒を飲むのは慎んでもらいたいものだ。飲酒したときの僕。いくら何でも記憶を失いすぎだ。
けれど、徒野が笑顔で酒を勧めてきたらなんだかんだいって断れない。
徒野の笑顔が好きなわけじゃないけれど、徒野が望むものは叶えたいと思うのだ。好感とはちょっと違う。猫が好きだからかな? 徒野の金色の瞳は猫っぽいし、気まぐれで気分屋なところとかよく言われる猫っぽさがある。
「何をしているんだ、葛。ゴミ箱を眺めていたってゴミ箱は増殖しないぞ。無機物だ」
「増殖って……」
「なんだ葛。顔色が悪いぞ大丈夫か?」
「心配してくれるなら禁酒してほしいものですね。……部屋にいると少ししんどいので、ちょっと気分転換に買い物に行ってきます。何か欲しいものはありますか?」
「そうだな……」
徒野は、探るような目で僕を見てきた。
酒を買ってといって怒られないか様子を伺うアル中ではあるまいな? 言われたら思わず瓶で殴るかもしれない。そんな暴力的なことはしないけど。
「……とくにはないな。ゆっくりしてくるといい」
良かった。アル中ではない。
「ええ。そうしますね。依頼があったら連絡ください。戻ってきます」
「依頼があると思うか?」
「威張るな……依頼がないのは平和の証ということにしておきますよ」
殺人事件の依頼しか受け付けないような探偵事務所である。だから依頼は基本的にないので、勤務中でも、外に気分転換ができるし徒野もとやかく言わない。
警察ではなく探偵に依頼するような酔狂な人間が少ないのはいいことではあったが、それはそれとして年中無休になる未来は避けたい。
いやでも殺人事件が起こるということは人が死ぬということなので、年中無休の方がいいといえば、いいのだが。仕事のために人が死んでも困る。
外は寒いので、徒野が買ってくれた藍色のコートを着て、黒のマフラーを首元に巻いてから玄関で靴を履き、外に出る。暖房がきかない外は一気に身体が凍り付いてしまいそうだ。寒い。手袋もしてくればよかった。失敗だ。
小学生が薄手で元気に走っている姿が見える。子供は元気だ。
寒すぎるし、喫茶店で寛ぐか。それとも資格勉強でもするのに本を探そうかと悩んでいると、背後から「あら?」と驚いた声をかけられた。振り返ると、百合子がいた。
以前、仲間内での殺人事件があり犯人に検討がついたため自首を促そうと探偵を呼んだ綺麗な女性だ。
親し気な表情で百合子はこちらへ近づいてきたので、無視も失礼だから会釈をする。
百合子は肩からショルダーバックを下げているほか、手に紙袋を持っていた。どこかデパートで買い物をした後だろうか。事件の時はかけていなかった眼鏡をかけているせいか、理知的さが増していて徒野に見習わせたくなる。まあ眼鏡をかけたところで徒野が変わることはないのだが。
「こんにちは、百合子さん」
「こんにちは。葛桜さん。こうしてまたお会いできるなんて、なんだか面白い偶然ですね」
確かに面白い偶然だ。
まさか依頼人と再度こうして道端で再会するとは思わなかった。
「そうですね」
「葛桜さん、これからお時間あります?」
「え、あ、はい。一応ありますけど」
「では良ければお茶とかどうです?」
親し気に誘われた。僕と百合子はたまたま殺人事件の依頼人と探偵の助手という立場だけでしかない。依頼が終わった以上、関係も終わりのはずなのだが――とはいえ、断る理由は特にない。しかし距離が近い。
いや、徒野みたいな女性もいるから、百合子も社交的なタイプなんだろうな。
「あ、はい。では……」
「よかった」
百合子が、その名前にふさわしい笑顔を浮かべた。
「おすすめの本、せっかくだからお貸ししたいと思っていたんです!」
――は?
なんの話?
「さっきまで書店さんにいて、単行本で好きだった本が文庫になったので買ったんですよ、ほら」
僕が口を挟む暇もなく、百合子ははしゃいで紙袋からブックカバーのかかった文庫本を取り出した。
「ぜひ葛桜さんにもご迷惑でなければ読んでいただきたくて。私は単行本ですでに内容は知っているので、文庫お貸しできますしちょうどいいかな! って思ったんです」
盛り上がる百合子に、僕はますます混乱する。
一体何のことか、話の筋が見えない。背筋に冷や汗が流れる。不安の正体を突き止めようと、百合子に口を半開きにしたところで
「百合子」
僕の背後から、彼女を呼ぶ男性の声がした。とたんに、百合子が顔を赤く染めた。
「ミツキさん!」
百合子が嬉しそうに声の主の名を呼んだ。
背後を振り返ると、軽く手を挙げて緩やかな挨拶をしている男性がいた。
黒髪にもみあげがやや長く、サングラスをかけている整った顔立ちの年齢は僕よりやや年上で二十代中ごろから後半。長身で細身。
青のシャツに黒のコートを羽織っている姿はモデルかと思うほどに様になっている。まっすぐに伸びた背筋と、足取りがしっかりしている姿は、自信の塊のようにも見える。
ミツキと呼ばれた男は百合子の彼氏だろうか? だとしたら浮気と疑われたら困るんじゃないかと僕の心配をよそに、百合子が僕の隣に並んだ。
「ミツキさん偶然ですね! こちらは葛桜さんです、この間の……」
言葉に詰まった百合子を横目で見ると、悲しげで苦しそうな顔をしていた。それでミツキは察したようだ。
「事件の時の?」
「はい。その時知り合った葛桜さんです。探偵さんの助手をしている方です」
正確には事務員だが、否定する要素もない。
「葛桜さん。こちらはミツキさんで、その……私の、恋人です」
今度は僕の方へ向かって、百合子が照れくさそうに教えてくれた。とっておきの秘密を教えてくれるような甘さがあった。
「初めまして。葛桜鏡です」
僕が名乗ると、ミツキはなぜか面白そうに笑ってサングラスを外した。
「初めまして。オレは
猫のような金色の瞳が、こちらを見据えていた。
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