第24話 ただ、君の為なら3


 黄金の光を纏いながら、ミリアは高く跳躍した。雷光を足に纏わせて、その揚力によって、天井に張り付く伊吹に向けて飛翔する。

「っ……やれるもんならやってみなよぉ!」

 伊吹が右手を振り上げる。

 その動作に合わせて、一面に張り巡らされた蜘蛛の糸が引っ張られ、まるで生き物のようにミリアへと飛びかかった。

 四方八方。全面を覆うように襲いかかる、同時攻撃。

「ふっ――」

 ミリアは一息、自らの体を錐揉み回転させる。纏う雷光を渦のように広げて、迫り来る糸を全て焼き切った。

騎憤竜レイジ・ライド!」

 ミリアはその渦に更にエネルギーをたたき込み、実体を形作る。全長五メートルほどの豪快な黄金の竜が誕生し、その背に着地する。

 爽快な感覚に、ミリアの顔が綻んだ。

 睦美のお陰で、息苦しい霧は発生しない。霊素は潤沢。十二分に力を発揮できる。

「何よその得意気な顔っ……私を舐めるなぁ!」

「舐めるのはアンタよ! アタシの靴の底に舌を這わせなさい!」

 更に、相手に不足なし!

 ミリアの昂揚は最高潮に達し、迸る雷光がその感情に応えて輝く。ミリアを背に乗せたまま、光の竜は尾を振り、再び飛来した蜘蛛の糸を薙ぎ払った。

「っ――」

 落雷が直撃したような衝撃が空気を震わせ、蜘蛛の糸を通じて伊吹の体を揺らす。

 その隙を狙い打つように、ミリアが竜を繰り、突撃した。

 陵弥に差し向けた時よりも、遙かに強力で巨大な頭部が、異形と化した伊吹を喰らおうと迫る。

 恒星のような閃光。対して伊吹が浮かべたのは――愉悦の笑み。

「甘い甘いあまぁぁぁぁぁいっ!!」

 上部の二脚を天井の糸にぶら下げ、残りの六本を全て、ミリアの竜に向けて突き出した。

 一つ一つは、男の腕ほどはある強靱な太さだ。竜の眉間めがけ、その局所に集中した一撃は、突進の勢いを殺し、拮抗する。

「ッんの……節足動物風情が、生意気な!」

 ミリアが体に力を漲らせ、更に勢いを増加させるが、蜘蛛の脚はびくともしない。伊吹の笑みは崩れず、未だ余裕の表情だ。

「あっははぁ……いいの? そんなにじぃ~っとしちゃってさぁ!」

「なに――ッ!?」

 微かな違和感。

 ミリアが振り向けば、その腕に、真白の蜘蛛の糸が絡みつき、彼女の動きを封じていた。

 いや、ミリアだけではない。ミリアが生み出した竜にも、四方八方から伸びた糸が取り付き、黄金の輝きを曇らせていた。

「この……っ」

 腕に力を籠めるもビクともせず、ミリアは愉悦の滲んだ伊吹の顔を睨もうと――睨もうとした。

 振り向いた視界には、超至近距離まで接近した伊吹が、ミリアの喉元めがけ、獰猛に口を開いていた。

 喰らおう、という、純粋な狂気。それがまっすぐに、ミリアの命を絶とうと迫る。

「ッ――『スプラウト』!」

 反射的に、ミリアは纏う雷光を爆発させた。背に乗る竜にも伝播し、天井を大爆発が包む。

 壁に張り巡らされた糸は無傷だったが、体に絡みついたものと、伊吹の体は吹き飛ばすことができた。雷撃をもろに受けた伊吹は、体を振り回しながら吹き飛んでいたが、体育館の中程で糸を引き、ぶら下がる。

「あっはぁぁ……惜しいなぁ。もうちょっとだったのにぃ……」

 つり上がった唇。ぺろりとなめる長い舌。狂気をはらんだ目は、まっすぐミリアの首筋を舐め付けている。

 ミリアの背中にぞわっと悪寒が走り、思わず手で首を隠した。

「っ……ほんと、完璧に化け物なわけね……!」

「ミリアちゃんの血ぃ、おいしそうだなぁぁ……食いちぎって啜ったら、どんな悲鳴を上げてくれるのかなぁ? ねぇ?」

 伊吹はそこで、ぎょろりと目を動かした。

 視界の隅に捉えていた、アイギスを稼働しようとするアテナを見る。

「……ゆっくりじっくり、相手してあげるよぉ」

「ッミリアさん!」

 伊吹がそう言い、右手をサッと動かす。

 アテナが気づくよりも早く、室内を覆っていた糸が一斉に蠢き、彼女の姿を覆い隠した。

 伊吹とミリアを囲むように糸が絡み、まるで繭のような球状の空間が誕生する。

 僅かな音と空気の震え。アテナが繭を破ろうとしているのだろう。だが、先ほどの霧以上に、物理的に、この糸は全てを拒む。

 たった一人取り残されたミリアに向けて、伊吹は戦いの再開を宣言した。

「さあミリアちゃん! 愉快な悲鳴を、たぁっぷり聞かせてよぉぉ!」

「ハンッ、悲鳴を上げるのはあんたの方よ! 三つ指と八つ脚付けて土下座なさい!」

 ミリアは再び竜を繰り、今度は尾を伸ばして伊吹を狙う。

 鞭のようにしなり、トラックのように強烈な一撃も、伊吹はまたも脚によって拮抗し、弾き返す。

 ミリアは即座にその場を移動した。僅かでも停滞すれば、壁一面の蜘蛛の糸が自分を捉えようと迫ってくる。ミリアはヒット&アウェイのスタンスでの攻撃と回避に専念する。

「『天針ヘヴンズ・コンパス』!」

 手に黄金の針を創造し、伊吹に投擲する。しかし伊吹が持ち上げた霧の羽衣に当たると、まるで水に潜ったように勢いが削がれる。

「チッ」

 舌打ち一つ。ミリアは再び雷光を放出し、あらゆる包囲から迫り来る蜘蛛の糸を焼き払う。

 貫かれても、捕縛されても命はない。一瞬の気の迷いが、即座に死に繋がってしまう。

 繭はこれ以上収縮するつもりはないらしい。それでも、隙間なく覆う白い糸の全てが、自分を虎視眈々と狙っているのだ。

 精神が徐々に磨耗していく。荒ぶる息を沈めながら正面を睨みつければ、伊吹は首を奇怪に傾げ、けらけらと笑う。

 ――遊ばれている。

 そう自覚した瞬間、ミリアの眉間に深い皺が寄る。伊吹の愉悦は益々高ぶり、ミリアの怒りの琴線を刺激する。

「くすくす……楽しいなぁ。陵弥と競い合っていたミリアちゃん。自分が最強と信じてたミリアちゃん……自分がお遊戯をしてただけって気づいた気持ちはどーお?」

「っ……見くびらないで欲しいわね。今、どうやってその醜悪な性格を身体から引っ剥がすかを考えてるとこなのよ!」

「無理だって言ってるのにぃ……じゃあ、遊びはお終いにしようか?」

 その瞬間、伊吹の笑みが引き、周囲の温度が急激に冷え込む。

 空中にぶら下がったまま、両手を大きく広げる。背中からは、計八本の蜘蛛の脚が放射状に広がっている。

 次の瞬間、それよりも更に長大な蜘蛛の脚が、さらに八本飛び出した。

 まるで花弁が重なる蓮の花のように。不気味な蜘蛛の脚が、二層に重なって蠢く。

「ちょっ……蜘蛛の脚は八本って決まりでしょ!?」

「あっはははぁぁぁ! クレバスを取り込んでるのを忘れたのぉ? 概念も生物としての規格も、私には意味ないんだよぉ!」

 計十六本の脚が、ほぼ同時にミリアに突き出された。

 全方位を囲むように繰り出された十六の槍。先ほどとは段違いに早く、重い。

 ミリアは竜の背から飛び降り、同時に尾を操って、そこに足を乗せた。即座に尾を弾かせて、自分の身体を射出する。

 円状に繰り出された攻撃の唯一の隙間――中心を突き抜けて、まっすぐ伊吹へ飛来する。

 同時。背後の竜が、蜘蛛の脚に滅多刺しにされ、雲散霧消した。感覚で理解し、ミリアは歯ぎしりする。

 この一瞬だ。無防備な本体に、全力でぶちかますしかない!

 両手に雷光を迸らせ、伊吹の哄笑を焼き払おうと飛ぶ。

 その動きが――ピタリと、空中で停止した。

「ぬ、ぐ……っ!」

 最早確認するまでもなかった。肩と脚に蜘蛛の糸が張り付き、まるで空中にピン留めするように、彼女の体を固定している。

「こっ、のぉ!」

 ミリアは即座に『スプラウト』を放った。

 しかし、威力は全く衰えていないのに、自分を縛る糸は全くこたえていない。金色の光にもビクともせず、ミリアを空中にぶら下げる。

「冗談よしてよ。この糸まで……!?」

「言ったでしょ? 遊びはお終いだって」

 微笑んだ伊吹が、自然な仕草で右手を持ち上げる。

 その手のひらから蜘蛛の脚が飛び出し、ミリアの首筋、襟を引っかけて、彼女の体を遙か後方に吹き飛ばした。

「あぐっ!」

 叩きつけられ、激しい音と衝撃がミリアの体を痺れさせる。

 伊吹が人差し指を軽く動かすと、壁に張り巡らされた糸が蠢き、瞬く間にミリアを壁に縛り付けた。

 体を縫いつけられ、ミリアの自由は封じられる。必死にもがいてみるものの、全てが無駄なあがきだ。もう、顔の向きさえ変えることさえできない。

 正面に固定された視界で、霧の羽衣に身を包んだ伊吹がゆっくりと近づいてくる。

 徐々に大きくなるその顔は――目を覆いたくなるほどに、既に人間のものではなくなっていた。

 まるでマスクが破れたように、伊吹の顔は、内側から見るも無惨に変形していた。

 伊吹の目の形は既に人の域を逸脱し、拳大の血で作られた真珠のような球体が、てらてらと輝いていた。

 そんな巨大な球体が、伊吹本来の目と入れ替わるようにして、彼女の小柄な体に強引に埋め込まれている。更にその間、本来眉間に当たる箇所に、それよりも少しだけ小さな球体が二つ、ぼっこりと浮き上がっている。

 何の感情も映さない無機質な四つの輝きは、まさしく蜘蛛のそれ。

 蜘蛛と少女を強引に融合させた。骨格も歪んだ吐き気を催す異形が、ゆっくりと近づいてくる。

「化物……! 何が一体化よ。完全に、取り込んでるじゃない」

「人の体は、現実に身を潜めるための仮初め。あなたを惨たらしく殺すためには、邪魔でしかないわ」

 伊吹だったソレは、手のひらから突き出た脚で、ミリアの服に切れ込みを入れた。そのまま生地を裂き、彼女の肩口を露わにする。

 真珠のように艶やかな、ミルク色の柔肌。大きくふっくらとした乳房に、それを覆うライトイエローのシンプルなブラ。

 芸術的な美しい肌を見て、化物は酷薄に笑う。

「陵弥の絶望に染まりきった顔、もっと見たいなぁ……ミリアちゃんをどうしたら、陵弥は悲しんでくれるかなぁ?」

 ホックがかかる左肩は、白い包帯でキツく縛られていた。厚く巻かれた包帯の中心には、紅い染みが滲み円を描いている。包帯は血を止めるには至っていないようで、染みはじっとりと濡れ、今も水気を吸って大きくなっているように見えた。

 怒りに歪むミリアの表情に、汗が伝う。白磁のような滑らかな肌は、血を失い、僅かに青みを差していた。

「ふふ……痛いの、我慢してるんだぁ。偉いなー」

 何の感慨もなく、伊吹はその染みに向かって手を突き込んだ。

「あっぎ!? んっ……くぅぅっ!?」

 鮮血が吹きだし、激痛にミリアの顔が歪む。おかまいなしに、肉の中で手を開き、熱い中をまさぐり、傷を拡張する。

 ぐっしょりと血で塗れた手を、伊吹は三日月のように耳まで裂けた口を開き、くわえ込んだ。まみれた血を啜り、恍惚に息を漏らす。

「ぱぁぁぁぁ……おいしいなぁ。なんて純粋で、気高いんだろう……陵弥にも、私にももったいないよ」

 口を開けば、血で塗れた乱杭歯が覗く。もはや、伊吹らしい面影を探す方が難しい。

「ミリアちゃんも残念だね。こんな強力な魂が、ここで終わっちゃう。陵弥なんかの為に死んじゃうんだよ? ねえ、どんな気持ち? なんの救いもなく、無為に死んじゃうって、どんな気持ちなの?」

 血が香る生温かい息が顔を触る。狂気が命に手を懸ける。

 その状況に置かれて……ミリアは、かつてない怒りに震えた。

 口は勝手に動いていた。言葉は勝手に口をついていた。

「……アンタはもう、土峰伊吹じゃない」

 真紅の眼球を睨みつけ、ミリアは唾棄するように言葉を投げた。

「アイツのことを大事に思うなら……『陵弥なんか』なんて言葉、絶対に出てこない……!」

 伊吹だったモノは、きょとんと小首を傾げ、いっそ馬鹿にしたように、語調を上げる。

「なんで怒ってるのぉ?」

「っ……ムカつくからよ。アンタに、心底ムカついてるからよ!」

 縛り付ける糸は、身じろぎさえ許してくれない。ただ喉だけを振り絞り、ミリアは激高する。

「アイツとアンタの関係なんて知らないわ! 普段どんな事をしていたのかも! ……でもね、アタシはアイツをずっと見てきたのよ! アンタの知らない部分も、一杯ね!」

 その言葉に、張り付いていた伊吹の嘲笑が、はたと消える。

「ずっと競い合った! 喧嘩ばっかりした! 霊装士になりたい一心で、アイツは何度もアタシに食ってかかって! 霊装士になりたい一心で、アイツは何度も校長室に『神頼み』してた! 全部全部、アンタを救いたい、ただそれだけのためによ!」

「……」

「それをアイツは……この土壇場で、土峰伊吹を……ッのよ!」


 空間の支配を解除し霧を晴らす為の計画は、陵弥の発案だった。

 睦美は『一瞬でも隙が生まれれば、この霧を晴らせる』といった。

 だから一瞬だけでも、伊吹に強烈な攻撃を見舞う必要があった。

 相手が土峰伊吹を依代としている以上、陵弥を真っ先に狙うことは自明だ。

 故に陵弥は、自らが戦陣を切り、囮になることを選んだのだ。

 ――『伊吹を救う』という明文を前に、自らが倒れることを選択した。


「『お前ならやってくれる』って、そう言ってアイツは、アタシに剣を握らせて、自ら罠に飛び込んだ! だからアタシは、アイツの代わりにアンタを救わなくちゃいけない! でも……でもっ」

 頭を縛り付ける蜘蛛の糸が軋む。

 怒りなのか、悲しみなのか、分からない。

 だが、その言葉を吐き出す前に、ミリアの瞳は、自然と涙をこぼしていた。

「でもっ……アンタがもう元に戻らないっていうなら。救いたくてたまらないものが、もう取り返しがつかないのなら――アイツのために。今ここで、アタシがぶち殺す!」

 その瞬間、ミリアは黄金の輝きを爆発させた。

 かつてない感情の高ぶりを発露にした、強烈な閃光。

 ところが化け物は、霧の羽衣で顔を覆うだけ。まるで小雨でも降ったような、そんなおざなりな反応しか返さない。

 歴然とした力を前に、それでもミリアは激高する。抑えられない怒りをぶちまける。

「そんな醜い顔も! 汚い心も! 絶対に見せてたまるもんか! アイツの為に、責任もってアタシがアンタを殺す! 灰も残さず燃やし尽くす! 絡みつかれた呪縛をアンタごと引きちぎる! それでアイツが生きる理由を見失ったなら……その時は、アタシが代わりにでもなってやるわよ! 例え憎まれてでも、アタシが側にいて、アイツの支えに――」

 ダンッ、という衝撃。

 目が覚めるほどの激しい音と共に、ミリアの肩の傷に、拳がめり込んでいた。

 視界に閃光が弾け、遅れてじわじわと、焦げ付くような激痛が走る。

「ぃ……ぎ、ぅぅううう……っ!」

 歯を食いしばり、目尻に涙を溜め……それでも瞳を怒りに燃やし、眼前の化け物を睨みつける。

 化け物の口は静かに閉じて、瞳も相まって、非生物的な無機質な印象を与えた。

 血のような真紅の球体が、冷徹にミリアを舐めつける。

「……へぇ、そういうこと言うんだぁ……ちょっとびっくり。今、初めてあなたを心から殺したいって思ってるかも。本当に……内側の方からも」

 今まで余裕だった化け物の、初めて見せる怒り。

 かつて見たどれとも違う。血が凍り付いてしまいそうな、絶対的な恐怖。

 ぐり、とめり込んだ拳が捻られ、ミリアの肩に更に深く沈む。

「んっ、いうぅ!」

「クレバスを取り込んだ超常存在に対して、生意気な……私はね、神にもなれるんだよ? 神の機嫌を損ねさせて、無事でいられるわけがないよね」

 遊ぶ心持ちさえも消え失せ、今はただ、おぞましい殺意だけが眼前に漂う。

「決めた。あなたは最後に殺してあげる。あなたの大事なものを一人ずつ殺す。そうして、陵弥をあなたの眼前で八つ裂きにする。生きたまま四肢をもいで、じわじわと嬲り殺す」

 くすくす、と笑う。その顔はいつの間にか、元の伊吹の顔に戻っていた。

 無邪気で獰猛な、悪魔の微笑み。

 彼がただ一人大切にした少女が、酷薄に語る。

「ああ、愉快だなぁ……陵弥は、一番大好きな人に殺される。大好きな人に体を裂かれて、痛みに狂って、どうして、どうしてって言いながらゆっくり死んでいく! キャハハ! あなたのせいだよ! あなたが神様を怒らせたから、陵弥は苦しみぬいて死ぬの! キャハハハハハハハッ!!」

 甲高い哄笑。心なき、狂った絶叫。

 耳を塞ぎたい、目を塞ぎたい。それさえかなわず、ミリアは縛られた体に力を込めて、ただ唇を噛みしめる。

「断面にキスさせてあげるよぉ。死顔を舐めさせて、眼球をくわえさせて、引き抜いた男根を口にねじ込んであげる……そうして、希望を全部失ったあなたを飲み込んで、ゆっくりと溶かしてあげるよ」

 そう言い、伊吹はミリアから距離を取った。

 虚空に漂い、広げた十六本の脚を、空間の一点に突き刺す。

 ギギッという音に、隙間風に似た、微かな空気のうなり声。

 脚が空間を裂き、そこから眩い光と共に、圧倒的なエネルギーが噴出していく。

 世界の裂け目。クレバスが、再び伊吹の手によって開かれようとしている。

 開ききった瞳孔で、伊吹は歓喜に打ち震える。

「もう誰も止められない……! 神に逆らった愚行を呪うがいい!」

「っ……くっそぉ……!」

 圧倒的な威圧に、ミリアが目を瞑る。

 裂け目が明瞭に形を成し、深い霧が吹き上がる。

 世界が、再び白の死に包まれる。



「あまり神を弄するな、下等」

 ――声が聞こえたのは、その瞬間だった。

 次の刹那、空間を断絶していた白い繭の一カ所が、真っ赤に赤熱し、炎を吹き上げた。

「熱っ!?」

 吹き上がった火柱は、伊吹とミリアの中間を絶つように立ち上り、今まさに完成しようとしたクレバスを、伊吹の脚ごと焼き払った。

 逃げ遅れた数本が、一瞬で炭化し、消滅する。伊吹が呻くうちにも火は延焼し、繭のようだった蜘蛛の糸を消し去っていく。

「ちょ、あっつ!? 何よこの火!」

 同時に、ミリアを縛っていた拘束も緩み、ミリアは叫びながら、身じろぎして繭から抜け出す。

 強靱な蜘蛛の糸をまるで羊毛のように容易く焼き払った、その中心地には、赤毛を棚引かせた神が、静かに腕を組んでいた。

「――真言ロゴス、詠唱完了。すまないなミリア。少々時間がかかってしまった」

 静かに言葉を紡ぎ、その行程が満了したことを確認する。

 幼年の少女の勇んだ瞳に、伊吹は小さく舌打ちをした。

「邪魔をしないでよ、ヘファイーストス……! 隅っこで死ぬのを待ってればいいのに」

 伊吹の挑発には答えず、いーすんは、己の周囲に火焔を渦巻かせながら笑う。

「今の地上世界の住人には、幸運だった事が二つある」

 いつも通りの尊大な口調で、流麗に言葉を並べる。

「確かに、大崩落は悲惨な現象だった。エネルギーが満ち溢れ、多くの人が死に、世界が怪奇に包まれた……だが人は、自らその超常に順応し、絶望を打ち砕く希望と、恐怖に対抗する力を手に入れた」

 一つ目だ。そう言うと、いーすんは右手を虚空に翳した。

 途端、渦巻いていた炎がそこに集約する。一度大きく輝いたと思うと、手には灼熱の鎚が誕生していた。

「人は強い。あるいは鍛え己が腕を磨き、あるいは諦めず挑み続け、あるいは神に祈りを捧げ、そうやって困難を打破してきた……大崩落という未曾有の災害を経て尚、その輝きは潰えることはない」

 幼い口が綻ぶ。高熱に浮かされたように、魂が昂揚する。

「まったく、なんと美しいことか分からん。地上に墜ち力の殆どを失った身だが、ここに来てよかったと思っているぞ。飯も旨いし自然は綺麗だし飯は旨いし……こほんっ。ともかく、それが二つ目だ」

 今度は左手。焔が凝縮し、その腕を覆うように、灼熱色の小手が誕生した。

 鎚と小手を手に、いーすんは燃える瞳を、真っ直ぐ伊吹に突き刺した。

「事実として、彼らは知っているのだ……神はいる。人の隣に寄り添い、自らの願いを聞いているとな。そしてそれは、断じて、貴様のような愚劣な存在ではない」

 断言されて、伊吹のこめかみがヒクッと痙攣した。笑みが険悪にひきつり、殺意を露わに睥睨する。

「へぇ? 私の変化に気づけなかったくせに、口だけは達者なんだね?」

「うむ。それには酷く責任を感じていてな。軽視していた私の落ち度だ。正直、天童には頭が上がらん。神もそう万能ではないので、許してほしいのだが……」

 苦笑し、いーすんは一息、呼吸する。

「――しかし、だ。人の願いを叶えるのもまた、神たる勤めだ」

「へーぇ……ちっちゃい女の子が、随分でかい口を叩くねぇ」

「だから言ったのだ。神を弄するな、と。クレバスを取り込んだごときで、自惚れすぎだ」

 伊吹の怒りが、とうとう弾けた。

「ッだったら、その『ごとき』で殺されちゃいなよぉ!」

 焼失した脚は、既に再生を完了していた。十六本のそれらを、一斉にいーすんに向けて伸ばす。

「壁陣【障】!」

 怒濤の勢いの刺突は、アテナが展開した壁に激突し、全て防がれた。激しい衝突に、伊吹が舌打ち、脚を引き戻す。

 いーすんの傍らに立つアテナもまた、力強いエメラルド色の輝きを瞳に讃えている。

 希望に溢れ、揺るがぬ高潔な意志は、まさしく神のもの。

「待たせたな、天童……お前の願い、このヘファイーストスが聞き入れた」

「アイギス――神域展開!」

 凛と張る、アテナの声。

 白盾の機構が唸り、黄土の防壁が発生する。

 黄土の光は収束し、いーすんの眼前に球体を象った。球体はいーすんの正面に穴を開けており、端から見れば、金魚鉢のようにも見えた。

 その大きく開いた口に向かって、いーすんの周囲の炎が吹き込まれていく。圧倒的な熱が一縷も漏らさず、滝のような勢いでなだれ込んでいく。

 大量の炎が局所に押し込まれ、想像を絶する超高圧、超高熱が、鉢――否。あらゆるものを遮断するアイギスが生んだ『炉』の中に充填される。

「覚えておくがいい、端妖怪――願いを叶え、奇跡を起こしてこその神なのだと!」

 叫び、いーすんは左手の小手を、その炉の中に突き入れた。

 人智を越えた炎の海に手を差し入れ――掴む。

 途端、焔が激しく弾け、アイギスの炉の中で唸りを上げた。

 命を得たような目映い輝きは、余りにも強く、想像を絶し。

 神々しい光でもって――奇跡の誕生を告げる。

「さあ、新たな神の御業を、希代の創世を目撃するがいい! 神域展開――神器創造!」

 そして、いーすんは右手の鎚を振り上げ、アイギスの炉を砕き割った。

 ガラスが割れる、甲高く澄んだ音。籍を切ったように光と高圧が吹き出し、そこにいた誰しもに目を塞がせる。

 激しい音と光と旋風……それが、新たな奇跡の産声。

 目を開いた、その視界にあったものに……

 全員が、言葉を失った。


『……』

 そう――かける言葉が、見つからなくて。

 より明確に言えば――意味が分からなくて。

『……………………』

「ふっふっふ……驚きすぎて言葉も出ないか?」

 無言の空間に、いーすんの不敵な笑いが木霊する。

 何かの冗談かもしれない。

 ミリアに至っては、何かの冗談だと信じたかった。

 光の止んだ、その先では――

 キラキラと満面の笑みを輝かせたいーすんが仁王立ちをして。


 ――どう見ても掃除機にしか見えないものを、背負っていた。

「フゥーーッハッハッハァ! 刮目せよ! ゴッドでマッドなスーパービックリドッキリメカ! 『かくはんウインドーくん』の爆誕だぁぁぁ!」

「ここでボケかますのぉぉ!?」


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