第14話 憤怒の雷


 吹き出した奔流が目眩ましであることは、飛び込んだ瞬間すぐに気づいた。熱も威力も虚仮威しだ。何ともない。

 陵弥は焦らない。突貫しようとした体制を直し、冷静にミリアの声を探り当てた。

「『天針ヘブンズ・コンパス』――ッ!」

 視界を埋め尽くす光の奔流に飲まれながら、床を踏みしめて急停止。上体を屈めて、飛来した硬質の針を素通りさせる。

 陵弥は更に双剣を腰だめに構え、一閃。

 ×字に交差させた剣劇が、続けて迫ってきた黄金の針を真正面から打ち砕いた。

 ガラスを割ったような甲高い音が響きわたり、砕け散った針の欠片が陵弥の後ろに、星屑のように煌めいて消える。

 視界を覆っていた光が薄れていくと、そこには仁王立ちのミリアが陵弥をキツく見据えていた。

 軽く鼻を鳴らして、見下すように顎を上げる。

「ま、こんな虚仮威しで倒れるとも思ってないけどね」

「お前なぁ、正々堂々って言った癖して、一発目が不意打ちかよ!」

 叫び、陵弥は再びミリアに向けて疾走する。『地極・奮迅』の鋼色の煌めきを地面に疾らせる。

「フンッ、『天針』の弾はまだあるのよ! 撃ぇ!!」

 弓を引くように構えた先端から、更に大量の針が射出される。

 雨のように降り注ぐそれを、陵弥は臆さず、真正面から突貫する。紙一重で避け、鋭い剣劇で砕き、瞬く間に距離を積める。

 仁王立ちを続ける英国少女の間合いまで後僅か。刃を振り下ろす覚悟を決めた、次の瞬間だった。

 視界でどんどん大きくなっていくミリアの姿が、突如としてまばゆく発光する。

 反射的に、陵弥は高く跳ね上がった。更に空中を蹴り、ミリアを股越すようにして距離を取る。

「『スプライト』!」

 叫び、地面を激しく蹴りつける。

 次の刹那に、ミリアを中心に激しい爆発が起こった。

 放電の用に、金色の光が周囲を激しく蹂躙する。陵弥の体を強い風が叩き、髪が激しく靡いた。

「あっ……ぶないなぁ!」

「ふふんっ。近づいて斬るだけしか能のない単細胞に、果たして突破できるかしらっ!?」

 挑発的に笑い、ミリアは幾本もの雷光を操り、陵弥に向けて放つ。

 獲物を狙う蛇のように、揺らめきながら陵弥に食らいつこうと迫る幾本もの雷。陵弥は空中を跳ね絶えず軌道を変えながら、体を錐揉み回転させて、追従する光を剣で絶ち、呪符で払い、一つたりともその体に触れさせない。

 十秒にも満たない、刹那の応酬。空中を舞う陵弥を、ミリアは眼光鋭く睨みつける。

「中々やるじゃない! でも、一体いつまで持つかしら!?」

 その威勢を裏付けるように、再びミリアの周囲から光が吹き上がり、先ほど以上の光の帯が陵弥に追いすがる。

 『ドラゴニア』――周囲の霊素を強引に服従させ、自分の属性へと転換。黄金の雷として操る力。

 自らの外の霊素を使うという点で、陵弥の『地極・奮迅』と特性が大きく異なる霊装だ。

 硬度も形状も範囲も自由自在。威力、汎用性共に強力無比な光は――扱える霊素の濃度が濃いほどに力を増す。

 バリバリと大気を震わせる金色の奔流は、まるで大地をえぐる激流のように、かつてない程に熱く激しく迸る。

「アッハハハ! 神器展開の名残かしら、すっごい霊素濃度! 刮目なさい天童陵弥! 今のアタシは、これ以上ないほどにノっているわよぉ!!」

 ゴウッと凄まじい突風と共に、巨大な光の帯が陵弥に飛来する。

 視界を覆う津波のような雷光を見て、流石に冷や汗が伝う。

「『呪縛』!」

 陵弥は咄嗟に三叉の呪符を操り、自らの体に巻きつける。

 即席の鎧を展開した陵弥は、そのまま、津波のような金色の波に突貫する。

 肌を焼く高熱。耳をつんざく轟音。圧倒的なエネルギーに、蛹のように覆った呪符がチリチリと悲鳴を上げる。

 しかし、はたして陵弥は万事無事のままに、その金色の波を抜けた。

 呪符の蛹を解いた先に、ミリアが変わらず不敵な笑みを向けている。

 未だ崩れない涼しげな表情に、陵弥は再び突撃を仕掛けようとする。

 しかしそれを見計らったように、ミリアの体が再び発光し、放射攻撃の予兆を見せた。


 ミリアの圧倒的な余裕は、この『スプラウト』を初めとした、ドラゴニアの攻撃的な優位性にある。

 ミリアの雷光は、本人の視界の届くところであれば自由自在に動かすことができる。対する陵弥は、霊装が剣の形をしている以上、どうしても接近し、切りつける必要がある。

 故に陵弥はどうしても『間合いを詰める』という行程が不可欠であり、ミリアの自由自在な雷光は、それを簡単に防ぎ、牽制も攻撃も悠々と行うことができる。近接タイプの陵弥にとって、ミリアのドラゴニアは相性最悪なのだ。

 更に、仮に間合いまで到達を許したとしても、ミリアには『スプラウト』という範囲攻撃がある。

 陵弥の剣が自分を捉えることは、万に一つもない。

 それは驕りではない、能力を冷静に判断した上で下せる、絶対的な自信である。


 ――しかし、それは欺瞞であったと、彼女はこの瞬間に断じざるを得なくなる。

 急速に減速した陵弥は、空中に浮遊したまま、双剣の一本を投擲した。

 縦横無尽に跳び回りながらも、投げられた剣は弾丸のような速度で、ミリアへとまっすぐ飛来する。

「おっと!」

 ミリアはスプラウトの為の帯電を止め、ステップで難なく回避。標的を失った剣は、体育館の床に激しく突き刺さる。

「残念! そんながむしゃらな攻撃が届くとでも――」

 ミリアの浮かべた嘲笑が、次の瞬間凍り付く。

 『地極・奮迅』には、それ自体が自在に動かすことのできる呪縛が、互いを繋ぐように剣の柄に巻き付いている。

 陵弥は、投擲によって空いた左手に、その呪縛を握りしめていた。

 そのまま、グンッと綱を引く。

 突き刺さった剣が弾かれ、ステップしたミリアに飛びかかった。

「ッ――『天針』!」

 ミリアは咄嗟に針を創造。飛びかかる剣を迎え撃つ。

 揚力を上乗せした斬激は腕による一撃にも劣らず、ドラゴニアの針を打ち砕き、ミリアに尻餅を着かせた。

「きゃっ!?」

「見たか! リーチごときで得意げになってるから、そうやって足下掬われるんだよ! 呪縛伸張――極大射程!」

 地面に着地した陵弥は、自らの背後で繋がる呪縛を伸ばす。

 三叉の呪縛に、二対の剣。呪符で構成された合計五本の伸縮自在な陵弥の第二の腕が、孔雀の羽のように扇状に広がっていく。

 剣が繋がる綱を握りしめ、陵弥は自らも回転。独楽のように剣を操り、長大に伸びた間合いでもってミリアに躍り掛かる。

 自在に動く綱の先端の剣は、さながら鞭のような予測不能の動きでミリアを狙う。単調ながら大胆なその動きに、ミリアもオーバーな動作での回避を強いられる。

 体制が安定しなければ、ドラゴニアも容易には発動できない。周囲を弾ける黄金の光は、揺らめくばかりで特定の形を維持できないでいた。

 予想以上に、攻守は簡単に反転した。

 長いリーチを維持しながら、陵弥は自らも距離を詰め、背中の三叉の呪符での捕縛も狙う。

 呪縛の持つ、魔封じ――対象の霊素供給を遮断し無力化する効果は、捕らえさえすれば、相手の能力も含めた自由を奪うことができる。

 しかし、完璧に封殺できるわけではない。ミリアほどの強力な能力なら、全力の放電さえすれば、簡単に離脱できるだろう。

 だが、捕縛から離脱の間には、当然にして大きな隙ができる。僅か数秒であろうと、陵弥はその瞬間に勝負を決する自信があった。

 普段なら難なく打ち落とされる呪符の攻撃だろうが、今のミリアは体制を崩している。

 ミリアは強い。だからこそ、緑な反撃も行えないこの瞬間が、最高のチャンスなのだ。


 攻撃を切らすな。追従を絶やすな。

 追い込み続け、余裕を与えるな。

 この優位な時間を、できるだけ長く引き延ばし、勝利へと繋げるんだ!


 ミリアは未だ、形にならない光を纏い続けている。追い縋る呪符を払いのけはするが、縦横無尽に迫る陵弥の攻撃を、間一髪の所で避け続けている。

 英国少女の汗の滴る表情が、陵弥が彼女を追い込んでいる何よりの証拠だ。見守る歓声も、陵弥の勝利を後押しするように、熱く激しく高まっていく。

 しかし、途絶えることのない猛攻には、次第に焦りが滲み始めていた。

「この……さっさと倒れやがれ!」

 綱を華麗に操り、剣を薙ぎ、呪縛を飛ばす。

 苛烈な攻撃、そのどれもが、ミリアを捉えるための渾身の一撃だ。

 なのに――届かない。

 呪縛を巧みに扱った総計五本の攻撃にも関わらず、ミリアは紙一重ながら全てをかわし、凌いでみせるのだ。

 未だ雷光は特定の形を作らず、一見した陵弥の攻勢は変わらない。

 だというのに……攻撃は、不気味なほどに当たらない。

 圧倒的優位に立ちながら、陵弥の心境から余裕が失われていく。


 嫌な予兆を感じながら、陵弥はそれを確信に至れない。

 注視すれば、不定形なミリアの雷光が、脚部を覆うように展開されているのに気づくだろう。

 ミリアは、もう歩いてはいない。

 脚部に集中させたエネルギーは実体を形作り、さながら金斗雲のように彼女の体を持ち上げ、高速かつ自在な移動を可能にしていた。

 陵弥は気づけない。ミリアの体を覆っていた雷光が、圧倒的なエネルギーの収束から漏れ出た、ただの余波であることを。


 迸るエネルギーの凄まじさに気づいたときには、全てが完了していた。

 地面に着地したミリアが、不意に両手を胸の前に翳す。

 瞬間、恒星が誕生したような光が、空間の全てを黄金色に染めた。

「ぐっ――!?」

 意表を突く閃光に陵弥が目を伏せ、攻撃の手が緩む。

 次の瞬間には、陵弥の体に光の奔流が痛烈に叩きつけられた。

 高熱に皮膚が焼け付き、細胞全てが振動するような衝撃。

 意識の飛ぶような攻撃に、陵弥は受身もとれずに体育館の地面に墜落した。

「陵弥!?」

 歓声に紛れて、伊吹の悲痛な声がする。

 うつ伏せに床に倒れた陵弥が、ぐっと上体を持ち上げる。

「く、そ……べらぼうだな、やっぱり」

 どうやら今のは余波だったらしい。傷はそこまで深くない。多少痺れるが、支障はない。

 だが……ただの余波で、これだけの威力とは。

 顔を上げた陵弥は、はたして眼前に広がる光景に驚愕した。

 体育館に、竜が誕生していた。

 黄金の光で象られた、和を想起させる蛇のように胴長の竜だ。体長は五メートルを越え、体育館の中央に、その巨体を鎮座させている。

 猛禽類に似た目や杭のような歯は精巧に形作られ、全てが黄金に煌めいている。決闘の場でなければ、ため息をついて見惚れてしまったはずだ。

 その巨体と精緻さは、尋常ならざるエネルギー故になせる技だ。

 生み出した怪物の体に乗り、ミリアは仁王立ちのまま、陵弥を強く睥睨した。

「あっはっは! 自分が小山の猿大将と気づいた気分はどうかしら!? さあ、唇噛みしめて敗北の味を知る時間よ! ドラゴニア――『騎憤竜レイジ・ライド』!」

 ミリアが号令と共に陵弥を指さす。

 竜の巨体が重く動き始め……かと思えば、その尾がしなやかに揺れて、すさまじい早さで横薙ぎに襲いかかった。

「うおおっ!?」

 威圧的な尾の強襲を、陵弥は咄嗟に跳躍で回避する。足下を通過した竜の尾が、空気に反応してバリバリと激しい雷光を轟かせた。

 驚く暇もなく、飛び上がった陵弥に対し、鋭い爪が振り下ろされる。

 一つ一つが巨大なナイフのようなそれを、双剣で迎え撃つ。

 激しい硬質な音が鳴り響き、それと同時に雷が直撃したような激しい閃光が轟き、陵弥の目を眩ませた。

 視界が真っ白に染まり、吹き上がった熱が顔を打つ。その状態の陵弥に再び振るわれた尾が激突し、陵弥を体育館の隅まで弾き飛ばした。

「がっは!」

 アテナが展開した『アイギス』にぶち当たり、肺の空気が絞り出されるような衝撃に呻く。

 一見して生物のようにも見えるあの竜は『ドラゴニア』によってミリアの属性に転化させられた霊素の集合体だ。

 『騎憤竜』――それは簡単に言えば、尋常ならざる大量・高密度の霊素によって実体を持つにまで至ったエネルギーの塊だ。衝撃に反応してスパークし、その圧倒的な熱と光をぶちまける。

 通常は光を操るだけのミリアも、この竜の背に乗ることによって、高速での移動、また空中への飛翔を可能にする。

 普段もこの『騎憤竜』を使い、禍が発生した現場へと向かっているのだが……ここまで精緻で巨大な竜は、過去二年間目にしたこともない。

 ミリアの言うとおり、高い霊素濃度と、回避を続けひたすらに溜め続けた結果が、ここまで強力な竜を発現するに至ったのだろう。

 血の味がする。叩きつけられたときに、口の中を切ったらしい。べたつく紅い痰を吐き出して、陵弥は険しく細められた眼で、悠々と鎮座する竜と、その背に立つミリアを見る。

「くそ……小山の大将はどっちだよ。猿よろしく、随分と高いところが好きみたいじゃねえか」

「あ~ら、見事に猿から負け犬に転じたようね。遠吠えが虚しく響いてよ!」

 バリバリと雷が迸っている。観衆さえも息を飲み戦慄するほどの、圧倒的なエネルギーだ。

 鼓動の代わりに閃光が弾ける。強烈な生命力を感じさる眼が、陵弥をぎろりと睨みつける。

 しかし。陵弥は一切怯まず、自らを鼓舞するように、双剣を打ち鳴らし、鋼の澄んだ音を響かせた。

 ギィン! と、目の覚めるような音。

 宣言の代わりに響いたその闘志に、ミリアは胸の内を揺さぶられるような感覚がした。

 背筋を電気が走るような、喜びに似た共感。

「……その覚悟、買うわ!」

 揺るがぬ決意を秘めた強い瞳に、彼女もまた、獰猛な強い瞳を返す。

「アタシの全力で、後悔の残らない最大出力で、アンタをコテンパンにぶっ潰す!」

 笑い、ミリアは波乗りをするように、上体をぐっと反らす。

 その挙動に併せて、金色の竜がくんっと鎌首を擡げ、陵弥に向かい弾かれたように突進した。

 弾丸のような速度。圧倒されるエネルギー量。完全な回避は不可能だった。

 必死に跳躍した陵弥の直下で、黄金の爆発が起こる。その煽りを背中にもろに受け、体が焼ける痛みとともに床に叩きつけられた。

「くっ」

「遅い!」

 陵弥は即座に起きあがり、地面を蹴る。次の瞬間に尾がその位置を薙ぎ、発生した爆発が再び体を打つ。

 威力も範囲も圧倒的だ。犬がボールを転がすように、竜の嵐のような攻撃に、右へ左へと陵弥の体が飛んでいく。

 今や決闘は、ミリアの一方的な蹂躙へと変わっていた。竜の巨躯にミリア本人の攻撃も加わり、陵弥はもう満足に立つことさえ許されていない。

 気づけば会場は静まり返っている。

 攻撃は、決して止まない。

 ミリアの目は攻勢を決して崩さず、姿勢には一縷の油断も介さない。


 勝負は、未だ決してはいないからだ。

 負けを認めさせるか、戦闘不能状態まで落とし込むか。

 どれだけ吹き飛ばしても。たたき落としても。

 陵弥はその度に、立ち上がる手に、足に、力を込めるのだ。


 とうとうミリアの軽口も消える。呼吸を止めて、再び全力の『騎憤竜』を繰り出す。

 竜の突進が陵弥の土手っ腹に突き刺さり、陵弥は潰されるように壁に激突した。

 陵弥の口腔から血が吐き出され、体育館の床と黄金の身体に紅い染みを作る。

 観客から悲鳴が上がる。名前を呼ぶ声がする。それらは、虚ろな目の陵弥にはもう届いてはいなかった。

 ゆっくりと、陵弥の腹から竜の頭が離れる。力を失った陵弥の身体は、壁に寄りかかるようにずり下がっていき……

「ッ――!」

 膝を着きそうになった直前、目に光が灯り、蹴破らんばかりに力強く地面を踏み鳴らした。

「はぁっ……あぶねえ、な……くそっ……」

 一瞬意識が飛んでいた陵弥は、肩を上下しながら、ようやくといった様子で精一杯の悪態を吐く。

 誰しもが、固唾を飲んで陵弥を見守っている。

 今にも剣を取りこぼしてしまいそうだ。満身創痍……辛うじて意識を繋いでいるだけであることは、誰が見ても明らかであった。

「……アタシが勝つまで、遠慮しないわよ」

 沈痛に眉尻を下げながら、ミリアは陵弥を睥睨する。

「降参する気がないなら、気絶するまで痛めつけるしかないわ……勝ち目のない戦いに躍起になって、アンタにいいことがあるの?」

 うずくまるようになって見えない陵弥に、ただ淡々と降参を進める。

 額から一筋の血を滴らせながら――陵弥は唇を上につり上げ、嗤う。

「勝ち目がないなんて……誰が決めた……っ!」

 その気勢と、瞳に宿る闘志は、全く衰えてはいない。

「お前と同じだよ――『俺の勝ち』以外、認めてたまるか!」

 再び地を蹴り、鋼を煌めかせ、呪縛を踊らせる。

 満身創痍でありながら、それを感じさせない速度と、気迫。

 ミリアはそれを――小蠅でも払うように、自らが放った光の奔流で一蹴した。

 陵弥の体を高熱の光と衝撃が直撃する。二十メートル以上吹き飛んだ陵弥は、床を二・三度跳ねると、ぐったりと倒れ伏した。

 カラン、と固い音を立てて、手から放れた双剣が落ちる。剣の枝に巻き付き互いを繋げていた呪符は、燃え尽きたのか、いつの間にかなくなっていた。

 呪符で覆われ隠れていた、黒ずんだ太古の鋼がむき出しになっている。

 目先僅か三十センチにあるはずのそれは、ぼやけた視界の中で、やけに遠くに見える。


 立たなければ。

 彼女を救う。守らなきゃ。

 俺が、やるんだ。

 いつか、きっと。あの白い靄から、共に手を取って立ち上がる。

 白の恐怖から、彼女を救い出す。

 他でもない俺が……

 あの『白』の中で手に入れた、この剣で……


 必死に言葉を並べ、鉛のように重い瞼を持ち上げる。

 チグハグな意識を総動員して、震える腕を動かし、剣へと伸ばす。

 むき出しの鋼を手に取った――その、刹那。


 ――愚昧が――

 唐突に、脳内に闇のようにどす黒い声が木霊した。

「っ――!?」

 慄く陵弥の瞳孔がぐわっと見開かれる。

 むき出しの鋼に触れた瞬間、腕が自分の意志とは無関係に動き出し、磁石にでもなったかのように力強く剣を握り込む。

 深い洞窟の底から響くような声が、鐘のように脳を揺さぶる。

 ――何と果敢無いものか。憫然たる様か。惨めで矮小な腑抜けの面よ――

 意識がソレに引きずられる。深い深淵に飲み込まれていく。

(なんっ……だ、これ……?)

 瞳孔が異常に拡張される。あり得ないトランスにひゅぅっと喉が鳴る。

 意識が彼方へ飛んでいく。一秒が無限に拡張され、ブラックホールのような黒に落ちていく。

 驚愕。戦慄。訳も分からず陵弥はただ問うことしかできない。

 声は続く。意識は闇に落ちていく。

 ――己が力を忘れたか? 気高き力を、純然たる野生を、獰猛なる餓えを――

(誰だ……っ!)

 ――忘れたならば思い出せ。慟哭した喉の震えを。浴びた血の味を。迸る力の快感を――

(お前は、誰だ……っ!)

 意識が飛ぶ。落ちる。

 反対に、こみ上がってくる。自らの内から、自分ではない何者かが。

 イメージがなだれ込んでくる。血の香り。滴る涎。獣の咆哮。

 そして何よりも強烈な――気が狂いそうな、餓え。


 ああ、ミリア=ラ=グレンデル。

 崇高にして美しいお前の、魂は何色だ?

 どんな味がする。お前の魂は、血は、柔肉は臓物は体液は。

 気高きお前の、黄金の魂は、さぞかし――

 ――美味カロウニ。


(何だっ……よ、これぇ……!)

 ――お前には力がある。”お前には我がいる”。さあ喚べ。叫ぶがいい――

 脳味噌をミキサーにかけられたような衝撃。塗り替えられる。自分がごちゃ混ぜにかき混ぜられる。

 やがて、ぷちんっと音がして、陵弥の意識が途絶える。


 ――我が名は――


 陵弥は、自らの喉が振り絞る、獣の声を聞いた。

 最後に感じたものは、ミリアの喉元を狙う自分の視界と、涎にまみれた口元と――

 酷く素直で純粋な――ぞっとするほどの、悦びの感情だった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る