第21話 学徒、馳せ参ず5
『いやーすげえな。俺はてっきり、普通の美人な恵体ドスケベ奥さんだと思ってたよ』
「本人に言ってみろよオイコラ」
『オイオイ、何のために個人回線で話してると思ってんだ、うらやまけしからんムッツリ野郎め……あのムッチムチな膝に頭乗せてたんだろ? どうなんだよぉ、やっぱ熟れてんの? 柔らかいの?』
「蚊帳の外だからって暢気なもんだな……こっちは死にかけたってのに」
霧が晴れたことで通信が回復した貴之は、いの一番に、陵弥個人に向けてそんなことを囁いた。
貫かれた肩をいーすんに簡単に処置をしてもらっていたミリアは、痛みに顔をしかめながら、二人で話している様子に舌打ちをする。
「ったく。ちょっと似像。大事なときにポンコツなんだから、今ぐらいちゃんと使いっ走られなさいよ……ったた」
『わぁーってるよ、ちゃんと視点は回してるさ……っと、陵弥。お前から見て右だ』
「了解。睦美さん!」
「はいは~い。耳朶の韻――【散】」
睦美が滑らかに言葉を紡ぎ、途端に指示された箇所の霧が晴れる。
大通りの側面にある石塀が見え、二匹の子蜘蛛の姿が露わになる。晒されたことで狼狽える二匹を、陵弥は強襲し、瞬く間に斬り伏せた。
これで十二匹目。この一帯の霧が晴れたこともあって、もう得体の知れない恐ろしさは感じられない。
銅を絶たれて尚もピクピクと痙攣する頭部に剣を突き刺し、陵弥は一息つく。
「ふぅ……大体こんなもんか?」
『実際はまだまだいるっぽいぜ。まあ、霧の外にいる限りは安全だろ』
「ミリアさんの攻撃で証明されたように、この霧はこちらの攻撃を吸収する、障壁の役割も兼ねていたようですね――シッ」
そう言い、アテナは一息。気合いと共に叩きつけた掌底で、子蜘蛛の体を爆散させ、霧の彼方に吹き飛ばした。
一度は戦意を失いかけた苛烈な攻撃も、本体が露わになりさえすれば、何とも呆気ないものだ。残った蜘蛛もその辺りは承知しているらしく、自ら霧の外に出るような真似はしてこない。
血を拭ったミリアの肩に包帯を巻きながら、いーすんも会話に加わる。
「しかし、本体を叩き霧が晴れても、この子蜘蛛が消滅するかは定かではない。一般人にとっては十分な驚異。目に付く奴は蹴散らしておいて損はないだろう」
そう言うと、いーすんはふと睦美に目を向ける。この付近の霊素を掌握し、霧を晴らしてみせた功労者は、我が子を慈しむような顔で陵弥を見つめている。
視線に気づいた睦美は、たおやかな笑みを浮かべて小首を傾げてみせる。
「なにかしら、いーすんちゃん」
「いや、詠の力は素晴らしいなと思っておっただけだ。耳朶の韻……話には聞いていたが、今世の言葉にもここまでの力が残っているのだな。神として、何となくうれしい気分だ」
「いいえ。私は言い方と聞かせ方で力を増長させているだけよ……あなた達の所有する言葉に比べれば、全然ね」
口元を押さえて微笑んでいた睦美が、スッとその目を細めさせる。
甘く嘆美な、しかし分かる人には分かる底冷えするような本気を滲ませて、睦美は言う。
「それでも……いーすんちゃんが許してくれるなら、私が極めちゃってもいいのよ?
「馬鹿を言うな、詠……お前の体は子供の物だぞ? 母の狼藉が一族郎党を根絶させるなど、愚かな話とは思わんか?」
その瞬間、いーすんの纏う空気が、僅かに天上の存在のそれに変わる。
遙か高みより人を睥睨し、人ひとりを『たかが七十億の内の一』と判断する、超常の覇気。
「……もー、冗談よぉ。皆つれないんだから」
神様の本気の凄みを見て、睦美はすぐに語気を納めて肩をすくめた。
誰にも悟られない二人のにらみ合いはそこで終わり、耐えかねたミリアの呻きが張りつめた空気を裂いた。
「ちょっ痛、痛いって、いーすんさん! キツく締めすぎ!」
「おお、すまん……うむ。綺麗に貫かれていたのは幸運だったな。大事なところは痛んでいない……こんなものでどうだ? まだ痛むか?」
「ん……そうね、痛みはするけど、ちゃんと動くわ。ありがとういーすんさん」
「なんの。しかし、苦しいなら一度引き返すことも……」
「バカ言わないでください。仮に腕が使えなくても、アタシの『ドラゴニア』には殆ど無関係よ……それに」
そこで一旦言葉を区切り、ミリアは汗ばんだ額を拭い、あえて涼しげに陵弥を見る。
「このアタシが早々に退場して、残った学徒の戦闘員があんなヘナチョコだけなんて、冗談にしても寒すぎるわ……何としても、アタシが頑張らなくちゃ」
得意気に顎を上に向けるミリアを見て、陵弥はあからさまに顔をしかめる。
「お前も本当にブレないよな……弱ってる時ぐらい、ちょっと可愛いところでも見せてみろよ」
「あら、ごめんなさいね。敗者に媚びるマゾ趣味はないの」
「ッ何度でも言うが、アレは無効試合だっ! お前には一度たりとも負けてねえ!」
「へ~~え奇遇ねえ? アタシもアンタをいたぶり足りなかった所なの! 今度こそ、アンタの惨めなベソかき顔を写真に収めて額縁に入れて毎朝鼻で笑って気持ちのいい寝覚めを送ってやるわ!」
いっそ清々しいほどの挑発を浴びせて、ミリアは一転、瞳に真剣な光を宿す。
「――だから、勝つわよ。勝って、全部を取り返して、そうして思う存分戦いましょう」
「……もちろんだ」
互いに頷きあい、ミリアは立ち上がる。支えようと駆け寄ろうとした陵弥を手で制し、自ら毅然と胸を張った。
未だ深い霧に覆われた行き先を見据え、力強く言う。
「さ、止まってる場合じゃないわ。こっちには巫女に神様二人もいるのよ。どんな敵だって楽勝よ」
「おう……待ってろよ、伊吹」
最後に陵弥が深い霧にそう呟いて、一行は再び進み始めた。
『進行方向に子蜘蛛を三体確認。二十メートル先に固まってる』
「詠、頼んだ」
「任せて。耳朶の韻――【散】」
睦美が進行方向の霧を払い、向こう百メートルほどが露わになる。
姿を現した子蜘蛛三体は、背水の陣とばかりに、叫びを上げて襲いかかってくる。
しかし、陵弥が身構え、蜘蛛が最初の一歩を踏み出すよりも早く、黄金の奔流が走りその蜘蛛達を一瞬で吹き飛ばした。
手持ちぶさたになった剣を納めて隣を見れば、金髪美少女のしたり顔。
「……でかした、ミリア」
「ふふんっ。どーいたしまして。もっと褒めてもいいのよ?」
「かわいいぞ、ミリア」
「なっ……バーカ!」
どうやら褒め殺しが効果的らしい。今度からイジるのに使えそうだ。
このルーチンを繰り返しながら、全く危なげなく前へと進んでいく。
前進する度に背後の空間は霧に包まれていき、直径百メートルの晴れた空間を維持しながら進む。
そうして、数分。
「【散】――あら?」
同じように言葉を紡いでいた睦美が、感じた違和感に声のトーンを上げる。
ザァッと晴れたかに思えた目の前の空間は、次の瞬間には、まるで水が低いところに流れ込むように霧が押し寄せ、また白の世界で覆い尽くしてしまった。
その様子……今までのよりも遙かに重苦しいヘドロのような靄に、誰ともなく口元を押さえる。
『や――な――到着、だ』
ノイズが混じりながらの貴之の声に、全員が顔を上に向ける。
深い霧の向こうに、果たしてその建物は姿を現した。
数時間前にはミリアと陵弥の決闘に沸いていたそこは、同じ建物とはとうてい思えない。
深い霧の中、まるで廃墟のように静かに鎮座し、得も言えないおどろおどろしい迫力を醸し出している。
明らかに今までと異なる、異様な恐怖と圧力。いーすんさえ背筋を震わせ、居住まいを正す。
隊列の先頭でしばらく目を閉じ状態を探っていた睦美が、静かに首を振った。
「……ダメね、向こうの邪な存在が強すぎる。霧自体が意志を持っているみたい。このままでは到底払えそうもないわ」
物理的な驚異への対抗策を持たない睦美は、流石に気味が悪くなったか、そそくさと隊列の真ん中、陵弥の背中に回る。
「ごめんね陵くん、皆。せめてこの霧の根元……本体の力が一瞬でも弱まればいけると思うんだけど」
「いや、ここまでこれただけでも十分すぎる。楽にしておくといい」
いーすんが言い、睦美の背中をポンポンと叩く。
アテナが腕のアイギスを撫で、表情を険しく引き締める。
「いよいよ本番ですね……あの体育館の中にクレバスがあり、尋常でない量の霊素が吹き出し、充満しています」
「うむ。ここから先の霊素濃度は異次元の域。空間や概念が歪んでいるやもしらん……敵は狡猾。本人さえ気づかずに命を奪われていても、何ら不思議ではない」
「っ……」
背中から掛かるいーすんの言葉に、陵弥は喉を鳴らす。
記憶の中、自分の人生の中。幾度となく自分を苛み、大切な人を蝕み続けた霊障の、本性。
一度入れば、悲鳴さえも出られない。存在が消化され、人知れず息絶えてしまうような、最も暗くおぞましい、白の深淵。
魂に刻まれたトラウマ、その何倍も濃密な目の前の白が、最悪の光景を想起させる。
どうしようもなく体が竦み上がる。恐怖に体が浮き上がり、肺が鷲掴みにされたように呼吸が苦しい。気持ちの悪い汗がこめかみを伝う。
この霧の中、あの建物の中で、伊吹が助けを待っている。
今すぐにでも助けに飛び出したい足が、恐れに震える。
放っておけば、数分と経たずに、膝から崩れ落ちてしまったかもしれない。
陵弥に理性を引き戻させたのは、手から伝わる温もりだった。
ふと視線を下げれば、細く白い手が、自分の左手を力強く握り込んでいた。
顔を上げれば、息がかかるほどの距離に、ミリアの顔がある。
「勘違いしないでよね。アンタが暴走しないために、仕方なくするんだから……死なれたら寝覚めが悪いのよ。これから一生夢でアンタの顔見続けるなんて、絶対に御免なんだから」
怖さと、照れと、安心感と、自信と不安と期待と。
複雑に絡み合う感情の中でミリアが選択したのは、彼女に最もよく似合う、生意気な笑顔だった。
シャツの左肩には穴が開き、血の紅が染みて塗れている。裂けるような痛みが走っているはずだ。それでも、こちらに向ける気丈な笑みには、その片鱗も見せない。
相変わらず……強い奴だ。
挑発するような顔を見て、陵弥もまた唇を引き上げ、手を握り返す。
アテナを中心に睦美と三人で固まりながら、いーすんが厳しく告げる。
「いいか、お互いを確認しあい、決して離れるな!」
頷き、握った手を、更に指を絡めて強く繋ぎあう。
「行くわよ!」
「おう!」
力強いかけ声に頷きあう。
共に腹の底を震わせて、二人同時に、白の深淵へと足を踏み入れ――
体が霧に飲まれた次の瞬間、全ての概念が掻き消えた。
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