第22話 ただ、君の為なら


 無限の微睡みの中にいるようだった。

 体感的には、そこはまるで宇宙空間だ。踏み出した足はまるで手応えを掴まず、突然世界そのものが九十度回転したように、前に落下するような感覚が襲う。

 ミリアは瞬間的に頭を振り、ぐんと足に力を込めた。

 力強い一歩は確かに床を捉え、乱れた重力が是正される。

 しかしそれも一瞬。意識はすぐに霞み、瞼がとろんと下がるような、猛烈な眠気に似た感覚がミリアを支配しようとする。

「っはぁ……」

 危うい自分の感覚に、知らずに止めていた呼吸をようやく吐く。

 息苦しい……というより、体中がとにかく重い。まるで何日も寝てないような、何もかもがぼやけて霞んでしまう感覚。一歩一歩を踏みしめて歩かなければ、平衡感覚さえ保てない。

 あんなに煩わしかった左肩の痛みが、まるで他人の怪我のように遠い。

 空中を漂っているだけの筈なのに、周囲を纏う霧の存在感は、最早沼よりも重たくのしかかる。

 身体と精神を取り巻く霧を振り払おうと、ミリアは喉を震わせる。

「ねえ……そこにいる?」

「ああ。しっかりしろ、気を強く持てよ」

 声をかければ、前を歩く彼が返事をして、握る手に力を込めてくれる。確かに温かさと存在感が、自分を落ち着けさせる。

 向こうも同じ気持ちだろう。何とも言えないむず痒さを覚えていると、今度は陵弥の方から苦しそうな声が上がる。

「なあ、どのくらい歩いた?」

「分かんないわ。時間の感覚も曖昧で……それでも長すぎる。もう一キロは歩いてる気がするわ。といっても、距離感も曖昧だけどさ」

「空間が歪んでるってわけか。いーすんさん達も見えない。ここは本当に現実なんだろうな……くそっ。早く助けないといけないのに……!」

「アンタの方が命を落とすわよ。アタシも余裕ないんだから、ちょっと落ち着きなさい……頼むから」

 互いを確認するようにハッキリと返事をする。

 手を強く握る相手の存在がなければ、どちらも、とうの昔に飲まれていただろう。

「ただ立っているだけでこの有様か……このまま戦闘なんかして大丈夫か?」

 呻く陵弥の背中も、かすかに白く霞んで見える。視界はもう三十センチとない。繋いだ手を目一杯伸ばせば、その背中も見えなくなるはずだ。

 どことなく冷たくて、何となく不安で、どうしようもなく心がざわついて。

 この感覚には、覚えがある。

 虚無感……何もないという寂しさだ。

 ミリアは、この感覚を知っている。

 白い霧がスクリーンになったように、ミリアの過去が脳裏に浮かぶ。

 飢えた悪鬼の襲撃。変わり果てた兄の形相。

 泣きじゃくりながら散り散りになって。そうして一人、どことも知れない廃屋で声を殺して恐怖に咽び泣く。

 あの地獄のような故郷で、何度となく感じていた想いだ。

「大丈夫か、ミリア?」

 ふと気づくと、陵弥が体をこちらに向けていた。

 ハッキリと確認するために、息がかかるほどの距離に近づいてくる。図々しいとも言える至近距離に、思わずドキリと心臓が跳ねる。

「さっきから辛そうだぞ。左肩、痛んだりしてないか?」

「え……ええ。大丈夫。モタモタしてらんないわ」

「なら行くぞ。このまま進んでいけば、いつかは辿り着くはずだ」

 頷くと、陵弥は再び前(といっても、方向などとうに分からなくなっているけれど)を向き、歩き始める。

 ひたむきに……ただ幼なじみを救うという一心で急ぐ様子を見て、ミリアの胸がきゅっと窄まる。

 言わずにはいられなかった。

「……あの、さ」

 おずおずと言った様子で、ミリアは口をすぼめながら言葉を紡ぐ。

「どうしたよ?」

「いや……今のうちに、お礼言っておこうと思って」

「はぁ? おい止めてくれよ、縁起でもない。それに礼を言われる筋合いもないぞ」

「まあ聞きなさいって。今から柄にもない事言うから。こんな状況じゃなきゃ言えないのよ」

 声だけはいつもの調子を気取って。それでも、瞳はどうしようもなく揺れてしまう。

 揺れる瞳は、急ぐ彼の背中を追い続ける。

「アンタの幼なじみ……大事な人なんでしょ? 二人きりの生き残りで……唯一残った、アンタの大切なもの」

「ああ、そうだ」

 一も二もなく、陵弥は首肯する。

 迷いないそれに苦笑しながら、ミリアは続ける。

「実際さ、凄いと思うのよ。そうまで大切に思える人がいるって。冗談でもなく、自分の半身なんでしょ? ……アンタにこう言うのはひんしゅくものだって分かってるけどさ。何としても守りたい人がいるって、恵まれていると思うの」

 ミリアは、言葉を紡ぐ度に、心がきゅっと窄んでいくのを感じた。

 自分も、手を繋いでいる彼も、霊障によって人生を変えられた二人だ。

 それを陵弥は、幼なじみと共に生き残った。

 降りかかった無数の苦労を、二人で生き延びた。

 喜びを倍に。苦しみを半分に。互いに同じ方向に、前を向いて。

「……恵まれている、か」

 陵弥が反芻する、咄嗟に口をついて出たそれが、今の自分の本心なのかもしれない。

「何というか、そこは『半人前』って罵ってくる所だと思ってたよ」

 陵弥が苦笑して、小馬鹿にするように目を細める。

 ああ、彼はそういう感想を抱くはずだ。

 事実、今までずっと、そう思うようにしてきた。

 気丈に、気高く、絶対に負けずに、悪を挫いて挫いてなぎ倒していく。それが、目指すべき最強の霊装士の姿だから。

 でも結局、高い志を持とうとも、自分は一人の人間であって。

 本心はやっぱり……羨ましいのだ。

 悲しみを共有し、分かちあえる存在がいることが、素直に羨ましい。


 自分は、本当にたった独り、生き残ってしまったのだから。

 陵弥が伊吹と共に分かち合った所を、ミリアは一人、感情を逸らすことで乗り越えた。

 潰れずにいられたのは、必ず復習を果たすという目的を持ち、悲しみを怒りに無理矢理変えたからだ。

 家族のいない悲しみ。故郷を奪われた虚しさ。吸血鬼に追われる恐怖と絶望。ミリアはその全てを、怒りと向上心の炎をたぎらせる薪にした。

 震えて眠れない夜があった。悲鳴を上げて飛び起きる朝があった。理由もなく死にたくなり、立てない日が続いた。

 復讐を考えなければ、未来に希望なんてなかった。

 強くなるという言い訳を作らなければ、今を生きる理由なんて考えられなかった。

 そんな危うい状態を何とかごまかしながら、ミリアは生きてきた。


 それでもミリアは、今はもう随分と楽になっていた。

 この島に来てから、一人ではなくなったのだ。

「……おい、急に黙らないでくれよ」

 期待した反応が返ってこなくて、彼が背中を向けたまま、声を張る。

 学徒として一緒に霊装士を目指し、互いに挑発と牽制を繰り返しながら、いがみ合い成長を共にした少年。

 自分はさぞ生意気だったろう。彼はさぞムカついたことだろう。

 それについては、謝る気は毛頭ない。目の前の少年がムカつくのは自分の本心だし、こんな半端な能力に負けるなんて信じられないから。

 でも……ああ、本当にそうだ。

 彼がいたお陰で、寂しくなかった。

 自分を見失わずにすんだ。

 霊装士になりたくてなりたくて、強くなりたくてなりたくて。

 そうでなければ、生きる意味さえないと考えていた。

 それ以外には、何も残っていなかったから。

 何もなくて。何も残っていなくて。強くなる意外に何か考えたら、絶望と虚無感に発狂してしまいそうで。

 そんな自分が……二年もの歳月、本当に楽しかった。

 霊装士になるという目標を持って……二人で、同じ方向を向けたから。

 我先にと手柄を取り合って、バカにしあって、他愛のないことですぐに喧嘩して。

 相変わらず霊装士にはなれなかったけれど、競争という形で感情を共有していて……このままでいいと思えるぐらい、満足していた。

 

 人は、独りでは生きられない。

 側に寄り添ってくれる人がいれば、心も身体も、強く在れる。

 天童陵弥に土峰伊吹がいたように。

 ミリア=ラ=グレンデルには……

「オイ、何か言えよ。こっちはいつお前の電撃が飛んでくるかとビクビクしてるんだからさ」

「……」

「なっ何だよ。大体、礼を言うって話だったろ? なんでそんな怖い顔で見るんだよ」

「チッ……やっぱ気の迷いだったみたいね。アンタのその顔見てるとムカつくわ」

「はぁぁ!? おまっ……せっかく聞いてやろうと思ってたのに!?」

 ミリアがツンとそっぽを向くと、眉間に皺を寄せた顔が前を向く。

 その様子を見て、ミリアも内心で納得した。

 そうだ……コイツとは、このぐらいの距離感がちょうどいい。

 互いにいがみ合って、隙あらば互いの弱みをつつき合う、ライバルぐらいの関係でいいのだ。

 だってコイツには……


 ――アタシよりも大切な人が、もういるんだから。


(っ……)

 その言葉を頭の中で呟いた瞬間、ミリアの胸を得も言えない痛みが襲った。

 深い霧に満ちていた寂しさが、不意に裂けた胸に飛び込んできたよう。

 軋む胸の冷え込むような感覚が、ただ一言を繰り返す。

 ――羨ましい。

 純粋に、たったそれだけだ。

 断じて恋心ではない。恋であるはずがない。ムカつくし、負けたくないし、そもそもコイツを彼氏に選ぶなんて、自分の品位を疑ってしまう。

 でも……誰か一人を想って、想われて。

 そんな関係……望んでも得られないそれが、本当に羨ましくて。

「……ねえ。もしもの話、なんだけどさ」

 そんな煩雑な思いが、聞こえないぐらいの声で口をつく。

 もじもじと体を揺すりながら、それでも答えを期待してしまう。

「もし……さ。万が一、アタシがピンチになることがあったら……その時、アンタは、アタシのことを……」

 独り言にもならないようなミリアの言葉は、最後まで続かなかった。

 俯いていた額が、いつの間にか止まっていた彼の背中にぶつかったからだ。

「あてっ。ちょっと、急に止まらないでよ。一体どうし――」

「――伊吹」

 譫言のように呟かれた陵弥の言葉に、ミリアの顔色も変わる。

 慌てて頭を上げて前を見れば、はたしてそこに、陵弥の求める女性の姿があった。

 うなだれる伊吹は、宙に浮かんでいるようにも見える。憔悴した顔は目を閉じ、気を失っているようだ。

 しかし……この濃霧の中にも関わらず、五メートルは離れているであろう伊吹の姿は、靄一つなくくっきりと確認できる。

 まるで霧が意図的に身を引いているような状態に、ミリアの脳内に警鐘が鳴り響く。

 まるで釣り糸に下がった餌。こちらを惑わせ誘う為の、生き餌。

 警告より先に、状況の方が転じた。宙に吊り下がったような状態のまま、伊吹がついと頭を持ち上げたのだ。

 死人のような青白い顔。色を失い絶望に染まった目が、陵弥を見つめる。

「……りょ、やぁ……!」

 絞り出すような、悲痛な声。

 溢れた感情が表情をくしゃくしゃに歪め、瞳を揺らす。

 嫌な予感が、ミリアの脊髄を走る。繋いだ手が震えてしまう。

「……罠よ。こんなのあり得ない、分かるでしょ?」

 強く断じる。

 けれどそれは、陵弥の耳には届いてはいなかった。

 伊吹の目から、涙が一粒、こぼれ落ちる。

「……助け――ッ」

 次の瞬間。ぐんと伊吹の体がくの字に折れ曲がり、白の深淵へと引きずり込まれていった。


「いやぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「ッ伊吹ぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」


 木霊し反響する絶叫。

 次の刹那には、陵弥は激高し、繋いでいたミリアの手を振り解いていた。

「バカッ!!」

 慌てたミリアが手を伸ばすも、もう遅く。瞬く間に陵弥の姿は霧の中に消え、その存在すら掴めなくなる。

 瞬く間に二人の繋がりは引き裂かれ、ミリアはたった一人、深すぎる霧に取り残される。

 それを待ちわびたように、霧の中から沸き立つように、キシキシという無数の鳴き声が聞こえてくる。

 敵の姿は全く見えない。大きさも数も、全く得体の知れない。

 状況は絶望的。

 四面楚歌の状況に――ピキッと。

 そんな音すらしそうなほどにハッキリと、ミリアの額に青筋が浮かぶ。

「……せっかく、素直になってやろうとか思ってた矢先にさぁ……あのバカは何であんなバカをするかなぁ……?」

 ヒクヒクと頬がひきつる。体がぷるぷると震え出す。

 ああ、クソ。やっぱり毒されていたか。

 らしくなく弱気だったのも、寂しいなんて思ってしまったのも。

 あのアホを求め、ましてやこれから助けようとする少女に嫉妬まで抱くなんて……全部全部、このクソッタレな霧のせいだ。

 そうだ。思い出した。

 この感情だ。腹の底から沸き上がる力。煮えたぎりグラグラと揺れる熱。

 その全てのパトスが吹き上げる、黄金の奔流。

 『ドラゴニア』。絶望から沸き上がった、憤怒の竜。

 気高き金色の光が、アタシの怒りを代弁してくれる。

 アタシに恥をかかせやがって。

 ブチノメしてやる。

 貯まった鬱憤を全て晴らしてやる。

「……退きなさい、虫けら共」

 アタシは、最強になる。

 前に立つ全てを踏み潰し、踏み台にして越えていく。

 アタシの前に立ちはだかったことを、後悔させてやる。

「アタシを等列に扱うとか、不届き甚だしいのよ……!」

 怒りを燃やせ。迸れ。

 ミリアは一つ、床を思い切り踏みならす。

 打ち付けられた床が砕け、深い白の闇に星が爆誕する。

「アタシは最強! あんな根性なしの何倍も何倍も強いのよ!」

 背後に金色の竜を産み出しながら、ミリアは声高に叫ぶ。

「だからさぁ……今のアイツは、アタシが守るって決めてんのよ!!」

 数えることすら叶わない無数の凶刃に向けて、熱く輝く光を吹き上げた。


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