第23話 ただ、君の為なら2
悲鳴の残響が霧の中に漂い続けている。
絶望に染まりきった悲痛な顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
こびり付く悲鳴を辿るようにして、陵弥は深い霧をかき分け走る。
「伊吹……伊吹っ」
時折、彼女のものであろう足や手といったものが霧の中から覗く。それを頼りに必死に追いすがろうとするも、その距離は一向に縮まろうとしない。
鳴り止まない断末魔が頭をかき乱し、彼女以外のことは、まったく考えられなくなっていた。
そうして全力疾走を続け、数分。
泥のように視界を埋めていた霧が僅かに薄れ、陵弥の足を止めさせた。
荒げる息を止められないままに、眼前の白を睨みつける。
耳が痛くなるほどの静寂。その無を割るようにして、声がする。
「……ここから、全部始まったんだよね」
物語の冒頭を歌うようにそう言って、土峰伊吹が、霧をかき分けて現れた。
霧から現れた土峰伊吹は、不自然に落ち着き払っていた。
病室のドアを開けたときに向けてくれる微笑が、陵弥の瞳に映る。
「こわくて、さびしくて、逃げられなくて。今も震えて立てなくなりそう……でもさ。何だか、懐かしいとも思わない?」
両手を広げ、踊るようにくるりと廻る。霧に包まれて尚晴れやかなワンピースがひらりと揺れた。
「世界で私たち二人だけが知っている、私たちのルーツ。始まりの場所……ね、二人っきりだよ? 誰にも邪魔されない、誰も入れない、二人だけの真っ白な世界」
楽しげに微笑み、うっとりと細めた目を陵弥に向ける。
「この前、言ったよね? 私ね、もうどうなってもいいの。ただ陵弥と一緒にいれれば、陵弥を感じられれば、もう何もいらないの。だって……好きだもん」
妖艶な微笑みで、耳元で囁かれるような甘い言葉が続く。
「私ね、陵弥の事が好きなの。どんなに苦しくても、毎日陵弥に会えるから、全然苦じゃなかった。むしろ構ってくれて、私のことをずっと考えてくれて嬉しかった……好き。本当に好き。大好き。ずっとあなたの事を考えていたい。ずっとあなたに考えられていたい。ずっとずっと……陵弥と、一緒にいたい」
スポットライトが当たっているように、胸の前で大仰に両手をかざす。
すると、その動きに反応して、白い霧が動きだした。
渦巻く白い霧は、形ある『ゆらぎ』となり、細い線が伊吹の腕を蛇のように這う。
手だけではない。足も、銅も……霧が伊吹の体を覆い、ゆらぎが形をなしていく。
無である霧から誕生したのは、まるで天女が身にまとう羽衣のような、優雅で荘厳な淡い白の着物であった。
美しく揺らめくそれが棚引き、伊吹の姿を可憐に飾る。
霧の中を淡く漂いながら、伊吹はしなやかな手を伸ばし、漂う官能的な色香で陵弥を誘う。
「だからね、陵弥……一つに、なろ? 二人だけのこの白い世界で、互いが分からなくなるぐらい混ざり合って、溶け合って、本当の意味で一つになろうよ。きっと何も考えられないぐらい、すごく幸せで、気持ちよくて、たまらないと思うよ?」
頬が紅潮している。はぁ、と艶っぽい吐息が漏れる。
陵弥は、それを……ただじっと、黙って聞いている。
「誰も何も関係ないところに行こうよ。恐怖も不安も、いっそ存在すらもないモノになろう。二人で、二人だけで、永遠に幸せになろう?」
天女のようになった伊吹の、甘い囁きが鼓膜を震わせる。
――二人の間を繋げる想いの存在は、確認するまでもないことだった。
共に命を拾い、六年もの間互いを思い合い続けた。
家族も、家も、全てを奪われた穴を、二人で埋めながら過ごしてきた。
伊吹の命が危うい状態のままの、綱渡りを続けながら、だ。
薄れて掻き消えそうになった存在を埋め、互いを触れ合って、存在と生命を確かめ合った。
お互いだけが心の拠り所で、互いの腕に包まれた場所が安息の世界だった。
最早一心同体だった。どちらかがいない世界なんて考えられなかった。
その想いは、『恋』ではなく『乞い』だ。
だから……そんな素直で実直な好意は、初めてだった。
言えなくて口を塞いでいた、当然の帰結。
「……」
敢えて言葉にしなかった気持ちだ。
口にするまでもなくて、口にすると何かが変わってしまいそうで、噤んでいた想いだ。
そんな伊吹の言葉を、ゆっくりと噛みしめる。
陵弥は、ゆっくりと頭を持ち上げ……
返答の代わりに、手にした剣の切っ先を、真っ直ぐ彼女の瞳へと突きつけた。
「それ以上、伊吹の口から汚い言葉を吐かせるな、化物」
言葉は一切の迷いなく、眼には煉獄のように赤熱した怒りだけが燃えていた。
針のように瞳孔を鋭くし、渓谷のように深い皺を刻み、獣のように喉を低く唸らせる。
「そんなくだらない媚を続けるなら、六年前に現れたことを悔いるまで惨たらしく刻んでやる……!」
艶やかな伊吹の様子を見ても、惑うそぶりすら見せない。
刃の切っ先と、それ以上に鋭く冷たい視線を受けて、伊吹は静かに押し黙り――にたぁ、と。
「……あはぁぁ」
口を三日月型に吊り上げ、およそ人とは思えない獰猛な笑みを浮かべた。
頭の捻子が飛んでしまったような猟期的な愉悦を張り付かせ、けたけたと笑う。
「そっかぁ、そぉぉぉぉかぁぁ。陵弥はてっきり、こうすればズボンおっ立てて来てくれると思ったのにぃ。ざ~~んねんだなぁぁぁぁ」
間延びした、ふざけた声。
その声音だけを聞けば、伊吹本人が嘯いているだけにも聞こえる。
それほどに自然な口調なのに、言動は吐き気を催し、孕む狂気は常軌を逸し、顔は人間が浮かべるものではない。
「ああぁぁ、応えてくれないんだぁ? 私はこんなにさぁぁ愛しているのにさぁぁぁ!」
「っ……さっさと、伊吹の中から出て行け」
今この瞬間にも爆ぜてしまいそうな怒りを自覚しながら、陵弥が剣を握る手に力を込める。
伊吹は未だ怪しい笑みを崩さず、陵弥の怒りに震える顔を値踏みするように見る。
「あははぁぁ。何を言ってるの? 取り憑かれてなんかない、ありのままの私だよ? 陵弥の事がだぁ~いすきな、私なんだよぉ?」
「ッほざけよクソ野郎! 早く伊吹を解放しろ!」
陵弥の怒号を受けて、楽しくて仕方ないとばかりに笑う。喉をくつくつと鳴らし、出来の悪い子供を馬鹿にするように目尻を垂らす。
「『私』はもう完成した」
「……何だと?」
「ふふっ、分かってないんだぁ。私が今どうなってるか。この六年、何が行われていたのか」
妖艶に笑い、霧の羽衣を揺らす。
かつて見たことのないおぞましい表情は……それでもどこか、陵弥の心を揺らす彼女らしさが垣間見える。
目の前の伊吹から感じる、その変わらない感覚に、陵弥の顔に疑念が混じる。
その疑念を確証づけるように、伊吹は自らの胸に手を当てる。
「六年もの間、私は私を『教化』し続けた。魂を構成する霊素を喰らい続け、私になじませた。私の体を霊素をギリギリに絞った極限状態で生かし続け、霊素に対する適正、消費効率を極限まで引き上げた」
魂の内側で行われていた、化け物の支配とその葛藤。
それを今、まるで『加害した側さえも自分である』ように語っている。
「そうして教化を続け六年、至高の器を作り上げ、そこに魂を混ぜ入れた……憑依なんて生易しい物じゃない。多重霊魂なんて歪な物じゃない。完全な一体化……私は『私』になったんだよ。私を喰らい、私が喰らわれ、その結果、境目は無くなったの」
突然、伊吹は上体を反らし、霧の空を仰いだ。
羽衣が揺れ、深い霧が歓喜の声を上げるように低く唸る。
「お前の知る女は消えた! 私に飲まれ、私をねじ込み私になった! もう帰ることはない! お前がただ一人求め好いた女は、もうこの世にはいない! あっははぁぁぁぁ!!」
「っ――」
反射的に飛び出そうとした陵弥の体が、何かに掴まれる。
咄嗟に足下を見れば、人の指ほどの太さのある蜘蛛の糸が、彼の両足を雁字搦めに拘束し、地面に縛り付けていた。
「ぐっ……!」
蜘蛛の糸は、ボールペンほどの大きさがあれば、時速六百キロを越えるジェット機さえ止めてみせるという。陵弥がどれだけ力を加えても、足に絡みつく糸はピクリとも動かない。
全く気づくことができなかった。目の前の光景に圧倒され、身じろぎ一つできなかったから。
焦る陵弥とは対照的に、伊吹は落ち着き払った様子で傍観している。
「一瞬の隙さえあれば十分だった。だけどせっかくだから教えてあげたかったんだぁ。陵弥が無駄に過ごしたこの六年間が、どんな化物を生み出したか……自分の無力さを、絶望と一緒に刻んであげようと思ってさぁ」
「っ違う! 俺は、お前を助けるために……っ!」
「それが無駄だったって言ってるんだよぉ!」
瞬間。伊吹の背から八本の脚が飛び出し、内四本が、陵弥に向けて突き出された。
咄嗟に払った右手の剣で、右側の二本を弾く。しかし左方からの二本は、獰猛な勢いをそのままに陵弥の体を捉えた。
一つ目がわき腹を痛烈に串刺し、体を大きく折れ曲げさせる。残る一本は陵弥の首筋スレスレを掠め……しかしその節に並んだ鋸状の棘が、陵弥の肩を深々と抉り抜いた。
ぎゃぎぃっと乱雑な音が鳴り、肩の骨が悲鳴を上げて軋む。一面が白の世界に、吹き出した鮮血が新たな色を塗った。
「ぐっああああぁぁぁぁ!!」
堪えきれない痛みに絶叫する。しかし体勢は崩せなかった。左脇腹に突き刺さった脚が、陵弥の体を引っ張り、弄ぶ。
霧の中に吸い込まれていく悲鳴に、伊吹が体を抱き、ぞくぞくと身悶える。
「~~~ッあっはぁぁぁ。痛いんだ? ひとしおの痛みだよね? たまらないよね? これがっ、何もできなかったっ、自分の六年間が招いた痛みだからさぁっ!」
ぐいぐいと乱暴に陵弥の体を振り、腹から血を引き出す。突き刺さった脚の節にも鋸状の棘が付き、力が入る度に脇腹の肉を削いでいく。
積年の恨みを晴らすように、乱雑で力任せな痛み。陵弥は為す術もなく、神経を引きちぎるようなそれに、せめて沸き上がる涙を堪え、歯を割れんばかりに食いしばる。それが益々、伊吹の興奮を煽る。瞳孔がきゅうっと収縮し、紅潮した頬を湿っぽい吐息が濡らす。
ぞっとするほどの官能の色香を漂わせて、伊吹は霧に包まれた自らの肢体を撫でる。
「陵弥が手ぐすね引いてた六年間で、私は着実に手遅れになっていったんだよ? 真綿で首を絞めるように、キリキリキリキリって、ゆっくり死んでいったんだよ? 消えていく自分の魂を自覚しながら、陵弥に必死に助けを求めてたんだよ?」
被害者も加害者もなく、一体化した『私』という存在の言葉。
土峰伊吹と、その内側のものと、一つになった両者が責め立てる。
すると突然、陵弥をいたぶっていた脚の動きが止まった。
伊吹もまた気配を消し、糸が切れた人形のようにうなだれる。
陵弥はもう、彼女から目を離せない。
俯き表情を隠した伊吹は、ゆっくりと頭を持ち上げる。
……くしゃくしゃに歪んだ表情に、玉のように大きな涙が落ちた。
「助けてくれるって、信じてたのに……っ!」
「っ――」
震える唇が、絶望と悲哀にくれた呪詛を飛ばした。
ひどく純朴な声に、心が揺れた。
紛れもない、彼女の声。彼女の表情。彼女の心。
戦慄し、体が急速に力と温度を失う。
その瞬間、急に脇腹に押し込まれた脚が、節に並んだ鋸状の棘で、張りつめた神経を滅茶苦茶に切り刻んだ。
「っがあああああああぁぁぁぁぁぁぁぁああ!!」
「あっははははははははははぁぁ!! っきゃはははははぁぁぁぁあ!!」
絶叫と愉悦の嬌声が、深い霧に飲まれて消える。
この霧に包まれた世界は、全てが彼女の支配下に置かれていた。彼女の思いのままの亜空間。どれだけ叫ぼうとも、その悲鳴は届きはしない。
ただ一人真実を知った陵弥は、緩やかに死に落ちていく。
痛みと絶望で、陵弥はもう立つ気力さえも失っていた。血に塗れた脚にもたれかかり、浅く荒い呼吸を繰り返す。
「……お別れだね、陵弥」
何度となく陵弥の心を落ち着かせた、諭すような声。
伊吹の背から伸びる脚が節を伸ばし、威光のような放射線を描く。
「陵弥を殺したら、私はこの霧を晴らす。陵弥は蜘蛛と相打ちになったってことにしてあげるよ。よかったね。命をとして私とみんなを救った、英雄になれるよ?」
「……」
「そして私は悲劇のヒロインとして、皆から迎えられる。正体は誰にも関知されることはない。今までのように隠れる必要すらない。だって私は『私』なんだから……例え神様でも、寝首をかける」
じゅるりと舌なめずりをし、紅色の唇に垂れた涎を舐め取る。喜色に火照った顔が、興奮に身悶える。
「本土に渡って、私はまたクレバスを開く。世界を霧で包み込み、多くの人を、神を喰らってやる……だから、陵弥は邪魔なの。ホラ、死人に口なしって言うじゃない?」
広げていた一本、右上の足が、鎌首を擡げるように先端を折り曲げる。
槍のような穂先が、陵弥の額を冷徹に狙う。
「陵弥だけはきっと、私の変化に気づいちゃう。だから辻褄合わせも踏まえて、あなただけは殺すって決めてた。だけどせっかくなら、絶望のどん底にたたき落として、それから殺したかったんだ」
数秒後に人を殺すというのに、伊吹は穏やかな笑みを浮かべていた。一本の脚が、引き絞られた弓のように風を切った。
「六年間お疲れさま……じゃ、さようなら」
感慨のない空虚な声と共に、凶刃が陵弥の頭部に迫る。
頭蓋を割り命の灯火が消える、その未来の寸前で、陵弥の瞳に生気が吹き返した。
ほとんど反射に近い判断で、陵弥は回避することを拒否。血が滴る左手を持ち上げて盾にする。
ナイフのように鋭い脚は、陵弥の手を容易に貫く。豆腐に指を刺すような呆気なさで、陵弥の掌が鮮血を迸らせる。
陵弥は、そこで自らの手を上に押し上げた。弾丸のような脚に対して横から押し込むような力を加えて、頭部を狙っていた軌道を剃らす。
しかし脚による強烈な一撃は、陵弥の左手を確実に破壊した。次第に太くなっていく脚は刺突の穴をゴリゴリと押し広げ、節に連なった棘が掌から手首にかけてを切り裂き、鮮血を吹き上げさせる。
チェーンソーのような棘の連なりにギャリギャリと骨が粉砕されていく。言葉通り骨に響く激痛を、陵弥は割れんばかりに歯を食いしばり……更に手に力を込める。
手がどうなろうと構わない。筋肉を収縮させ、意識を離れて悶える手を強引に動かして、抜けていく脚を握り込む。
「んんっ?」
予想にしなかった抵抗に伊吹が声を上げる。トドメのつもりで放った一撃は狙いを外れ、陵弥の左手を犠牲にして彼に掴まれた。
陵弥はそのまま腕を引いて、脚を、そして伊吹の体を引き寄せる。脚の節がピンと伸びきっていたために、彼女の体は宙を舞い、彼の体に肉薄する。
「ッ――」
「おっと」
息を止めて振るわれた右手の刀にはまるで殺気が籠められておらず、伊吹がほんの少し出した脚で簡単に防がれる。
伊吹が着地したのは陵弥と目と鼻の先。肩を当て抱き合うようにして、互いの顔を見つめ合う。
息も絶え絶えに、今にも倒れそうに蒼白な陵弥の顔。
それを喜色にまみれた顔で見上げて、伊吹は細い指の腹で、彼の紫色の唇をなぞる。
こんな状況で。希望もない白の渦中でありながら……こちらを睨みつける目だけは、死んでいない。
彼の眼孔には、獰猛な獣のような怒りと恨みが、炎のように黒々と燃えている。
「……その目。六年間ずっと、その目が怖くて、憎らしかった」
飛び散った血がこびりついた頬に手を添えて、もっとよく見せてと言うように顔を近づける。額がつくほどの近さで、陵弥の瞳と、その内側のものをのぞき込む。
「かつてその野生に、私は辛酸を舐めた。煮えたぎる怒りを押し殺し、身を隠さざるを得なかった。でも……ふふっ。どんな猛獣も、檻に入れてしまえばただのペット。こうなってしまえば可愛いものだね」
伊吹は顔を彼の頬に寄せると、こびりついた血を舐め取った。紅色の舌が頬をなぞり、生温かい感触が陵弥の神経をくすぐる。
「ふふ、おいし……待ち望んでた、陵弥の味ぃ」
ぞくぞくと体が震える。艶っぽい吐息が顔にかかる。
「喰ってやる。首を噛み千切り、溢れる血を煤ってやる。六年前貴様に破れた……その恨みを全て飲み込み、消化してやる」
間近で見る彼女の顔は、やはり人の物ではなかった。らんらんと輝く目。避けたように大きな三日月の口。
その口が大きく開かれる。真っ直ぐ、陵弥の首筋めがけて牙が飛ぶ。
「っ――」
そう――もう、彼女じゃない。
だから繰り出された一撃に、ためらいはなかった。
だらんと垂れていた右手の剣を振り上げ、伊吹の肩に突き立てた。
羽衣が防壁のようにそれを防ごうとするも、一蹴。更に力を込めて伊吹の肩を貫通し、そのまま押し込んで彼女の口も首から引き剥がす。
吹き飛ばそうとしたものの、それは伊吹が許さなかった。足を曲げ勢いにブレーキをかけ、更に腹に刺さった脚に力を込めて、肉を削ぐと同時に彼の体もつんのめさせる。
結局また肉薄させられた陵弥は、羽衣の胸ぐらを掴んで立つ。肩に刺さった剣からは血が滲み、霧の羽衣を紅く染めていく。
「いったぁ……もう、どうせ死ぬんならおとなしく……」
呆れたような伊吹が、ようやくその事実に気づき、眉を潜める。
右手の剣も失った陵弥は、棒立ちで伊吹の胸元を掴むだけだ。
左手は手遅れなほど大量の血を吹き出し、だらりと垂れている。
瀕死の棒立ち……だけど、ちょっと待て。
彼が扱うのは……双剣だろう?
「お前……もう一方はどこに――ッ!」
「余裕ぶっこいてるから気づかないんだよ、馬鹿」
振り絞るような、陵弥の嘲笑。
戦慄する。気づくのが遅すぎた。
肩に刺さった剣。そこに繋がった呪符の綱は、遙か後方に伸び、霧の向こうへと消えている。
そしてその呪符には……注視しなければ分からない、細い針金のような金色の光が巻き付いていた。
陵弥は今一度、魂を振り絞って、体に力を漲らせる。
彼女はもう、彼女ではないかもしれない。
助けることは不可能かもしれない。
でも……それでも。
絶対に――このまま、死んでたまるものか!
「ッミリアアアァァァァァァァァァァァァ!!」
叫ぶ。届くことを信じて声を張り上げる。
果たしてその声は、金色の糸の先、霧の彼方から――返ってきた。
「ドラゴニア、限界出力――『スプラウト』!!」
凛と張る美声と共に、空気がつんざく金切り音。
金色の光が深い霧を吹き飛ばし、弾ける。
呪符と巻き付いた金の針金を導火線のようにして、雷は疾り、伊吹の体を飲み込んだ。
「ぎっいいぃぃ――ッ!?」
伊吹が初めて上げる、苦悶の声。
彼女に触れていた陵弥まで感電し、意識が明滅する。
全力の一撃。全てを屠る最強の雷光。
だからこそいいのだ。強力故に間違いなく、この一撃で全てが満了する。
一人じゃないから。
「耳朶の韻――三拍拡唱【散】!」
こんなにも心強い――仲間がいるのだ。
再び霧の彼方から響く、睦美の声。
そう、一瞬でいい。一瞬でも彼女の気が緩み、霧の支配が途切れれば――後は睦美が、全てを掌握する。
鈴の音のように空間を伝う声が、世界を震わせる。
気圧が急激に変動したような、ぐんと体が引っ張られる感覚。直感で察した。現実に戻ったのだ。
次いで、霧が晴れる。まるで竜巻のように霧が巻き上げられ、虚空に消えていく。
「おのれぇぇぇぇぇぇぇぁぁぁああ!!」
伊吹が悪鬼の形相で、倒れ込む陵弥に脚を振りかざす。
その攻撃に、残りわずかな霧を払って、アテナが割り込んだ。
アイギスで作られた銅色の防壁が、左手の盾と右手を包む。
左手のアイギスで刺突を受け止め、そのまま踊るように体を回し、鳩尾に右の掌底。神の一撃に霧の羽衣全体が呻くように軋み、伊吹の体は彼方へと吹き飛ぶ。
「無事!? ……じゃないわよねこのアホ!」
そんな怒声と一緒に、ミリアも霧をかき分けて駆け寄ってくる。
血だらけの陵弥を抱きかかえて、ミリアは眉間にしわを寄せる。怒ってるような、泣いてるような、とにかく強い感情が浮かんでいる。
「スマートに計画立ててた癖に、アンタ完璧に我を忘れてたでしょ! 何かあったらどうする気だったのよ!」
いっそ泣きだしそうに瞳を揺らすミリア。ひどく久しぶりに見たようなその顔に、陵弥は痛みを忘れて、思わず笑みをこぼす。
「悪い……でもうまくいったろ? お前なら何とかしてくれるって、信じてたからさ」
その途端、ミリアの顔がぐっと歪んだ。陵弥を抱える腕にぎゅっと力が入って、赤く腫らした顔でそっぽを向く。
「っ……ええそうよ。上手くいったわよ! アタシが優秀だからね! アタシが最強だったお陰なんだから覚えときなさいよバーカ!」
この怒声さえも、温かく胸に染みる。白に侵され、溶かされていた心がほぐれていく。
しかし、悠長にしている時間はなかった。霧を割くようにして、蜘蛛の脚がミリアとアテナを狙う。
アテナは展開したアイギスの防壁で全てをいなす。ミリアは足下の地面を爆発させて、大きく後方に飛んだ。
霧を抜けて飛んだミリアは、競技体育館の入り口近くに着地する。そこにいた睦美に向けて、陵弥の体を転がす。
「陵くん!」
「早急に治療! 傷が相当深いわ!」
息を飲む睦美に託して、ミリアは前を睨みつける。
霧はすでに晴れきって、競技体育館の全貌が露わになる。
しかし、すでにそこは見慣れた景色ではなくなっていた。霧が晴れて尚、室内は真っ白に染められていたのだ。
蜘蛛の巣だ。壁一面に太い蜘蛛の糸が張り巡らされ、部屋をびっしりと覆い尽くしていた。指ほどもある糸は空間に縦横無尽に引かれていて、まるでジャングルジムのような光景になってしまっている。
三百六十度を糸で覆われたそれは、まるで繭の中のようだ。霧とも違う不気味な白色に、ぞっと背筋がすくみ上がる。
「あはぁぁ……! 今のは痛かったよぉ、ミリアちゃん。恨めしいなぁ……憎らしいなぁぁぁぁ!」
天井近くの糸に背中から伸びた脚をかけて、伊吹が獰猛な笑みを浮かべてミリアを睥睨する。
狂気を孕んだ顔は、吐き気を催しそうな邪悪を感じさせる。ミリアは思わず顔をひきつらせたじろぐ。
「何よ、人が変わっちゃってるじゃない。どうしちゃったわけ?」
「っ……化物が、伊吹の魂と一体化したらしい。六年かけて、境目を完全に無くしたって」
「何それ、憑依とは違うの?」
ミリアの疑問には、陵弥を抱える睦美が答えた。柔和な表情を険しく引き締め、首を横に振る。
「残念だけど、憑依よりもっと酷いわ……伊吹ちゃんの魂、なんの欠落もないの。取り込まれたか融合したか……私でも、引き剥がす為の綻びが何も見つからない。完全に一人の魂として完成されているわ」
「最悪にタチ悪いってことだけは分かったわ……じゃあ、どうすりゃいいのよ」
油断なく閃光を沸かせながら、ミリアが顔をしかめる。
目的は二つ。クレバスの確保と、土峰伊吹の救出だ。
ミリアがどんなに強かろうと――いや、それ故に――この閃光をミリアにぶつけるわけにはいかなかった。この霊障から伊吹を救出し、彼の元に無事還してあげなければいけない。
彼の為にも……彼女ごと殺すなんて手段は、絶対に取ってはいけない。
その逡巡を察したのだろう。伊吹は愉悦に顔を歪めて、ミリアを嘲笑する。
「んふふ……優しいなぁ。その優しさで死んじゃうかもねぇ、陵弥のライバルさん?」
「パートナーよ、お荷物」
「……お荷物ぅ?」
「ええそうよ。重荷辛みの金魚の糞野郎」
ぴきっ、と伊吹の眉間に筋が走る。
命あるものなら死を想起せずにはいられない、そんな鋭い視線も、覚悟を決めたミリアには毛ほどの恐れも抱かせない。
「アンタは殺さないわ。完膚なきまでに叩きのめしていたぶって自分の無力さを思い知らせて、その体を解放してもらう。ああっそう言えば意思のある敵と戦うのって初めてね! 化物はどんな醜い捨て台詞を吐くのかしら!? 楽しみでたまらないわ!」
「貴様……!」
ぶおっと衝撃がミリアを中心に起こり、目も眩む閃光が世界を包む。
背中から黄金の光を吹き上げて、ミリアは獣のように低く重心を落とす。
「さあ、命乞いを聞かせなさい……
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