第27話 気高き野生


「……終わりだ、化物」

 自分に言い聞かせるように、陵弥は自ら放った言葉を噛みしめる。

 万感の思いを込めて、陵弥は足で、うつ伏せの禍の身体を転した。


 否応なしに、鼓動が早くなる。

 呼吸は浅くなり、緊張が体を縛り、心を堅くする。

 落ち着いた心境ではなかった。疲弊した心は、まるで反動のように緩んでいた。

 ――誰もが、失念していたのだ。

 元来、妖とは……その心の隙につけ込むモノなのだと。


 転がり、仰向けになった禍。

 陵弥の視界に飛び込んできたのは――目に大粒の涙を溜めた、土峰伊吹の顔だった。

「陵弥ぁ……」

「っ――!?」

 くしゃくしゃに歪んだ顔が、悲痛な声で名前を呼ぶ。

「いかんっ、天童!!」

 いーすんが叫ぶ。それより前に、頭では理解していた。

 だが、一瞬でも逡巡があれば、それで十分なのだ。


 次の刹那。陵弥が反応するより遙かに早く。伊吹の真っ赤に裂けた口が、陵弥の首筋に牙を突き立てた。

「いぐっ!?」

「道連レダ……」

 背筋が凍り付くようなおどろおどろしい声が鳴り、更に深く牙が突き立てられる。

「ぐっ、うう!」

「殺ス。貴様ダケハ、何トシテモ殺シテヤル。貴様ダケハ……!」

 恐ろしい執着が陵弥の肌を破り、血を吹き上げる。

「貴様ノ肉モ、精神モ……霧ニ紛レ、消エルガイイ!」

 そして禍は、その牙から、致命の毒を流し込んだ。

 食い込んだ牙から、真白の毒が流し込まれ、血管を通じて陵弥の体を白く染めていく。

「が、ああああああああ!!」

「天童!」

 ビキビキと体が崩壊の悲鳴を上げながら、蜘蛛の巣のように波状的に、白が広がっていく。

 首を伝い、顔を犯し、とうとう瞳まで到達し、瞳孔を真白に染める。

 激痛に瞬く陵弥の視界に、白が差し込んでくる。

 霧だ。

 全てを奪い、全てが始まったあの霧が、自分の体の内側に広がっていく。

 消えていく。飲まれていく。視界が曇り、意識が揺らぐ。とどまる事を知らない痛みさえも、霞の彼方へと遠ざかっていく。

(負けるか……! 負けて、たまるかっ!)

 陵弥は必死に頭を回し、急速に淀む意識を保つ。

 霧に染まった意識――陵弥の精神に、巨大な蜘蛛が現れた。

 らんらんと血色に輝く四つの瞳。不気味な斑模様の長大な脚。キシキシと鳴き声を漏らす、獰猛な挟角。

 とうとうその本性を現した巨大な蜘蛛が、ゆっくりと近づいてくる。

「六年ノ積年は、私モ同ジだよ」

 ノイズの混じったようなおぞましい声が、陵弥の意識に語りかける。

「あの日、貴様ニ退けラレテから、貴様ヲ食うこトダけを考エテいた」

 感情を映さない真紅の瞳が、陵弥を凝視する。

「生カシテなるものか。ただ殺しテナるものか。最モ惨ク殺してやる。お前が最も恐レルこの霧に消しテやる」

 禍は更に深く牙を突き立て、白い猛毒を流し込んだ。

「が、あっ……あぁぁ……!」

 意識に更に深い霧が差し込んでくる。

 白に埋め尽くされていく深層心理の中で、蜘蛛がゆっくりと、その長大な脚を持ち上げる。

 内側から、精神にトドメを刺す気なのだ。

(っざけんな……! 負けて、たまるかよ!)

 陵弥は必死に叫ぶ。

(ここまで来て、死んでたまるか! お前なんかに、これ以上何も奪われてたまるか!)

 俺の執念を思い出せ。怒りを燃やせ。

 認めるな。抗え。俺の魂を震わせろ。

 思い出せ。恨みを。憎しみを。

 六年の辛酸を叫べ!

(殺してやる……お前だけは絶対に、殺す!)

 視界が明滅する。意識が混濁する。

 それと相反するように、純粋な怒りと憎しみを糧に、心が、内なる魂が研ぎ澄まされていく。

「死ネェェェェェェ!」

 その葛藤をあざ笑うように、長大な脚が陵弥の意識に突き立てられた。

 精神を貫き、魂に致命の穴が開く。

 衝撃に一度大きく震え、意識が白い霧に掻き消えていく。

(ち、くしょ……ぉ)

 呻きがか細く虚に溶け、魂が白に染まっていく。

 その中で陵弥は……餓えに似た、不思議な感覚を抱いた。


 ――喰ラエ。

 最後に、彼のものではないそんな声を聞いて、陵弥の意識は途切れる。

 次の瞬間、貫かれた穴から、黒々とした闇が間欠泉のように吹き上がり、白い霧を塗りつぶした。

「これは!?」

 怯え混じりの驚愕の声を上げ、蜘蛛が後ずさる。

 せわしなく動くその脚を、黒い靄が絡め取り、引き留めた。

「ヒッ」

 絞り出すような悲鳴を余所に、黒い靄は瞬く間に白をかき消し、蜘蛛の身体を覆っていく。

 泥のように重く漂う闇が、意志を持つように揺らめき、一つの形へとまとまっていく。

 四つの瞳が、闇色の姿をありありと目撃する。

 ――アギトだ。

 鋸のように鋭い歯を持った顎が二つ、闇の霧を基底として、陵弥の身体から生まれ出る。

 おぞましく滴る涎。荒々しく熱い息。

 獰猛に満ち満ちた獣の野生が、白を瞬く間に覆い尽くし、喰らっていく。

「何だっ……私は知らないぞ! そんな……だと!?」

 蜘蛛の四つの眼球は、ただその野生を、克明に目撃する。

 陵弥の世界は、すでに真っ黒に塗りつぶされていた。二つの顎はますます明瞭に、その姿を現している。

 ――興り過ぎだ、蟲風情が。

 地獄の底から響くようなうなり声。

 双頭の獣が、蜘蛛よりもさらに巨大な頭を擡げ、睥睨する。

 ――貴様のその矮小な脳味噌は、六年前の件を忘れたと見える。手を抜き、生かしてやったというのに……愚かな。

 荒々しさの中に、どこか高貴な意志を感じさせる。そんな高位の声に、蜘蛛の魂が震える。

 意志を手に入れ、六年の歳月を費やし力を得て。

 禍は、自らの誉れが驕りであることを。

 自分が矮小な存在であることを、思い知らされた。


 ――何故見過ごしたか分かるか? ……不味いからだ。筋張った脆弱な蟲なぞ、なんの足しにもなりはしない。


 ……何故? それはこちらの台詞だ。

 闇より深い無限の黒に、禍は萎縮しきった心を軋ませる。


 ――だが、我が器を崩そうとするのは許さぬ。今の器は気に入っているのでな。多少歯に挟まるのは見過ごしてやろうではないか。


 ……私は、一体何を呼び起こしてしまったのだ。

 何故、ただの男にこれほどのものが!?


 賢しく、強い力を持つ禍だからこそ、本能が理解した。

 目の前の相手は、勝ち負けの次元を超越した相手であると。

 天災。まるで神の雷かのように。抵抗すら許されず生を手放すしか、取り得る術はないのだ。

 彼の魂を貫いた瞬間。いや、ともすれば六年前に既に、死の運命は決まっていた。


「ヒッィィ……」

 ――抗うな、蟲。貴様には諦観さえ贅沢だ。

 二つの顎が開かれ、闇に飲まれていく。

 身が裂け、間接が割れ、租借されていく。

「キ、ィ、イアアアアアアァァァァアアアアッ!!」

 六年を経て轟いた最期の断末魔は、呆気ないほどに恐怖に染まった、醜い獣のソレだった。

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