第28話 気高き野生2
判然としない意識の中で、陵弥は昔の事を思い出していた。
それは白い霧の記憶。今はもう朧気な、六年前のあの日のこと。
途切れていく悲鳴に耳を病み、方向感覚も朧気な中。共にいた幼なじみを捜していた陵弥は、霧の中に小さな祠を見つけた。
祠に奉られていた双剣を手にした幼い陵弥は、瞬間、意識を失った。
陵弥は、その記憶を、それ以上掘り起こそうとはしていなかった。
バベルに保護されるまで自我を失っていた陵弥は、意識を失う一瞬前。その刹那に声を聞いていたのだ。
目を閉じたらそこにある……気づくとそんな暗闇だった。
その闇の中から、低い、地の底から覗く業火のようなうなり声がする。
――助かりたいか?
エコーのかかった、脳内に直接語りかけるような声。その荘厳さに、幼心でさえ、ぴりりと神経が逆立った。
恐ろしい、でも心がスッと研ぎ澄まされるような、強い声。
霧の中をさまよって、訳も分からず泣きじゃくっていた陵弥は……その声に、ハッキリと言葉を返した。
「助けたい」
深い理由などなかった。ただ、白い霧をさまよっていた陵弥の頭は、そのことしか考えていなかったのだ。
グルル、と低いうなり声。笑ったのだと、何となく伝わった。
――強い魂の香りを感じていたが……なるほど、面白い。戯れのつもりだったが、そんな殊勝な言葉が来るとは思わなんだ。
「……僕を、食べるの?」
――そう思うか?
「みんな、誰かに食べられてる……ねえ、食べる前に、僕のお願いを聞いて。助けたい人がいるんだ」
――先を急ぐな、童。我は餌となる者も選ぶ。そこらで騒いでいる小物と一緒にするな。
諭す言葉には、先を導くような優しさすら感じさせた。
――『大崩落』……神が墜ち、世に力が満ち満ちている。洪水の如き混沌よ。愉快でたまらん……らしくもなく、体が疼いて仕方がないのだ。
「……あなたは、神様ですか?」
――神様……ふむ、悪くない響きだ。せっかくの乱世だ。目指すのも悪くはなかろうて。
ぴりぴりと、肌が焦げ付くような感覚。
じろじろと品定めするような視線を感じた後、ソレは言った。
――そうだな。では、取引をしよう。
喉を鳴らし、異形は愉快そうに声の調子を上げた。
――童、我の供物となれ。
「くもつ……?」
――貴様の魂は非凡だ。だが輝きを宿している。純朴な、強い意志。汚れなき崇高さだ……喰うには惜しい。少なくとも、こんな下らん場所で見限るべきではなさそうだ。
「助けてくれるの?」
――ひとまず、な。お前に我の力をやろう。魂を研磨し、鍛錬を積むがいい……他でもない、我の餌と成るために。
どこからかざぁっと風が吹く。匂いをかがれているような気がした。
目には見えない、何か大いなる者が、すぐそこにいる。
人語を解すその存在に触れてみたくて、陵弥は両手を前に伸ばす。
その手がぱぁっと光り輝き、次の瞬間には、呪符で覆われた双剣が握られていた。
――地を極め、生の頂点に座し、己の命全てを賭して奮い立て。『地極・奮迅』……これは、その片鱗だ。
手に収まったそこを通して、声がする。
――尊き生を謳歌しろ。獰猛に力を貪れ。己の野望を遂げるがいい。そうして肥え、盛りきった貴様の魂を……今際として、我に差し出すがいい。気高き貴様を糧とすれば、その時こそ、我は『地極の双頭狼』として世を統べることだろう。
一つ、ソレは高らかな遠吠えをした。
一つの魂が二つの声を奏で、重なる。
目が覚めるような、力強い遠吠えだった。ビリビリと、体が内側まで震える。
――願え。求めろ。そして、我の力を用い勝ち取るがいい。それこそが、貴様を強く、旨くするだろう。
最後にその声を聞いて、陵弥の意識は閉ざされた。
……今にして思えば。
思い出すことはなくても、忘れることはなかった。
記憶の片隅に封を閉じられ、引き出すことをしなかった。
だって、その必要はなかったから。
願い続ける。求め続ける。
強くなることを、幸せをつかみ取ることを、至上の使命とする。
……六年前のあの日から、そんなの、言われなくても当然だったから。
幸せを願わない日なんてなかった。自分の強さに満足した日などなかった。
――何故だ?
今一度、暗い闇の底から、そう声が聞こえた。
問われれば、返す。
あの時のように、それが当然だと言うように、毅然と言葉を返した。
「一人じゃなかったからだ」
守りたい人がいた。
越えたい目の上のたんこぶがいた。
共に幸せになりたかった。
どうしても勝ちたかった。
……それだけだ。
「正直、俺はそんなに強くない。あんな蜘蛛にも負けちまうよ。お前が言うように、気高くはなれてないかもしれない……でも、俺は強くなれる」
一息付いて、高らかに、誇らしげに、言う。
「俺は、人に恵まれた。誰かと共に、強くなれる……それじゃあ、不満かな?」
とぼけたように苦笑する。
闇の中から、低いうなり声が返ってきた。
あの時と同じだ……声は、笑っていた。
――それを気高いと言うのだ、童。
さぁ、と光が差し込んだ。
暗かった視界が開けていく。心安らぐ温もりが、体をじんわりと巡っていく。
――誇れ。これは、貴様が勝ち取った誉れだ。
荘厳で力強い声が、背中を押す。
それに誘われるままに、陵弥はゆっくりと瞼を開けた。
目が覚めたそこは、あの時と同じ競技体育館。
床板が抜け、壁が剥がれ落ち凄惨な様相になっているが、あれほど夥しく覆っていた蜘蛛の糸は綺麗に消え失せていた。
動かそうとした体が、ぐっと何かに押し止められる。
視線を動かせば、座り込んだ自分の体が抱きしめられていた。
ふわりと流れる黒髪から、懐かしい香りがした。
「ん……」
掠れたうめき声を上げると、背中に回された手がピクリと跳ねる。
肩口に押しつけられていた頭が、バッと飛び起きて、陵弥の顔を覗き込む。
誰よりも大切な少女が、大粒の涙を目に溜めて、そこにいた。
「陵弥……!」
絞り出すような声が、自分を呼ぶ。
嬉しくて嬉しくて、たまらなくて。そんな輝かしい感情を発露に、滴がこぼれ落ちていく。
陵弥は……大きく、ため息を吐き出した。
「ハァー……」
緊張の糸が切れ、どっと疲れが押し寄せる。そのまま、肩を抱く伊吹の胸元に、自分の頭を押しつけた。
柔らかくて、温かくて、確かな心臓の鼓動を感じる。
力強く、希望に満ちた、生命の鼓動だ。
「……おかえり、伊吹」
「っ……こっちの台詞だよ、馬鹿っ……! 心配したんだから……っ!」
感極まって、傷も厭わずに抱き寄せる。
「いててっ。ちょ、怪我してるから安静に……!」
「やだっ。やだよ。もう離れない。絶対に、離してあげないんだから……!」
涙で塗れた声が耳を擽る。溢れる感情に、陵弥の瞳も揺れる。
痛みも気にならなくなった。ただ感じる。
温かくて、嬉しくて、愛おしい。
求めてやまなかった、心からの安らぎが……今、この腕の中に、戻ってきた。
「ありがとう、陵弥……うれしい。凄くっ……! 私、生きてる。生きてるよぉ……!」
「うん……そうだな。うん……っ!」
頷き、瞳から頬を伝い、温かい滴が流れ落ちる。
そうして二人、涙を流しながら、互いの体を寄せ合う。生命に満ち満ちた、互いの鼓動を確かめ合う。
破れた天井から覗く天の裂け目が、ただ静かに、寄り添う二人をじっと見つめていた。
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